ichigpmilk の回答履歴

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  • 母親と離れるべきか。強迫性障害です

    私は19歳の時に強迫性障害にかかり、今年22歳になります。 一向に治らない苛立ちや、強迫症状の堪え、全て自分一人で抱えて来ました。医者には薬を貰っているだけです。頼りになる・甘えられる人は誰もいない真っ暗闇が永遠です しかし強迫性障害の生活なんてそんなものだ、と思っていました。家族や友人は100%解るわけではなく、自分で痛みを堪えるものだと。医者は皆ダメ。いい医者、なんてこの世には存在しない。100%解りあえる事なんてない。皆この症状の人はそう思って毎日を過ごしている。だから自分も別に、と思い込んで、気付いていませんでした。言うなれば、足が骨折しているのにランニングし続けていたと言うか、でも「なんだか足がおかしいなあ」と気付かず、痛みが体に来ている事に気付いていませんでした。去年の7月、突然首に起き上がれないほどの激痛・頭痛が起き、少しPC等をやるだけでもものすごく肩が凝る症状が現れました。が、「ゲームやPCのしすぎかもしれない」と整形外科を考えていました。まさか、心のもう破けてしまって動けない、死んでしまった痛みが首に来ているなんて、当時は気付いていませんでした。そんなものだと思っていたからです。私は結局浪人時代に強迫性障害にかかったのですが、結局字が読めない・内容を租借し理解出来ない事と成績がダメな事、治療の為実家に残りました(東京の大学を志望しており、本来病気でなければ上京する予定でした)。 しかし、近所には「下の娘さんは浪人後大学に行き、東京で今は生活している」と言う表向きの設定を考え(精神病、と言う噂に尾ひれが付かない為だそうです。母曰く)ました。よって、平日は勿論、土日も夜にこそこそと外出、知り合いに合わないルートで…と言う感じの生活を今まで送って来ました。 今考えれば以上です。友達は大学に行き、連絡はメールでするくらいで病気の事も一切知らず、だぁれにも会っていない生活が、ずっと続いていたのです。 母は専業主婦なので、実質昼間から一年中母とずっと一緒です。一番私の様子を見て、知っているのは母です。でも母とは昔から合いませんでしたが、それでも母子癒着も抜けているのでなんとか普通にやってきました。 しかし去年の首の激痛は、冬になっても治らないままでした。私は何となく、病気から、治す事から、嫌気がさしていました。どうせ一生変わりません。一生変わらない事に何かを費やしても無駄です。それは日々の私の心と脳が、私に教えています。私の治らないこの体と心と脳が、証拠です。 そして去年の大晦日。ふいにTVを皆に合わせて普段通り見て、皆に合わせて、表の世界の人の表の世界の掟に合わせて、人間的社会生活的に正しく見ていると、私はTVを見て”笑い”ました。すると母が「あはは、もっと笑えー」と言いました。その一言でキレました。今まで溜めていたものが。 私は、笑えない。もう動けない。本当は笑えない。笑いたくなんかない。この世の中に情けはない。嬉しい事は何もない。今。 何も知らない癖に。一階で笑い二階で泣いている事、何も知らない癖に…!病気の事も知ろうともしない。私は、「平気な人間だ」と思われている。違う。 もう足は壊疽している。それに、「笑えー」と言われるまで、気付きませんでした。普段なら受け流せていたものが、もう受け流せなくなっている自分に。 もう、希望が持てなくなっている自分に。気が付いたらお昼も夕飯も抜いてもお腹が空かない自分に。 その後、部屋に籠ったのち、私は苦しくなり、母に抱き付きました。 その日から、母を束縛し、母は私の奴隷、母は私の為に生きなければ気がすまない。 毎日泣き事を延々と言っても聞く事。嫌な顔をしない事。何をするにも私に許可をとる事(飲み物を飲む、トイレに行く等)。 そうしないと自分の心が保てない。 じゃあ我慢(当時は自覚がなかったけれど、家族に辛さや愚痴を一切言っていなかった、普通に合わせていた頃)してまたニコニコ笑顔で、家族の仲が乱れないようにして振る舞う? なし。そんな事をしたら私が壊れる。もっと酷い事になる。今度は何倍返しになって家族に向けるんでしょうね。 そこで考えているのが母と強制的に離れる事。 外に出られない、外にコミュニティーがない(孤独でストレスの要因になっている)、人と会話をしていない(よくない)、でもそれは実家にいては、実家では私はいない事になっています。世間的には存在していないのです。無理な話。ならば、私が東京へ行き、強制的に母親と離れる。 そうしないと母が倒れるか、私がエスカレートして母を殺すか。東京のサポートしてくれる場所やカウンセリング等の当てはもうあります。 自害が怖いので今まで東京での一人暮らしを避けて来ましたが、でも離れてみないと、と言うか離れないときっと母か私は死にます。

