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承認欲求を捨てることはできるのか?

承認欲求というのはエゴの一つですが、これを完全に捨てることはできるのでしょうか? ひとつの欲求を捨てるのでれば、まずその欲求の満足感を知っていることが前提であるのかという疑問です。 「承認欲求がある限り人は自由にならない」といわれますが、それはもっともなことだと思います。 しかしその欲求を捨てる、あるいは軽減するということを目的とした場合、その欲求が一度でも満たされているという経験が必要に思えます。 また、社会や家庭で承認欲求が満たされるという経験に乏しい場合でもその欲求をコントロールしたり捨てさることはできるのでしょうか?もし可能であればそのための具体的な考えや実践のための方法についてお聞かせください。

みんなの回答

回答No.5

>承認欲求というのはエゴの一つですが、これを完全に捨てることはできるのでしょうか? はい。 涅槃寂静の世界に行くと欲求は無くなると言われています。 >もし可能であればそのための具体的な考えや実践のための方法についてお聞かせください。 必要なのは只管打座ですね。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり瞑想ですか。

回答No.4

社会から承認されて自己の社会的立場を確保するまでは、承認要求があるだろう。 そのうち一人前に成熟すれば、(承認を受けた)君から社会に働きかけができる。 いつまでも社会に噛みつくと、生涯できなくなるよ。 革命を起こして社会が転覆しないと納得できないのは、生涯大人になりたくないという事だ。 さて、何らかの形で、君の年齢に合わせて成熟するから、それまでは何かと悩んでも、青春の過ちの一つだ。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >社会から承認されて自己の社会的立場を確保するまでは、承認要求があるだろう。 うん、やっぱりそうですよね。だって人間だもの。別に超人になりたいという願望はないけれどエゴがある以上生きづらくなる。エゴは人間の業そのもの。 >そのうち一人前に成熟すれば、(承認を受けた)君から社会に働きかけができる。 なるほど!求めれば求めるほど得られないけれど、諦めた途端、手に入ったということはよくありますし。

回答No.3

承認欲求など感じた事はない。 自分の事を最もよく知るのは自分であって、 他人による評価など雑音に過ぎない。 私が他人を評価するのであって、その逆ではない。 自己認識の不完全な低認識において、その自覚を 他人による評価に依存するのだ。 私(肉体)は、真の私(意識)としての宇宙の、 ほんの一部に過ぎない。 それを一つにするのは、認識の深まりであり、 環境との物質循環、あるいは社会生命としての 自己の生の拡張の自覚化たる他我=愛による。 人は、ひとり以上に、孤独にはならない。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >私が他人を評価するのであって、その逆ではない。 これは一つ間違えれば「自己中心的発想」「傲慢さ」になりますが、ご回答者様が「それとは違う意識だ」と思っていらっしゃるのであれば、なぜその極地に至ったのか、教えてください。 >自己認識の不完全な低認識において、その自覚を他人による評価に依存するのだ。 主体が何なのかわかりません。 「私」に「>自己認識に対する不完全かつ低認識」があったとしてその認識を「>他人による評価に依存」させてはよくないよ ということ??? >自己の生の拡張の自覚化たる他我=愛による。 >人は、ひとり以上に、孤独にはならない。 これは名言ですね。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.2

承認欲求は誰にでもありますし、あるのが当然です。 これが過度になって自分自身が振り回されるようであれば問題ですが、そうでなければ別に捨てる必要はありません。それに完全に捨てるのは無理です。 例えば、食欲が完全になくなれば人間は食べることから解放されて自由になるのかもしれませんが、生きられなくなります。承認欲求は生理的に必要な欲求ではないですが、それでもそれがなかったら別の意味で生きにくくなります。 生きている中で承認欲求が完全に満たされることは難しいですが、部分的になら誰でも満たされたことはあるでしょう。 承認欲求がある方が例えば仕事などで頑張れるということもあるでしょうし、かならずしも悪いことではないです。それが過度になり自己をコントロールできないほどであればそれは問題です。 承認欲求をコントロールするということであれば、今自分がやっていることが承認欲求によるものであると自覚することが重要です。自分の動機を把握することでコントールしやすくなると思いますよ。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 今の私はこのような人間に対して思いやりのある回答が助かります。 >食欲が完全になくなれば人間は食べることから解放されて自由になるのかもしれませんが、生きられなくなります。承認欲求は生理的に必要な欲求ではないですが、それでもそれがなかったら別の意味で生きにくくなります。 なるほど。 確かにそれがなければ肉体が生きられない、ありすぎれば心が生きずらくなる。「中庸」=「バランス」は本当に真理です。 ある記事にこうありました。 『あの人」の期待を満たすために生きてはいけない。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになると言います。 そして、そうならないためには課題の分離が必要で、他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させないことが大切だと言います。あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むか、自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされるのだそうです。』 組織などで中心的人物がカリスマ的存在であればあるほど、「あの人のようになりたい」と願うようになり、いつしかその人の思想や考え方に振り回されてしまう…(まあ宗教がこの典型ですが)。 私もいつしかこの心理状態に陥っていたことに気づきました。 たとえば怒りの一次感情は悲しみというように人の感情には次元があるといわれています。「憧憬」の一次感情も「自分はそれになれない」ということの裏返しのだと言われてます。その自信のなさから誰かに憧憬することで依存心が生じ、承認してほしい。そしていつしかその人のために動くということになります。その集団が共有する思想や目的に染まり、その集団の中でも社会心理学でいう「斉一性の原理」や同調圧力に悩むということになります(悩むというのは意識しているわけですからまだマシですが)。 本来は純粋にその組織に所属することを求めていたのですが、無意識に承認欲求を中心的人物に少々強く求めていたことに気づいたしだいです。 ゆえに何かしらの組織に自らの意思で帰属している場合には、ときに自分を見つめなおし、過剰な承認欲求で自分を失っていないかと自問自答することが必要ですね。

回答No.1

「嫌われる勇気」などのアドラー心理学の書籍は既に読まれているでしょうか? まだお読みでなければ、まずはご一読ください。 続編の「幸せになる勇気」も読んでいただくとより理解が深まると思います。 http://visionary-mind.com/individual-psychology このあたりの記事にも書いてありますが、 ・他者信頼 ・他者貢献 ・自己受容 が出来れば、他人の評価を軸に生きずにすむと思います。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一読しましたがそのうえで改めて思った疑問です。 ですから「他者信頼」等も、質問で指していることであり、それらを得た基盤があって初めて承認欲求を捨てることができるのではないかということです。