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どうして日本はアメリカと戦争したの?

歴史を振り返ると日本はアメリカに戦争に引きづりこまれたなんて記述もありますが、現代人ならあんな大国と戦争して勝てるはずがないと認識してますが、もしかしてあの当時の日本人はアメリカの国の広大さ国力などをまったく知らなかった人がほとんどだったということでしょうか? あの当時、国民は情報源はラジオ、新聞程度でしたから、国民はマスコミに焚き付けられたということでしょうか?

みんなの回答

  • teppou
  • ベストアンサー率46% (356/766)
回答No.12

 日米開戦について、疑問に思われるのはもっともなことだと思います。  しかし、日米戦争は、すでに戦われていた日中戦争とひとつながりの戦争ですので、日中戦争から考えなければなりません。  ただし、当時は「日中戦争」とは呼ばれていませんでした。  日中戦争の開戦日時は日中で考えが違うようです。  中国側は、日中15年戦争という言い方をしているようですので、1931年の柳条湖事件から日中戦争が始まったと考えているのでしょう。  日本では、かつては1937年7月7日の盧溝橋事件以降の戦闘を支那事変と呼び日中戦争と認識していたようです。  当時中国は1911年からの辛亥革命により清王朝が倒れ国名としては中華民国でしたが、各地に軍閥と呼ばれた軍事集団と中心とした地方政府的なものがあり、また、中華民国軍であっても各地の軍の独立性が高く、複雑な軍事情勢でした。  米国は、中華民国を支持しており、形式的には義勇軍による軍事支援と軍需物資の支援をしておりました。  実は日本も重要な戦略物資である石油や製鋼の原料のスクラップ鉄等をほとんど米国から輸入しておりました。  ちょっと驚きませんか。  日中戦争を戦争と呼ばなかった理由の一つとして、米国の法律や世論による戦争当事国への輸出制限を回避する目的もあったようです。  米国は当然日本に中国からの撤兵を要求していましたが、日本も当然その要求に応じることはありませんでした。  中華民国の支援をしていたのは主に米・英・ソ連(当時)で、日本軍の軍事攻撃の及ばない地域から軍需物資を輸送していました。  これを、当時の中華民国総統の蒋介石を支援するルートという意味で、援蒋ルートと呼んでいました。  その援蒋ルートに一つが東南アジアにありました。  現在のベトナム・ラオス・カンボジアは、当時フランス領で仏領インドシナと呼ばれていましたが、援蒋ルートの一つがこの地域を通っていたのです。  当時フランスはドイツに占領されていましたので、日本はフランスと交渉してこの地に日本軍を駐留させました。  この駐留が、米国の逆鱗に触れたと考えられています。  日本の日中戦争の説明は、中国は政情不安定で治安が悪いので中国で働いている日本人保護が目的であるとしていました。  日本国民にも、そのように説明していました。当時少年だった人から、「中国と戦争している認識はなかった、中国の匪賊(ひぞく:当時このような言葉がありました)の討伐に行っているのだと思っていた。」と聞いたことがあります。  戦争という言葉を使わなかった理由の一つがここにもあったようです。  米国としては、一応日本の言い訳を受け入れていましたが、仏領インドシナに軍を駐留させると言うことは、米・英・ソ連も敵に回して、中国侵略を本格化する意図があると解釈したのでしょう。  これ以降、日米関係は急速に悪化し、米国は対日経済封鎖に向かって舵を切ったと言うことです。  ここで、日本のとり得る道は、中国からの撤退か、日米戦争かということになりました。(その中間もあり得たでしょうが相当難しかったでしょう)  中国からの撤退は不可能でした、当時中国にいた日本軍は約百万人でした。この百万人は毎日食事をしなければなりません。  日本の戦時の軍隊の食糧などは、現地調達が基本でした。現地で食料を軍票という軍事通貨で買うのです。しかし、実際には売ってもらえませんので、徴発といいますが、食料を見つけて集め軍票を置いてくると言うことをやっていました。ひどいと思うかもしれませんが、こういうやり方は一番ひどくないやり方でした。この件に関してはこれ以上書きません。  つまり、百万の軍隊は、中国にいれば食べていけたのです。日本は軍票を印刷するだけです。  しかし、日本軍が中国から撤退すると、日本国内には無職の百万の人があふれることになります。当時の経済力ではこの人たちを養うことはできませんでした。  じゃあ日米開戦かと言えば、政府や軍上層部は日米戦争に勝ち目がるとは思っていなかったと思われます。  しかし、結局日米は戦争になりました。  理由は、いくつかの非論理的考えの複合の結果であろうと思われます。  納得できる理由が明確に書かれたものを読んだ覚えがありません。  当時の日本の上層部は、学力はあるがアホであったと言うしかないのでしょう。  なお、軍票は終戦に日本政府から無効宣言が出されました。

