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転生輪廻とお墓、お盆について
仏教では、転生輪廻が説かれていると聞きました。そこで疑問があるのですが、 お墓にお参りとか、お盆とか、仏壇などは、その方が転生輪廻したら関係ないのでは と思うのですがどう思われますか?例えば、生まれ変わって今の私になっているの ならば、生まれ変わる前の私が盆に家にかえったり、お墓なども不要となるような 気がします。 もし、詳しい方がいらっしゃいましたら回答ください。仏教を信仰されている方であれば、どの経本に書かれているか教えてください。調べてみます。 また、別の宗教で、転生輪廻が説かれているならば、ご回答くださればありがたいです。 よろしくお願いいたします。
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>仏教では、転生輪廻が説かれていると聞きました。 生まれ変わりですね。 生前に悪事を働くと、次は「虫」だとか・・・。 >お墓にお参りとか、お盆とか、仏壇などは、その方が転生輪廻したら関係ないのではと思うのです 輪廻転生は、死後数千年程度で転生する訳ではありません。 一般の仏教徒では、死後50年は「遺族・関係者が(50回忌)法要」を行いますよね。 最近では、25年(25回忌法要)・33年(33回忌法要)前後で止めますが・・・。 浄土真宗をの親鸞聖人は、最近750回忌を本願寺・東本願寺など浄土真宗系10派本山及び末寺で法要を行いました。 つまり、親鸞聖人も未だ転生していないのですね。 未だ転生する時でないので、法要が必要なのです。 ましてや、個人の場合は遺族・関係者は故人の法要が必要なのです。 ※真言宗の法然は、未だ高野山奥の院で生きている事になっています。 ※毎日高野山の僧侶が、食事を運んでいます。 天上界の一日は、地上界では約345日に該当する様です。 浦島太郎が竜宮城で過ごした数ヶ月は、地上界では数十年でしたよね。 時間の流れも天上界と地上界は異なります。 時間の流れは、天上界と地上界では異なります。 どちらの「時の流れ」を重視するのですかね? チベット仏教では、(行き仏の)ダライラマやパンチェンラマが死去すれば「直ぐに輪廻転生」が起きるとの事。 確かに、ダライラマの死後「直ぐに、ダライラマの生まれ変わり」を探して次期ダライラマに就任します。 ※ダライラマに継ぐパンチェンラマは、中国共産党によって逮捕・監禁中で生死不明。 >どの経本に書かれているか教えてください。 ネットで検索すれば、多くの本がヒットします。 ただ、旧オウム真理教から派生した組織も「輪廻転生」をうたい文句に勧誘を行っています。 オウムの名前は、一切だしていませんから注意が必要です。
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- kaitara1
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輪廻転生というのは、生きている限りお互い違う人間でも死んでしまえば全く同じになるという意味なのではと思います。あるいは、この世のすべてはつながっていて実は自分とか他人とか、また人間は動物かなどという区別はできないものなのだという事ではないでしょうか。
お礼
遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。
- ixeih
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あんの、、お釈迦様・仏教は、本質は空ていってますよね、、でも実際それは充満の誤解、、これ1つでも仏教は思想・哲学・顕教の証しのよなもんだろと 思想・哲学というのは、お釈迦様は秘教家としては不十分で、他の秘教から思想・哲学的部分を取り入れ構築したらしい、という所から これらは想像ではなく私が継続し続けて来た間接的自己確認の結果で、それでも一応は信じず疑わず・確信・断定しないのスタンス、、霊界は変容感受と厄介な自由性の世界で、真理も1つではないので 転生は50~400年程毎、引導・法要・家庭の供養で大体は50年程から成仏といわれる霊界を本格的に安定して歩む状態に入るようで、仏壇・位牌・お墓に付いては霊的な事が分からない人達の世界では、過ち・粗末になる事にも気付けない、という意味でも、偶像崇拝を戒める秘教の意見に含まれるかと で、過ちの1つとして、これは最近どうもそうらしいと気付いたのは、今現世の日本人の意識体の年齢は2歳が多く、欧米には4歳以上が割りと多い、、これが日本人の幼稚・素直・単純真面目で、思想・哲学的に物を考える所が欠如してる、、これは法要・家庭の供養の為に、発達出来ずに2歳のまま転生を繰り返してしまうからなのだろうと 秘教家達の意見に、(無知な)供養は霊人達を甘やかすという否定的な意見と、、就寝中の夢の世界が霊界の自己次元であると同じように、霊界で自身の想念で対処し続けなさい、それが下位表現の我々人の修養で、それで発達し、拡大した自己を獲得する事が、人にある唯一の目的、、つまり輪廻転生からの脱却 それをアドバイスし続けるのが、霊人に対してのほんとの供養だろうと、、現世にいる人達へのアドバイスも、、ただ2歳の人達には霊界でも現世でも通じないのだけれど、、古代に既に振り分け選別が済んでるらしい、、つまり我々は、落ちこぼれの精鋭 顕教・スピ系は躓きの罠、、踏み絵・テスト・振り分け