  • 母親と離れるべきか。強迫性障害です

    私は19歳の時に強迫性障害にかかり、今年22歳になります。 一向に治らない苛立ちや、強迫症状の堪え、全て自分一人で抱えて来ました。医者には薬を貰っているだけです。頼りになる・甘えられる人は誰もいない真っ暗闇が永遠です しかし強迫性障害の生活なんてそんなものだ、と思っていました。家族や友人は100%解るわけではなく、自分で痛みを堪えるものだと。医者は皆ダメ。いい医者、なんてこの世には存在しない。100%解りあえる事なんてない。皆この症状の人はそう思って毎日を過ごしている。だから自分も別に、と思い込んで、気付いていませんでした。言うなれば、足が骨折しているのにランニングし続けていたと言うか、でも「なんだか足がおかしいなあ」と気付かず、痛みが体に来ている事に気付いていませんでした。去年の7月、突然首に起き上がれないほどの激痛・頭痛が起き、少しPC等をやるだけでもものすごく肩が凝る症状が現れました。が、「ゲームやPCのしすぎかもしれない」と整形外科を考えていました。まさか、心のもう破けてしまって動けない、死んでしまった痛みが首に来ているなんて、当時は気付いていませんでした。そんなものだと思っていたからです。私は結局浪人時代に強迫性障害にかかったのですが、結局字が読めない・内容を租借し理解出来ない事と成績がダメな事、治療の為実家に残りました(東京の大学を志望しており、本来病気でなければ上京する予定でした)。 しかし、近所には「下の娘さんは浪人後大学に行き、東京で今は生活している」と言う表向きの設定を考え(精神病、と言う噂に尾ひれが付かない為だそうです。母曰く)ました。よって、平日は勿論、土日も夜にこそこそと外出、知り合いに合わないルートで…と言う感じの生活を今まで送って来ました。 今考えれば以上です。友達は大学に行き、連絡はメールでするくらいで病気の事も一切知らず、だぁれにも会っていない生活が、ずっと続いていたのです。 母は専業主婦なので、実質昼間から一年中母とずっと一緒です。一番私の様子を見て、知っているのは母です。でも母とは昔から合いませんでしたが、それでも母子癒着も抜けているのでなんとか普通にやってきました。 しかし去年の首の激痛は、冬になっても治らないままでした。私は何となく、病気から、治す事から、嫌気がさしていました。どうせ一生変わりません。一生変わらない事に何かを費やしても無駄です。それは日々の私の心と脳が、私に教えています。私の治らないこの体と心と脳が、証拠です。 そして去年の大晦日。ふいにTVを皆に合わせて普段通り見て、皆に合わせて、表の世界の人の表の世界の掟に合わせて、人間的社会生活的に正しく見ていると、私はTVを見て”笑い”ました。すると母が「あはは、もっと笑えー」と言いました。その一言でキレました。今まで溜めていたものが。 私は、笑えない。もう動けない。本当は笑えない。笑いたくなんかない。この世の中に情けはない。嬉しい事は何もない。今。 何も知らない癖に。一階で笑い二階で泣いている事、何も知らない癖に…!病気の事も知ろうともしない。私は、「平気な人間だ」と思われている。違う。 もう足は壊疽している。それに、「笑えー」と言われるまで、気付きませんでした。普段なら受け流せていたものが、もう受け流せなくなっている自分に。 もう、希望が持てなくなっている自分に。気が付いたらお昼も夕飯も抜いてもお腹が空かない自分に。 その後、部屋に籠ったのち、私は苦しくなり、母に抱き付きました。 その日から、母を束縛し、母は私の奴隷、母は私の為に生きなければ気がすまない。 毎日泣き事を延々と言っても聞く事。嫌な顔をしない事。何をするにも私に許可をとる事(飲み物を飲む、トイレに行く等)。 そうしないと自分の心が保てない。 じゃあ我慢(当時は自覚がなかったけれど、家族に辛さや愚痴を一切言っていなかった、普通に合わせていた頃)してまたニコニコ笑顔で、家族の仲が乱れないようにして振る舞う? なし。そんな事をしたら私が壊れる。もっと酷い事になる。今度は何倍返しになって家族に向けるんでしょうね。 そこで考えているのが母と強制的に離れる事。 外に出られない、外にコミュニティーがない(孤独でストレスの要因になっている)、人と会話をしていない(よくない)、でもそれは実家にいては、実家では私はいない事になっています。世間的には存在していないのです。無理な話。ならば、私が東京へ行き、強制的に母親と離れる。 そうしないと母が倒れるか、私がエスカレートして母を殺すか。東京のサポートしてくれる場所やカウンセリング等の当てはもうあります。 自害が怖いので今まで東京での一人暮らしを避けて来ましたが、でも離れてみないと、と言うか離れないときっと母か私は死にます。