mondaysaikensa
質問者

お礼

歴史背景を詳しく回答ありがとうございます。

  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2125/7982)
回答No.11

 日本国内に自由な発言が許容され、民主的な体制があれば、戦争が出来るはずが無かったのですが、言論封鎖、民主主義抑圧、反体制弾圧などで、自由を失い、硬直した独裁体制だった為に、マスコミ報道がデタラメで、捏造報道、虚偽報道、情報操作、真実の隠蔽・揉み消しに明け暮れて、戦争の真実が何も報道されない状況だったので、戦争を止める事が出来なかったのが原因でしょうね。  戦争当時のラジオ放送なんて、某国のラジオ放送と同じだったようで、戦争遂行ばかり宣伝していて、敗戦色が濃厚だったのは何も報道されていなかったようです。新聞は検閲で空白ばかりで、何も報道出来ない状況でした。  今でも同じですが、マスコミは情報操作、真実の隠蔽、捏造や揉み消しをやめていませんから、信じない方が良いでしょうね。  最近でも、オウム死刑囚が死刑になった直後に、急に豪雨が降って200人以上の死者が出たり、40℃を超える猛暑が始まったり、台風が列島を逆走したり、異変ばかり続きましたが、マスコミは因果関係を報道しないでしょう。  あれは日本周辺で突発的に急激な大気の温度上昇が起こって、激しい上昇気流が生じないと説明出来ない現象ですが、何も報道されずに、珍しい現象を繰り返しただけでしたよね。今も昔も同じなのです。

mondaysaikensa
質問者

お礼

ですよね、国民がアメリカがどんな国かを認識していれば戦争回避世論がでたはずですよね、回答ありがとうございます。

  • 4237438
  • ベストアンサー率28% (278/974)
回答No.10

>どうして日本はアメリカと戦争したの? 有利な条件で和睦する可能性があったからです。 国力だけを考えれば清だってロシアだって大きな差がありました。 どのように日本に有利な和睦ができたか? 短期戦です。 日本は英米蘭を叩き、ドイツは勝っている状況でソ連と和睦し、東側を安泰にしてから英国に上陸して占領し、その時点でドイツからスイスを通じ和睦を申し入れる。 いくらアメリカが強くてもソ連が脱落し英国がナチスドイツに占領されたらアメリカだけで日独を相手にするのはきついです。犠牲が大き過ぎ、豊かなアメリカ人には一国で戦う根性がない。 和睦を受け入れていたでしょう。 日本は日本に有利な和睦で良かった。アメリカに上陸する必要はありませんでした。日露戦争だって日本は勝ったことになっていますが、実際は和睦です。 日独が負けたのはヒトラーがスターリングラードにこだわったからです。 スターリングラードで膠着状態になったときに和睦するべきでした。ソ連だってモスクワとレニングラード近くまで迫られていたのですからヒットラーが和睦を言い出せば受けていたでしょう。 東側の戦力をぜんぶ英国にぶつければナチスドイツの勝ちでした。英国は海軍力は上でも陸軍は弱いです。友邦を失ったアメリカは和睦を受けていたでしょう。 力説するわけじゃないですが、和睦するという決着のつけかたもあったことを言いたいです。日本はアメリカには譲歩して何らの領土要求もせず、英国、オランダ、フランスの植民地をゲットして石油を確保するだけにします。

