- ベストアンサー
極楽浄土を説明してあるお経について
仏教の入門書を読んでいます。素朴な疑問なのですが、お経の中には、仏が極楽浄土のことを説明しているものがあるようですが、確か、お釈迦様は、毒矢の例えのお経にもあるように、生きている人間には伺い知れない死んでから後のことには触れなかった姿勢のように理解しておりますが、このあたりは、どのように解釈されているのでしょうか?
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
>仏が極楽浄土のことを説明しているものがあるようですが、 「極楽浄土」というのは阿弥陀仏の浄土のことです。 仏は各々浄土を持っていると考えられています。 薬師如来の浄土が瑠璃光浄土です。 尚、極楽浄土や地獄の光景をやたらに詳しく描写したのは源信という人で往生要集という書籍に書き残しています。 経典の類でここまで具体的に記載したものはないかと思います。 法華経なども仏の世界での出来事の情景として記述しているだけかと思います。 >生きている人間には伺い知れない死んでから後のことには触れなかった姿勢のように理解しておりますが 触れなかったのではなく触れる必要がなかったと考えられています。 そもそもインドで始まった仏教の考え方の基本に輪廻転生という考え方があります。 天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄と各々世界があり生きとし生きるものはこの世界をグルグル回っているという考え方です。 この輪廻転生から逃れて転生しなくても済むのが仏の世界だという考え方です。 人間界に居る間だけこの仏の世界へ移行することができると考えられています。 仏の世界へ移行するにはあらゆる煩悩を断ち切る必要があるとされています。 このあらゆる煩悩を断ち切った状態を涅槃といいます。 この涅槃の境地に達するにはどのようにしたらいいかということを釈迦が説いたとされてて釈迦自身涅槃の境地に達していたとされています。 生死などに拘るのも煩悩があるからだとされていますので、涅槃の境地に達して生死を越えていますから生だの死だのを語る必要性はないということになります。 >このあたりは、どのように解釈されているのでしょうか 釈迦自身は何も書き残していません。 経典は殆どすべて如是我聞で始まっています。 「我れかくのごとく聞けり」ということで経典を書いた人が自分は釈迦からこのように聞いたという意味です。 逆に言いますと、如是我聞と書けば後はどのように書いてもかまわないということになってしまいます。 日本仏教の大元の大乗仏教には五千巻を越える経典があります。 中にはインドには無くて、明らかに中国で書かれたものも含まれています よってたかって書いていますので、個々の経典を読み比べると矛盾が沢山あります。 日本仏教はこの五千を越える経典の中から法華経と華厳経を基本的な経典としています。 この法華経や華厳経のエッセンスを纏めたものとして般若心経(仏説魔訶般若波羅蜜多心経)というのがあります。 世界中の仏教国で各々の国の言葉に訳されて読まれています。 日本で読まれているようにタイでもチベットでも読まれていますので、般若心経に関してであればどこへ行っても通用するということです。 とは言え、日本では浄土真宗の方が読みません。 浄土真宗というのは阿弥陀仏を最高の仏として阿弥陀仏の世界である極楽浄土への往生を願っていますので、般若心経が説く世界とは相いれない部分があるためでしょう。 超超大雑把な説明になりましたが、要は仏教はキリスト教やイスラム教のように一つだけの解釈という方法をとりませんのでご質問の極楽浄土と釈迦との関係もどの経典に基づいて考えるのかで違ってきます。 違っていてもどれが正しいとか間違っているとか言わないのも仏教の特徴です。 禅宗の世界ではこう考える、浄土真宗の世界ではこう考えると言うだけのことです。 日蓮宗が真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊などとよく他宗の悪口をいいますが、イスラム教やキリスト教のように解釈の仕方が違うということだけで殺し合いをするということはありませんでした。
その他の回答 (1)
- catpow
- ベストアンサー率24% (620/2527)
再誕の仏陀であられる、幸福の科学の大川総裁の著書によれば、 お釈迦様の最初のころの教えは、あの世は、すばらしい極楽浄土であり、この世は大した価値は無い、って教えだったようです。 ですから、死んでから後のこともしっかり教えていたと思いますよ。もちろん、その後も。 死後の世界に触れない姿勢だったら、カントとか孔子様の教えにように、それは非宗教的なものになるでしょうね。 多くの一般人は、お釈迦様のような悟りを得たレベルになっていません。 ですから、人々を悟りに導こうとしたら、いきなり最上級の悟り(答え)を伝えても、人々が進歩する役にはたちません。 だから、毒矢の例えの話がでてくるわけです。 例えば、小学校の低学年の生徒が、いきなり「微分積分の問題をやりたい!」と言い出しても、「その前に九九をマスターしようね」ってアドバイスになると思います。 とりあえすは、九九をマスターするやり方を教えることになるでしょう。これが毒矢のたとえ話。 いきなり凄いレベルをめざさず、目の前のことをしっかりやれってことで、それと同じことだと思います。 C言語のプログラミングでいえば、 「先輩、『Hello,World!』を1行画面に表示するプログラムがC言語できたよ! で、ネットワークプログラムはどう書けばいいの?」 って質問に対する答えかなあ? 「おまえ、そのプログラム書くのは10年早い!」ってなるね。 「その前に、しっかりファイル入出力ライブラリの使い方覚えろ!!」 って答えが、毒矢のたとえみたいなものかな。
お礼
段階、というわけですか。なるほど。一応、死後の世界は説いておられるのですね。不勉強でした。ありがとうございました。
お礼
実に、仏教の体系が分かりやすく解説されていて非常に参考になりました。あの世のことも、お釈迦様が説明されたのではなく、後世の人の、如是我聞で語られたお経の中における解釈なのですね。これで疑問が解けました。それにしても、そのような膨大な数のお経があれば、後世の人間も中々大変ではありますね… ありがとうございました。