お礼
遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。 秘教、顕教など聞きなれない単語が出て???ですが、転生輪廻からの脱却が目的ということですね。 転生輪廻ひとつとっても、いろいろとあるのですね。勉強になりました。
- 177019
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仏教徒です。宗派によって全く考え方が違います。まず、「転生輪廻」と簡単に言いますが、ガンの病気になって顔色が真黒になって「手術してくれ!」と胸を掻き毟りながら死んで行く人が「転生輪廻」すると思いますか?お念仏の人は、念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願力によって臨終の後、西方極楽浄土に往生出来ると説きますがこのような教えは私達が住んでいる現実の世界を穢土(えど)といって嫌う厭世思想(えんせいしそう)や今世では決して成仏出来ないというあきらめや現実逃避の思想を生み出すもととなります。しかも現実に様々な苦悩にあえいでいる人々を救えないのは、真実の教えとは言えません。仏法では、過去、現在、未来の三世にわたる生命の因果を説いています。この三世の因果は仏法の骨髄であり、これを抜き去ってしまったら仏法は全くの存在が失われてと言っても過言ではありません。この三世にわたる厳然とした因果の理法から、仏法においては臨終を重要視します。なぜならば臨終とはその人の人生行路の総決算、又は未来世への第一歩であり、その臨終の姿がそれまでに積んできた一切の悪業・善業、死後と来世の状態を如実に顕すのであります。そして、その教えの中に、人生は臨終が大事である、仏経典と実際に諸人の死ぬ時の姿を比較して見てもまさしく臨終の姿をもって、善認か、悪人か、幸福か、不幸か、地獄に落ちたか、成仏したかが、事実をもって証明される、と仰せられています。もっとも地獄といい成仏と言っても、この世界の他に何か特別な世界があって、地獄の鬼に責められたり、極楽の蓮の上に暮らす事を説いているのではありません。いづれも生命の実感を言うのです。ですから私達の宗派の信心し抜いた人は、必ず生きていた時より色が白く半眼半口で、身体も柔らかく死後硬直はありません。これが「成仏」したという証拠なのです。
お礼
輪廻転生すると思いますか?と言われたら、するのでは?と答えますし、最後の成仏した証拠というのは、証拠となっていないように思います。
- ichikawa2017
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ご質問は御尤もです。 輪廻転生、お墓詣り、お盆、仏檀は元来別々の由来のものでした。 輪廻転生はインド人特有の考え方です。 従って現在もインドにはお墓というものはありません。 ガンジス川などの河原で荼毘に付して残った遺骨はガンジス川などの川に流してオシマイです。 荼毘の様子はyou tubeで視聴できます。 「ガンジス川 火葬」で検索してみて下さい。 本来のインド仏教ではこの輪廻転生から逃れて転生しなくなることが成仏でした。 仏になれば輪廻転生をしなくても済むということですので、この仏になるにはどのようにすればよいかというのが本来の仏教です。 お盆は現在は仏教行事になっていますが元々は東アジア(中国、韓国、日本)一帯に古くからあった祖霊崇拝の習俗の一つでした。 中国の儒教では祖先崇拝は孝という考え方となっていました。 仏教がインドから伝わった後でこの儒教の考え方が取り込まれて中国仏教(漢訳仏教)となりました。 中国仏教が日本へ伝わり日本の祖霊崇拝の習俗に取り込まれて現在のお盆になりました。 仏檀は日本固有の両墓制の「詣り墓」をコンパクトにしたものだったと言われています。 法隆寺にある玉虫厨子などの厨子が原型とされています。 両墓制は神道の死穢を嫌忌したことに由来するとされています。 遺体を埋葬した「埋め墓」には近づかないようにして、遺体を離れた精霊を祀る「詣り墓」にお詣りしました。 平安時代の藤原道長の日記「御堂関白記」に父親が埋葬されている場所を探したが見つからなかったと書き残されています。 お墓というものを持たないインド仏教にはあり得ません。 現在インドにあるのはヒンズー教の神々を祀った祭壇です。
お礼
奥が深いですね。ありがとうございました。
お礼
分かりやすい回答ありがとうございました。