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  • 登録日2011/05/19
  • イエスは 排除された《第三項》か?

     《第三項(犠牲)排除の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現すると言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行》​現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れるであろうと。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度はぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みとして​。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは崇めるようになるのだと。  したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》をとして み​なであがめる。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として 崇めるようになるのだと。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  (菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。)    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。からである。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》といただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作っていることになって​いる。  だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  自由なご批判をあおぎます。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。