g3452sgp の回答履歴
- これ以上質問しても無駄ですか?
結局私は年金を払えずにおしまいなら、はっきりそう指摘してください。 車は処分できません。たしかに車がなければ維持費を年金代に回せますが家族に怒られて家にいられなくなります。 八方塞がりなんです。皆さんありがとうございました。 無職の相手をしてくれて。健康も友人も恋人も金も親戚関係も親子の仲も全て無くしました。皆さんのおかげでした。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- resistance400
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- ネスは若者に悪態をつき桶波を追いやられるだろう
イエスが言った、「ネスは若者に悪態をつき桶波を追いやられるだろう」 この福音はどの福音書か?
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- noname#129687
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- 日本の人口はいきなり23万人減少するのですか?
日本の人口はいきなり23万人減少するのですか? ショパンと同じ年生まれの200歳。アヘン戦争と同じ年生まれの170歳。法務省では、「戸籍上は『生存』しているにもかかわらず、現住所が分からない100歳以上の高齢者は全国で、23万4354人にもなることが判明した。 厳格であると思われていた戸籍管理の杜撰さ。いま、各自治体では戸籍の「除籍」作業に追われている。 http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101229/crm1012290701002-n1.htm
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- ウジェーヌ ドラクロワ
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- 神とは何か?
神とは何か? 決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。 ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y =考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X =考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく) ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により 【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html ☆ それではよろしくどうぞ。
- 神とは何か?
神とは何か? 決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。 ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y =考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X =考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく) ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により 【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html ☆ それではよろしくどうぞ。
- 神とは何か?
神とは何か? 決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。 ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y =考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X =考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく) ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により 【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html ☆ それではよろしくどうぞ。
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神とは何か? 決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。 ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y =考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X =考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく) ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により 【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html ☆ それではよろしくどうぞ。
- 神とは何か?
神とは何か? 決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。 ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y =考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X =考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく) ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により 【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html ☆ それではよろしくどうぞ。
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神とは何か? 決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。 ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y =考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X =考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく) ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により 【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html ☆ それではよろしくどうぞ。
- 哲学よりボランティア
哲学よりボランティア 哲学は、何の役に立つのでしょう? たとえば「自分と何か?」という問いに対し、深い認識を得たとしましょう。 しかし、それが、(社会の、)何の役に立つのでしょうか? 「哲学する時間があれば、ボランティアをせよ!」 そう言う人がいたとします。 あなたなら、何と答えますか?
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#136007
- 回答数40
- 「人間としてやるべき事」を一言で言い表す言葉は無いでしょうか?
「人間としてやるべき事」を一言で言い表す言葉は無いでしょうか? 「道徳に従って生きる事は人間にとっての○○である」 の○○に入るものを探していて、 「職責」「職務」 が意味合いとして一番近いと思っているのですが、 イマイチしっくりきません。 「使命」「運命」「天命」ですと、神様から与えられた仕事のような気がしますので、 人間それ自体が自分の意志でそう努力するように決定づけられている、という意味合いで用いたいのです。 どなたか良い言葉をご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。 宜しくお願い致します。
- 「法華経」に違和感を感じてしまいました。
「法華経」に違和感を感じてしまいました。 私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。 原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。 しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。 よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。 ここで、質問です。 (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。 (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。 念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。
- 人間は何の為に生き、何の為に働くの?
人間は何の為に生き、何の為に働くの? いろんな考えがあるのでしょうか? 毎日クタクタになって仕事から帰るとよくこの疑問がわきます。 様々なご意見を聞いてみたく質問いたします。
- 研究者以外で哲学しながら口に糊できる職業
哲学科の学部生です。 あくまで哲学することを主な生きる目的としていきたい。 哲学研究者という職業を目指すことを、現実的に考えた末、断念しました。 とすると、1.職務内容自体がそのまま哲学することに繋がるような職業、あるいは、2.職務時間と別に哲学するための時間を多く持てる職業とは何でしょうか。できれば前者の職に就きたい。 働きながら満足に哲学できている方、あるいはお考えをお持ちの方、いらっしゃいましたらアドバイスください。
- 研究者以外で哲学しながら口に糊できる職業
哲学科の学部生です。 あくまで哲学することを主な生きる目的としていきたい。 哲学研究者という職業を目指すことを、現実的に考えた末、断念しました。 とすると、1.職務内容自体がそのまま哲学することに繋がるような職業、あるいは、2.職務時間と別に哲学するための時間を多く持てる職業とは何でしょうか。できれば前者の職に就きたい。 働きながら満足に哲学できている方、あるいはお考えをお持ちの方、いらっしゃいましたらアドバイスください。
- 研究者以外で哲学しながら口に糊できる職業
哲学科の学部生です。 あくまで哲学することを主な生きる目的としていきたい。 哲学研究者という職業を目指すことを、現実的に考えた末、断念しました。 とすると、1.職務内容自体がそのまま哲学することに繋がるような職業、あるいは、2.職務時間と別に哲学するための時間を多く持てる職業とは何でしょうか。できれば前者の職に就きたい。 働きながら満足に哲学できている方、あるいはお考えをお持ちの方、いらっしゃいましたらアドバイスください。