2012522のプロフィール
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- 登録日2010/02/23
- 遊戯とは
念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・) したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。 きみが自ら投げるものをとらえる限りは すべては たくみと任された獲物 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき 正確に可能にされた飛翔のなかで 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・ そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の---- そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば いや もっと不思議なことに 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・ あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように---- そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者 投擲はきみに軽くもなく 重くもない きみの両手から流星が輝きいでて 自らの空間を駆けめぐる・・・ (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書
- 遊戯とは
念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・) したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。 きみが自ら投げるものをとらえる限りは すべては たくみと任された獲物 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき 正確に可能にされた飛翔のなかで 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・ そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の---- そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば いや もっと不思議なことに 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・ あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように---- そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者 投擲はきみに軽くもなく 重くもない きみの両手から流星が輝きいでて 自らの空間を駆けめぐる・・・ (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書
- 遊戯とは
念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・) したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。 きみが自ら投げるものをとらえる限りは すべては たくみと任された獲物 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき 正確に可能にされた飛翔のなかで 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・ そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の---- そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば いや もっと不思議なことに 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・ あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように---- そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者 投擲はきみに軽くもなく 重くもない きみの両手から流星が輝きいでて 自らの空間を駆けめぐる・・・ (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書
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念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・) したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。 きみが自ら投げるものをとらえる限りは すべては たくみと任された獲物 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき 正確に可能にされた飛翔のなかで 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・ そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の---- そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば いや もっと不思議なことに 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・ あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように---- そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者 投擲はきみに軽くもなく 重くもない きみの両手から流星が輝きいでて 自らの空間を駆けめぐる・・・ (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書
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念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・) したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。 きみが自ら投げるものをとらえる限りは すべては たくみと任された獲物 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき 正確に可能にされた飛翔のなかで 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・ そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の---- そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば いや もっと不思議なことに 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・ あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように---- そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者 投擲はきみに軽くもなく 重くもない きみの両手から流星が輝きいでて 自らの空間を駆けめぐる・・・ (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書