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感謝の適切な範囲と過剰な範囲
- 感謝ってどれくらいが適切だと思います?ごく身近な人の日常的な苦悩や苦労をただの当たり前とし感謝しないなら、自分の日常的な苦悩や苦労をただの当たり前とされ感謝されなくても、ただやってる事と同じ態度をやり返されただけでも文句は言えない。
- 自分が後ろめたさを感じなくて良い似た相手に居心地の良さを感じてやった事をやり返す関係に段々疲れて恋が消えたら縁を切る。親の背中を見て育った子供も似た発想と応酬に悩む事もある。
- 自分がごく身近な人への感謝を忘れると、自分がただやってる事をやり返されただけで苦悩や苦労が報われ難く辛くなる。結構しんどいものがある様に見えます。しかしより細かい全てに感謝し始めたらきりが無く生活に支障が出ますし、人は無意識に共感を望むものだから時に周囲を息苦しくもさせます。感謝はある程度自己完結、自己満足が健全な気もします。
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相手が見返りを求める人なら、どんなに小さなことにでも感謝してほしいと思うでしょうし その逆で、見返りを求めずに行動している人ならば、たまの感謝ですら嬉しいものでしょう。 どれくらいが適切かなんて、その時の相手の心次第。相手との関係次第。 感謝する側、伝える側ならば、相手のことをどれほど親身になって考えているかでしょう。 毎日大変な思いをしていると思うなら、自然と感謝の気持ちは出てくるものだと思いますし、 その逆で、相手のことを思いやれない人は、感謝をしようとすら思わないでしょうから。 また、相手のご機嫌取りのためにしているのは、感謝ではないですよね。 感謝を伝えた側、された側の両方が笑顔になることが理想ですが、感情がうまく表情に出ない方もいます。 それでも「喜んでくれた」とわかる関係を築けているかどうか。 やはり、そちらのほうが大切なのではないでしょうか。
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- HeyXey
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あいや、間違いました^^;。 「一切皆苦」でした。 http://www.j-theravada.net/kogi/kogi155.html
お礼
仏教の言葉が色々あるのですね。 ありがとうございました。
- HeyXey
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こんばんは、50代男性です。 まぁねぇ、純粋な “感謝” なんて、なかなかないですよね。「この程度の感謝がかえって来るだろう」という相手の期待に応えなくては、という強迫感が少し混じったりしますよ。でもね~、本来の感謝というのは、「自分がお礼を言いたいから言う」というものです。 感謝というのは、「自分はラッキーだな」「恵まれてるな」という実感と、それが自分以外のもの(他者、自然、偶然、神など)によってもたらされたという認識によって成り立ちます。そもそも、そういう“実感”が無ければ、本当の“感謝”も無いのです。感謝は幸福の隣にある概念なのです。 「感謝」という言葉を聞いてイメージするのは、<ひとに頭を下げてお礼の言葉を述べている姿>という人が多いのではないでしょうか。それで、本来の感謝=幸福ではなくて、やや卑屈なイメージとして捉えられているのではないでしょうか。 許してくれないのなら謝らない。相手が感謝してくれないのならお礼をしない。そういう態度は本来的ではないのです。「自分が」謝りたいから謝る、「自分が」お礼したいからお礼する。それが本来の姿なのです。 実感としての感謝がないとすれば、どこかに「OOしてくれて当たり前」(たとえば、他人は自分のことを理解してくれて当たり前)という感じ方があるのかもしれません。他人に期待することをそぎ落とす方に熱を入れる方がよいでしょう。人生にも期待しないことです。「人生は自分の思うようにならなくて当たり前」と思っておいた方が幸せになりやすいのです。仏教では「一切皆無」というようです。 回答になっていないような文章ですが、肝をくみ取っていただければ幸いです。
お礼
>自分以外のもの(他者、自然、偶然、神など)によってもたらされたという認識 言われてみると感謝ってそういうものですね。 >「自分が」お礼したいからお礼する。それが本来の姿なのです。 色々考えると感謝から逸れて行くんでしょうね。 ほか、私には無いご視点、ありがとうございました。
- eroero4649