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • sz120
  • ベストアンサー率25% (40/158)
回答No.9

アメリカと戦争するきっかけとなった「パネー号」事件。 1937年12月12日揚子江を航行中のアメリカ砲艦「パーネ号」が日本軍機に 撃沈されたが、日米はまだ開戦していない。 パーネ号先導していたアメリカスタンダード石油会社のタンカー3隻も撃沈。 アメリカ国内は日本非難、ァメリカ政府は日本政府に厳重抗議、新聞各社も 日本の悪口を書き立て、国民は日本製品の不買運動。 日本政府はアメリカ政府に公式に謝罪、斉藤駐米大使は、ラジオ放送の 枠を買い取り、全米中継で、事件の謝罪、200万ドルを超える賠償金の 支払い。 日本が謝罪した後。アメリカの世論は沈静化、アメリカの世論調査では 国民の70%が「中国支援の全面撤退」を求める。 当事アメリカは日本と戦争している中国を支援していた。 あてが外れたルーズベルト大統領、この事件で日本を孤立させ戦争に 引きずりこむつもりだった。 諦めきれないルーズベルトは、イギリス・オランダを巻き込み 「ABC包囲網」を強行して日本を孤立化させ、日本は石油を輸入 できなくなり真珠湾攻撃するしかなかった。 太平洋戦争は狂気ルーズベルトが引き起こした。

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.8

まあ色々理由があったのですよ。 簡単に纏めると、 理由1 戦争しなければ国家存亡の危機だった。 アメリカの最後通告は到底のめる内容ではなく、当時のアジアの悲惨な植民地同様になれ、というに等しい内容だった。 理由2 当時の日本は、世界トップクラスの海軍を保持していた。 世界7大戦艦BIG7のうち、2隻が日本の戦艦。 当時の戦艦は戦略兵器(現在の核ミサイルみたいなもの)であり、陸上からは反撃できず、海上からも同等の戦艦でなければ、対抗できないという代物だった。 戦艦とは、その実質は、射程がめっちゃ長く、威力がめっちゃ高い移動砲台である。 同程度の射程がなければ、射程外から一方的になぶり殺される。 航空機の実用化によって、この前提は崩れていくことになる。 理由3 当時ヨーロッパの諸国は、ドイツとの戦いに手一杯であり、アジアの植民地など気にしてる余裕が無かった。 結果アジア方面は、かなりのがら空き状態であり、少数の植民地駐留軍と、当時3流軍隊の米太平洋方面艦隊しかいなかった。 (開戦時の米軍は兵器の質、兵員の練度ともに低かった。ただ、国力、工業力はすさまじかった) 事実、初戦で米太平洋艦隊は全滅に近い損害を受け、日本の快進撃を許すことになる。 理由4 日本は長期戦を行うつもりはなかった。 短期決戦で大損害を与え、講和に持ち込むつもりだった。 まあその他いろんな理由があります。 ただ言えることは、日本がもし立ち上がっていなければ、アジアはまだ植民地政策が蔓延っており、日本人もまたスラムに住んで白人を王と仰ぎ、農園などで働いて、稼ぎが悪ければ耳を落とされるとかそういう生活をしていたと思われます。 日本が掲げた大東亜共栄圏、即ち、アジア植民地の解放は成功しており、この点に置いては、日本は勝ったとも言えます。

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • skp026
  • ベストアンサー率45% (1010/2238)
回答No.7

