vanessのプロフィール
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- 登録日2010/01/07
- なぜ「思想」は物理などと矛盾してはいけないのか?
「思想」とは全ての意味を位置づけるものである、という意見がありますが、この哲学のサイトでは、物理などと矛盾した意見が目立つように思います。なぜ「思想」は物理などと矛盾してはいけないのか? いまいち理解が浅く困っています。
- 意識の中に「自分」は存在するのか?
. 意識の中に「自分」は存在するのか? 肉体で、考えると、目は「自分」の目を見ることが出来ない。 他人、他の物体、を見るのが主である。 鏡に映った「自分?」を見ることが出来るが、それは、直接でなく、間接的に見ている。 しかも、鏡に映った像は「自分」と左右が反対の歪んだ像だ。 自分の腕や、足も見えるが、それらは「自分」の本質への関与度の低い部位だ。 「自分」への関与度の高い「顔」は直接見えないのである。 ※繰り返すが、基本的に「自分」で「自分」を見ることは出来ない。 これを、意識に当てはめて考えてみよう。 (ここでの意識は、心、精神、魂、等と区別していないので、意識という言葉で統一している。) 体が、色々な部位で出来きあがっていて、「自分」への関与度が違い、頭部が「自分」への関与度が大きい。 同様、意識の中も色々な部位で出来上がっていて「自分」への関与度が、大きい、小さいがあると考えられる。 ここで、「自分」部位と認められるのは、を制御できる部位と定義して見る。 例えば、自分の手、足を、自分の意識で思い通りに動かすことが出来る。 これを、自分の部位とすると言うことである。 (他人の手、足は、自分の意識で動かすことが出来ない。) ここで、対象を意識に移して考えてみる。 その中で、自分の意識で制御できない部分があれば、自分の部位と言うことは難しくなるという考えである。 ・例えば、痛みである。 これは、制御できない。だから、意識の中での「自分」の部位から外せると思える。 ・次に考えるのが、喜怒哀楽である。 喜びも、悲しみ、等も制御できない、どこからかやってきて、どこかに消えていく。 同様な理由で、喜怒哀楽も、意識の中での「自分」の部位から外せる。 ・・・・・ こんな事を考えると、「自分」が意識で自由に制御できるのは、思考するという事ぐらいではないか? しかし、よく考えると、集中して考えている時、その自分を意識していないのである。 あとから、思い起こして、「あの時は、集中して考えていたな。」と認識できるぐらいである。 まるで、手足をわずかに自分の物と、感じる様に・・・ そう考えると、意識の中に「自分」の存在を認めることに、困難を感じる。 物質的に、自分を見ることが出来ない様に、意識の中に「自分」を確認できないのではないか? との、疑問が生じる。 本当に、意識の中に、「自分」は存在しているのか? 現状では、雑な、思考だが、皆さんの意見を聞かせて下さい。 .
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#136007
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- 望みに過ちが無いのが無欲です
サルの本能としての「サル山のボスになりたい」と言う望みは、 言い換えればある意味「望みに過ちが無く、従って無欲である」と言えます。 しかし、それが究極の望みであるなら、そのお猿は、その過程で真実を捻じ曲げたり、不必要に示威行為を示さねばならない事態も生じると考えられ、やはり「無欲である」とは言えないと思うのですが。 アドバイスをお願いします。 ※言いたいことを言い過ぎるとID停止になる恐れもあるため、厳しい事を言うつもりはありません。