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なぜ明智光秀は君主の織田信長を殺したのですか?

なぜ明智光秀は君主の織田信長を殺したのですか? 理由と背景を教えてください。

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  • jkpawapuro
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回答No.1

はっきりとはしていません。 少し前に信長は信長家督相続時の最大の功労者である佐久間信盛を、さしたる咎もないのに追放しています。こちらも理由が判然としないのですが、畿内の主要ルートを直轄化し物流税、売上税をとりたてるべく佐久間の領地をとりあげた説があります。 そしてあまり出典がよろしくはないのですが、明智に近江坂本召し上げ石見・出雲を切り取り次第 と命じたと言われています。いかんせん近江坂本は当時の畿内物流の最重要拠点、部下に与えてるにはもったいない場所です。それで光秀が佐久間追放に自分を重ね合わせ暴発に至ったと言われているのが一つの説です。

japanway
質問者

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 歳がお若いのでしょうか? 回答から先に述べますと、はっきり言って「永遠の謎」なのです。 ★天正3年(1575)、長篠の戦いで信長が勝利をおさめた時、光秀が、 「勝利は何よりも嬉しく思います」 と、信長に言ったところ、信長が激怒し、 「その方は、いかなる働きをしたと言うのじゃ」 と、光秀の首を抑えて、縁側にある欄干に額を何度も打ち付けた。 ★天正10年(1582)、信長と同盟を結んだ徳川家康が、信長の招待で京都、大阪、堺遊覧をしましたが、安土城で信長の接待を受け、酒、肴が出されましたが、その時、「饗応約」(接待役)を命じられていたのが、明智光秀。 そして、膳に出された地元の名産である「鮒寿司」を見て、信長が激怒し、 「こんな腐った物を出すのか!」 と叫んで、膳を蹴飛ばし、家康の前でハジをかかされた。 ※「鮒寿司」は、近江(滋賀県)で有名で、樽に鮒を並べて敷き、その上からご飯を敷き詰めて重石をかける。やがて、発酵して「なれずし」とも呼ばれるようになる。食べると非常に美味しいのですが、いかんせん、臭いは「腐った臭い」がする。 信長はこの「鮒寿司」を食べたことがなかったために、臭いがきついため、腐った物を出した、と勘違いをした。 ★天正10年3月~、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、その頃、備中(岡山県)高松城の毛利攻めに苦戦を強いられて、信長に援軍を求めましたが、この時、光秀は丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)亀山城主となっていた。 しかし、信長から、丹波国を召し上げられ、秀吉に加勢することを命じられ、勝利をおさめたなら、毛利氏の後釜として備中一国を与える、と言われた。 ★秀吉に加勢する。とは、聞こえは良いが、秀吉よりも光秀の方が上席。 つまりは、光秀よりも格下の秀吉への加勢を命じられ、光秀としては「情けない」と考えた。 以上のような常日頃から光秀は、激高タイプの信長に不満を抱いていた。 などなどの理由が挙げられていますが、どれが「真実」かは、未だにに分かってはいません。 多くの研究者(歴史家、歴史作家など)が、その真相を知りたいと研究を続けているのが現状です。

  • lions-123
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回答No.2

>なぜ明智光秀は君主の織田信長を殺したのですか? 真相は光秀の心中に秘められていたと思いますが、推測の前提に当時は下剋上の時代であり、光秀は途中採用の出世頭的な位置とはいえ、ライバルや嫉妬羨望を受けてる立場、信長の意思によっては失脚や追放は可能性のある不安定な境遇や心理状態であった。 その為に、確信犯&計画的な面「天下取りの野望、黒幕説等の謀略」と誘惑やチャンス&暴発的な理由「領地召し上げ、四国攻めの遺恨、本能寺警備の薄さや家康の上洛中、重臣たちの各地での転戦」があり、そのいずれかというよりも複雑に絡み合った原因と動機、チャンスと可能性に賭けたクーデーターor大勝負の要素が強いと思います。 遺恨説・黒幕説等の諸説があり、その動機や決断の時期場所によっても心境は様々に揺れ、最終的な決断は、信長の独裁の極限化が光秀の価値観と教養とギャップが大きく、イに染まぬ出兵を命じられた不満と不安に警備状況や重臣の不在と敵対勢力との対峙等の成功の確率の高さが誘因だと思います。 個人的には (1)兵法のアタマを取る事で有利に時局を働かせるとの思い。 (2)逡巡や迷いがあり複数のターゲットを同時殲滅には準備や手配に無理があった。 (3)思い以上に見方が少なく配置が出来ない所は信長打倒後に個別撃破&呼応を期待。 (4)現実に家康を狙い、信忠も殺害してるので、天下取りを意識はしてるが、靡くものが少ない誤算で敵の敵で殲滅や恭順を狙う画策が効果的には出来なかった。 (5)天下取りには、群雄割拠してる他のリーダー達の中から,味方や協力者を質量ともに補充しなければならず、そういう意味で信長打倒後の味方への参加という甘い期待を抱き過ぎ、戦略的に練り上げられ準備周到なクーデーターというよりも、怒りや遺恨と信長への恐怖がリミッターを超えた衝動的な暴発の要素がその後の行動や展開にあり、反撃勢力への先手必勝の攻撃打倒、呼応勢力の結集が出来なかったのが結果的に失敗の原因だと思います。 そこに、感情の爆発や遺恨による変の由縁があり、戦略家策士としての天下奪取の構想や仕掛けが不十分なままに、アタマを取れば何とかなる、もっと反信長に同調者・支援者・民衆の支持が増えるとの思惑や読みが甘かったのでは・・・