今も昔も、代議士という代表者に委任をしています。 代議士が実行する政策を、国民が制御することは もともとできません。 次の選挙のときに落とすことができるだけです。 米国との戦争をまねいた潮目としては、 朝鮮半島と満州国に関する対応です。 これらの利権から、米国をはずしたことから、 日米関係が一気に悪くなりました。 あとは、官僚の暴走を止められないようになっていることも 原因のひとつになると思います。 当時の軍もざっくり言えば官僚です。 現在の文科省や財務省の混乱ぶりをみても、 政治家が官僚を制御できない状態は 現在も続いているという印象を私はもっています。 改善させる案としては、国民がこまかく評価できる仕組みです。 各省庁の評価、議員の評価、政策や法案の評価、 議会での質疑応答の評価。 今はマスコミがまとめたりしてますが、 スマホやパソコンなどで国民が評価できるようにします。 なりすましを防ぐ仕組みが必要ですが、技術的には可能です。 (数字を都合よく読み取られる、ということは続きますが)

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.6

日本は戦争に巻き込まれたと思います。 満州建国は欧米も賛同していましたが、手広く国土を占領する日本軍に対して経済制裁が発動し、経済的にも日本は追い込まれ、戦争するしかなかった。 海軍は1年だけなら交戦できる。 その間に和平交渉を期待したのでしょう。 初めから勝てる戦争ではないと海軍は考えていました。 アメリカは事前に真珠湾攻撃も察知してたでしょう。 当時急に主力艦隊を太平洋上に逃がし、真珠湾には主力艦隊はいませんでした。 一説では、宣戦布告も攻撃後に受け取ったともあります。 米国世論を動かすために、日本が卑怯にも奇襲攻撃してきたという事実を作り出したかったのでしょうね。 陸軍や政府幹部はどんどん戦争にのめり込み、和平交渉なども考えず、原爆で多くの国民を殺しました。 戦争の終結の仕方も考えなかった政府の責任であり、何ら計画性のない戦争突入だったわけです。 この計画性のなさは、現在の政治にも受け継がれてますけど。 >あの当時、国民は情報源はラジオ、新聞程度でしたから、国民はマスコミに焚き付けられたということでしょうか? ↑ 逆ですよ。 マスコミが焚きつけたのではなく、政府がマスコミを押さえつけ記事を書かせてます。 最初は朝日、毎日は争い、翼賛会幹部の正力率いる読売はいち早く政府発表を記事にし、国民を洗脳していきました。 その後圧力に負け朝日なども従いましたが。 なので正力松太郎は戦犯になりました。 が、CIAに魂を売り工作員として活動し、日本テレビをCIA協力のもと作り、現在もアメリカの工作員として存在しています。 戦争は国が考え起こすのではありません。 世界の一握りの金持ち・ユダヤ金融マフィアが企てて起こされるものです。 すべての国がその企てに巻き込まれるのです。 彼らの利益のために。 第一次世界大戦は、中立国だったアメリカを戦争できる国にするためでした。 ユダタ金融マフィアの工作員としてルーズベルトが暗躍し、なんとか戦争資材製造にまでこぎつけ、アメリカは世界でも儲かった国になります。 第二次世界大戦は、ドイツを徹底的に潰す戦争です。 そのためにヒトラーを作り出し、敬愛するムッソリーニがヒトラーを巻き込み、最強と謳われたドイツと提携を結ぶ日本も巻き込まれていくのです。 全て仕組まれた罠ですよ。 裏では、唯一白人に、自前の武器で勝った日本も潰すべき国として考えていましたから。 この考えは今でも生きています。 いあmでもドイツと日本を潰そうとユダヤとアングロサクソンは考えています。 アホの安倍はのこのことそれに乗り、アメリカとともに戦争できる国にしているのです。 安倍・日本会議は戦争したくてしょうがないのです。 戦争で勝利し、大国にのし上がりたいのでしょうか。 ですが日本は必ず負けます。 そういう風にシナリオができてますから。 改憲すれば戦争に巻き込まれ潰されますよ。 9条を誇示し、永世中立国にでもしない限り、アングロサクソンとユダヤは日本を潰しにかかります。 アメリカとつるめば戦争しても勝てるなどと思ってる安倍一派こそ戦争の悲惨さも知らない、平和ボケですよ。