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私がとってもカワユスだった幼稚園くらいのときだったと思います。バス旅行で、ウサギの前足のキーホルダーというのが回ってきたのですね。幸運を呼ぶお守りだそうですよ。とってもカワユスだった幼少期の私は、これを自分がプレゼントされたものだと勘違いして、満面の笑みで「わー、ありがとー!」っていいました。おぼろげながら、その場面を覚えています。というのは、そういった瞬間にバス中が爆笑に包まれたからです。「なんでみんな笑ったんだろう?」と思ったのですね。 とってもカワユスな子供がそういっちゃったものだから、その持ち主の人は本当にそれをくれました。そうしろという雰囲気になってしまったのでしょうね。 かように、子供の無邪気な言葉というのは表裏がありませんからそういうことにもなるのです。感謝についても同じことでありましょう。その言葉と態度が、その人の内面から裏表なく出てくればそれは決して嫌味には受け取られないと思いますよ。 たまに喜怒哀楽がものすごく激しい人がいますよね。で、そういう人はどう思われているかというと、大抵苦笑されつつも愛されています。なぜならその態度に表裏がないからです。まあ中には子供っぽいと嫌う人もいますけどね。 だから、店員さんが料理を運んできただけでも、その人の内面から出てきた素直な感情が「うぉぉーーっ!ありがとォォォォ!」というものだったらアホだけど自己満足にはならないと思います。 「こうやって私は周囲に気づかいと感謝を忘れないのですよ」っていう下心や損得勘定が見え隠れすると嫌味だと思われるのではないでしょうかね。
- akiye2
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感謝は心から始まり行動となる、心で感謝することに際限はない。 ただし相手への考慮が無い行為は感謝とは言わない。
お礼
感謝を伝えて喜ぶ人に感謝をすると、 時にまた感謝されたい欲を植え付けて 感謝されないと相手を非難する人にしてしまう事もあるんですよね。 簡単だからと言葉で感謝を伝えようとすると 人の心の秩序を乱し苦しませる自己満足になってしまう事もある。 難しいです。 ご回答ありがとうございます。
- kurione
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自分ならどうされたら嬉しいのか、好ましくみられるのかと考えてみても相手にとって同じとは限らない。同じ人でも体調やスチュエーション、精神状態で、真逆に感じる事さえある。言葉は時に多くの欺瞞と偽善をマスクする。受け止める側はその言葉に違和感を感じながら、信じたいという気持ちが強ければ強いほど、その違和感を自らマスクしてしまう。それどころか自分が悪いとさえ思ってしまう。感謝と陳謝は全く違うのに、同じ言葉のことは多々ある。感謝の程度を考えてからでは遅い。相手も自分も嫌な気分になる。相手によって感謝の程度を変えるのではなく、その時の気持ちを素直にありがとうと言えば良い。 あなたの文章を読んでいると、感謝をどう表していいのか分からないではなく、人を信じれるか?という様に感じてしまう。裏切られるのが怖いから自分にも非があると思う。一番楽だ。困らせたくないから、自分の心を包んでしまう。衝突を避けるため交代する。優しいともいえますが回りに一線を引いて人間関係を浅くしている。ただ感情を押し殺すことに上手になりすぎると、どう感情をだしていいか分からなくなる。 そう感謝の適切さなど答えのないものに。ありがとう。ありがとうございます。そして納得出来ないときには無表情。言葉は感情を表せない。
お礼
1つの同じ言葉でも、寝る前に思い返すと別の感じ方をしたり その時相手に返した態度と真逆に感じる事もありますよね。 同じ言葉を2度伝えた時に感じる相手の感じ方も本当に未知数ですし。 >言葉は時に多くの欺瞞と偽善をマスクする。 根本的には自分が感謝する事で快適な対人関係、人生を循環させられるから 自分にその習慣が根付き、その中で生きているだけなんですよね。 そのモデルとなる人物が居るからこそ感謝の仕方も伝え方も知っている。 その弊害や悩みも見て感じ考えているからそれなりに安定した形で。 >その時の気持ちを素直にありがとうと言えば良い。 そうですよね。 同じ言葉でも違う事だらけで、 あれこれ考えてしまい心がブレると伝わり方も全然変わってしまいますし。 >感情を押し殺すことに上手になりすぎると、 >どう感情をだしていいか分からなくなる。 そんな感じです。 感謝の適切さに答えはないんですよね。 自己満足になってしまいますが、 自分の感じたままに ありがとう と伝えようと思います。 ご回答ありがとうございました。
お礼
伝えないと伝わらない事だらけ、見えない事だらけの人の人生。 何を察し何に感謝できるかは、何に目を向け生きて来たか次第。 何に目を向けて来たかは、何に目を向ける人と身近に生きたかが左右する。 感謝の習慣はより快適に生きる自衛手段の1つなのかもしれません。 感謝する側と伝える側双方が笑顔になることは 自分が何に感謝しているのか具体的に伝えれば伝わりやすくて それほど難しいほどではないのですが、 精神的に不安定な境遇の人ほど感謝を喜びやすい様に見え、 精神的見返り(感謝)を強要する態度が 冷めた無機質な感謝ではない同じ音の言葉を生む事もある様で。 それは生まれ育つ人の心が通る道なのかもしれませんが、 巻き込まれる人を見るとこちらの非を感じてしまいます。 >どれくらいが適切かなんて、その時の相手の心次第。相手との関係次第。 やはり答えは無いんですよね。 相手の事を頭の片隅に入れながら、 自己満足に感謝するしかないのかもしれません。 ご回答ありがとうございました。