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江戸時代。郡部の町と村の区別。
きわめて稀ですが、何郡何町(村ではない)という地名に出合います。 例えば、上野国利根郡月夜野町、同沼田町、芸州瀬戸田町(現広島県生口島)などです。 郡部の最小単位は「村」と思っていましたが、「町」もあるようです。 「町」とするか「村」とするかは、何か規準があるのですか。 よろしくお願いします。
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(1) 〇コトバンク>辞書一覧>日本大百科全書(ニッポニカ) 在町 ざいまち https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A8%E7%94%BA-1323176 近世の農村に成立した町。在郷(ざいごう)町、在方(ざいかた)町ともいう。 法制的には村とされているものが多い。在町の成立については、研究者の間に、 戦国時代から近世にかけて成立したとするものと、近世中期以降に成立したと するものとの、二つの意見がある。 概していえば、近世初期に成立したとする研究者は畿内(きない)の在町を対象 とし、中期以降に成立したとする研究者は関東のそれを対象としている。 近世初期に畿内に成立した在町は、中世以来の城下町、市場町、門前町、寺内 町などの系譜をもつものが多い。在町としては近隣の村々と交易して、市場町 の性格を強くもち、農村の需要に応ずる鍛冶(かじ)屋、紺(こう)屋なども存在 する。また村々の生産物や労働力を受け入れて、酒造、木綿加工などを営み、 その特産地として成長するものもあった。さらに遠隔地との商業も行い、独自 の成長を遂げた。 町民はだいたい、特権的な上層商工業者、中小商工業者、日傭(ひよう)的町民 の3段階に分かれているが、商工業を営むものは身分的に本百姓であるばかり でなく、実際に農業も営んでおり、農民としての一面ももっている。 このような在町に対し封建領主は、市(いち)を立てることを許し、 あるいは代官陣屋を設置し、年貢米の払下げを行い、宿継(しゅくつぎ)運輸を 行わせなどして、その支配組織に組み込んだ。こうした従来の在郷町とは別に、 同じような機能をもつ町を新しくつくらせることもあった。江戸、大坂、京都 の三都を中心とした全国市場が形成されてくると、畿内の在町の対遠隔地商業は、大坂・京都がこれにかわり、手工業も大坂・京都のそれを補うにすぎないものとなった。地域の中心集落としての機能も、大坂・京都と結び付くことで存続し、対立するものは淘汰(とうた)されていった。また農村に展開した木綿加工などの工業は、在町のそれを衰退に追い込んだ。こうした状況のなかで町の商工業 者は地主に転ずる者が多くなり、畿内の在町の発展は17世紀末を頂点として停 滞し、衰退していった。 近世中期以降関東に成立した在町は、その系譜も畿内の在町に似ており、地域 の中心集落であることもかわりはなかったが、農村の商品生産を背景に、その 産物を三都に送り出す機能を強くもっていた。それが江戸地回り経済の発展と ともに江戸との結び付きを濃くし、特産物を江戸に送る集荷市場となっていった。 在町の商人も江戸の問屋に隷属して、その出先機関化するものがあった。 関東の在町はこうした機能を強めていったので、周辺の農村との対立を深めた。 [伊藤好一] (2) 〇「土地形質からみた単路型在郷町の空間構成に関する研究/秋元一秀/2000」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3172436/13 <13-16/118>(9-12頁) 第一章 在郷町の概要と対象とする在郷町の位置付け 近世においては原則として城下町以外での商業は禁止されていた。 しかし、城下町以外にも町奉行支配の町がおかれたりし、また法制的には農村 とされた地域にも、実質的に商工業が展開し、都市として機能した町があった。 こうした城下町以外の商業集落を本研究では広義の在郷町と定義する。この在 郷町には、その機能から港町、宿場町、門前町などと呼ばれるものが含まれる。 …(中略)… 1.1在郷町の概要 1.1.1在郷町の種類とその地域的特色 『角川日本地名大辞典』における記述により…在郷町と確定した1513のうち 宿場町が852、港町が310、門前町が49、市場町(※狭義の在郷町)が435となっ ており、 (※852+310+49+435<+8>=1646<+8>、1513との差異は複合機能分?※) 過半以上が宿場的機能が強い町であったことがわかる。その割合を地方ごとに みると、江戸を含んだ関東地方を中心として高く、幕府が拡充整備した五街道 に沿って宿場町が成立、展開していることが示される。一方、江戸から離れた 四国及び九州地方ではその割合は低く、特に四国地方では1割にも満たない。 それとは対照的に、これらの地方では港町の割合が高く、加えて、近畿地方を 中心として中国及び中部地方における割合も高くなっている。…(中略)… 1.1.2成立年代 在郷町が藩に正式に町として認められた年代に関して『角川日本地名大辞典』 上にその記述があったものは全体の1割弱である。その内訳は1650年以前に町 立てしたものが5割強で、1700年以前まで含めると8割強を占めており、江戸 時代前期に集中している。原則として城下町以外での商業は許可されなかった にもかかわらず、江戸時代の初頭から藩が農村における商品経済を認め、場合 によっては積極的に取り組んでいた側面が示される。また、地名辞典という資 料内容の制約はあるが、成立年代の記述の割合が低い点は、藩の正式な承認を 受けずに、実質的には町と同等の機能を有していたものが存在していたことを 窺わせる。 (3) 〇データベース「えひめの記憶」>書籍一覧(市町村誌(史))> 中山町誌 第二編 歴史 第三章 近世 第三節 村・町のくらし 六、 在郷町 (一) 在郷町とは http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/39/view/10995 在郷町について、『国史大辞典』に「江戸時代、農村部に成立した商工業集落を総称していう。地域により呼称は異なるが、在町・郷町・町分・町村などと呼ばれた。豊臣政権は太閤検地や兵農・商農分離政策を実施し、町方と在方すなわち都市と農村を法的にも地域的にもはっきりと区分した。それを継承した江戸時代においても、本来、商人は農村部には存在せず、都市に集住することになっていた。しかし戦国時代以来の都市ではこのような政策により農村として把握されたにも拘らず、商工業集落としての実質を存続するものもあった。一方、領主側も歴史的な性格を尊重して、これを黙認したり、領内経済の拠点として、在方における町の存在を認めたりすることがあった。このような現状を反映して、在郷町という場合、法的に農村として把握された町場のみを在郷町と規定する論者と、法的に町として把握されたものでも、三都や城下町などの大都市と異なる在方の小都市・町場として在郷町に含める論者とがある。さらに、農民経済の拠点としての町場を在郷町とし、主として領主経済の拠点であった前期の町場を在町として区別する説もある(以下省略)」と記されている。…(以下省略)… 学者間の揺らぎも伺えますが、 大雑把な傾向は上記各抜粋の(1)(2)(3)などから掴めるものの、 例えば、下記(4)では「町」の意思決定機関に地借、店借も参画の例もあり、 成立時期・過程、地域等によってケース・バイ・ケースゆえ、 一律の規準があるとは考え辛いように思います。 (4) 〇J-STAGE>史学雑誌>123巻(2014)3号(375-401頁) 「近世後期関東在方町における町規約と構成員/酒井一輔」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/123/3/123_KJ00009323523/_article/-char/ja/ 以上
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- oska2
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>何郡何町(村ではない)という地名に出合います。 古地図を見ると、確かに「町」が存在しますよね。 >「町」とするか「村」とするかは、何か規準があるのですか。 実は、明確な基準が存在するのです。 江戸時代は、士農工商と職業分類が存在しましたよね。 領主(藩主・旗本など士)は、領国経営を「郡代・代官」「町奉行」に任せていました。 郡代・代官は、農民を支配します。 郡代・代官は、直接「村役人(庄屋・名主)」を通して百姓を支配します。 つまり、郡代・代官が行政を行っている地域が「村」です。 対して、町奉行は工商人を支配します。 町奉行は、直接「町役人・町年寄り」を通して工商人を支配します。 つまり、町奉行が行政を行っている地域が「町」です。 本当は、もっと詳細な基準が存在するのですが(残念ながら)省略。^^; 一般的には、農林水産業が主要な産業の地域は「村」。 一般的には、商工業が主要な産業の地域は「町」です。 古地図の城下絵図でも、お城を中心とした城下町内は「町」。 城下町郊外は、「村」が多いですよね。 例外として、宿場は「町」となっています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 一般的には、商工業が主要な産業の地域が「町」で、町奉行が支配していたのですね。 なるほど。
- tzd78886
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当時比較的にぎわっていたところが「町」でつまりは城下町か商業、工業が盛んだったところです。農業、林業、漁業が中心だったところは村であることが多いですが、もちろん例外もあります。今でもそうですが、明確な基準はありません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 城下町を「町」とすることは分かります。 商業とか工業とかが盛んな、比較的にぎわっていた集落を「町」としていた、ということですね。 なるほど。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 「町」とすることに一律の規準はなかったと、断定できそうです。 これは予想どおりです。 幕府領と大名領とで規準が異なるのは当然ですから。 歴博のデータベース『旧高旧領取調帳』で調べたのですが、陸奥国(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)には、千を優に超える村がありますが「町」は青森町のみです。 上野国には、10を超す町があります。 幕府領、旗本領、藩領のどこにもあります。 そこで質問したのですが、藩主としては、「町」として町奉行を置くか、村のままで郡奉行・代官に任せるか、どちらでもよいということでもないでしょうが、決めた規準は支配し易さにあったような気がします。 注目した個所を私の覚えとして抜き書きしておきます。 1.近世においては原則として城下町以外での商業は禁止されていた。 しかし、城下町以外にも町奉行支配の町がおかれたりし、また法制的には農村とされた地域にも、実質的に商工業が展開し、都市として機能した町があった。 2.在郷町について、『国史大辞典』に「江戸時代、農村部に成立した商工業集落を総称していう。地域により呼称は異なるが、在町・郷町・町分・町村などと呼ばれた。 (町村という名の村を資料でよく見かけるのですが、その名のいわれがよくわかりました) お陰さまで疑問は解けました。ご教示に感謝申し上げます。