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • syake2
  • ベストアンサー率11% (2/18)
回答No.5

いや同時の国の上層部もそう把握してましたよ? 戦争の直前の原因は米国のハルノート、ABCD包囲網です。 逆に質問者に質問しますと 当時、日本は人口増による対策として米国や南米などに盛んに移民をしてました。  で日本の国内における食糧生産能力は最大でも3000万人以下  で当時の日本の人口7000万人以上 で米国は日本への経済封鎖をおこなう(ハルノート)と宣言! でここで問題です 1.負けると分かって戦争をふっかけて一縷の望みをかけ有利な条件で講和を行う 2..日本経済が崩壊し国内で飢饉・内乱が起きようとも戦争を回避する    貴方ならどっちを選ぶ? wikiの「ABCD包囲網から引用」すると 歴史学者からの評価 イギリスの戦史家ベイジル・リデル=ハートは、「アメリカ政府の資産凍結措置と同時にイギリス政府も行動をとり、ロンドンのオランダ亡命政府も誘導されて、追随した」、「このような措置は、1931年にさかのぼる議論においても、日本を戦争に追い込むことは必定だった」と述べており、一連の経済封鎖を背景にした、アメリカの要求について、「いかなる国にも、とりわけ日本のような面子を重んじる国にとっては、このような要求を容れることは不可能であった」、「日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは、注目に値する」と評している[20]。 同じくイギリスのJ・F・C・フラーは「オランダ[21]は、アメリカとイギリスの措置に加わった」・「経済戦争の宣言であり、実質的な闘争の開始であった」[22]と述べている。また、大西洋会談において、ルーズベルトがチャーチルに対して『私は決して宣戦布告をやるわけにはいかないでしょうが、戦争を開始することはできるでしょう』と述べたとしており、チャーチルは後日『われわれの共同禁輸政策は確実に、日本をして平和か、戦争かの瀬戸際に追いやりつつあります』という書簡を送ったとしている。[23] アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは、「1941年の後半にイギリスとオランダが協調して、資産凍結と禁輸措置を実行した」[24]としている。 同じくアメリカの政治学者、ジョセフ・S・ナイ・ジュニアは、「日本を抑止しようとするアメリカの努力は破綻をもたらした。平和という選択肢は、戦争に敗れるよりも非道い結果をもたらすと日本の指導者達は考えていた」[25]と述べている。 家永三郎は「日本は、中国侵略を継続するために、これに反対する米英蘭との戦争をすることになった」[26]と述べている。 秦郁彦によれば、ABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。米政府は日本軍の南部仏印に進駐するをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国、蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油・ゴム・スズ・屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國國策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかったと秦は述べている。(検証・真珠湾の謎と真実) 須藤眞志は「ABCD包囲網のようなものが、意図的なものとして存在したかどうかは疑わしい」[27]と述べている。また密約合意文書とされる「ABC-1」「ADB-1」について大統領が承認していないので、米政府の意思決定や活動を縛る拘束性がなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。 ジョージ・モーゲンスターン[28]は「ABC-1」「ADB-1」両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。 井口治夫は、対日経済制裁によって「日本海陸軍をジリ貧論へ追い込んでいった過失責任は明らかに米国側にあった」としている[29]。  

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.4

清、ロシアに勝ってしまったのが大きいんじゃないですか? シベリア出兵の方が、初期に日本軍上層部が想定していた期間限定の太平洋戦争よりも無謀度はより高かったといえます。

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • dragon-man
  • ベストアンサー率19% (2711/13692)
回答No.3

どこの国でも、人間間違いは犯します。そうでなければ戦争も喧嘩も起きません。アメリカだって北ベトナムを簡単に潰せると思って戦争を仕掛けましたが、ものの見事に負かされ、ベトナムから追い出されました。80年前の太平洋戦争と違い、たった40年前の話です。情報源はテレビも新聞もありました。

mondaysaikensa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

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