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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:韓国併合に至るまでの日本人の人的損害。)

日本人の人的損害と韓国併合:記録された軍人の死傷者と事件の要約

このQ&Aのポイント
  • 韓国併合に至るまでの日本人の人的損害や事件について調査しました。
  • 軍人の死傷者数には記録がありますが、軍人以外の日本人が朝鮮半島内で韓国人に襲われた事件は明確な記録は見つかりませんでした。
  • 一部の記述では、高宗皇帝が日本人の遺族に対して慰労金を支給したとされていますが、具体的な事件についての詳細は分かっていません。韓国併合までの期間は約6年半でした。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Kittynote
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回答No.7

引き続き『駐韓日本公使館記録』を眺めていますと、 No.5投稿で「1896(明治29)年2月」の事件のようです。と カキコミましたのは拙速だったようです(><) ●駐韓日本公使館記錄 9>一.本邦人被害에 關한 件三·四> http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_009 上記の幾つかを読みますと、1896(明治29)年1月以降、 2月を含めそれ以後も事件が有ったようですし、 また当初の損害賠償関連では「明治二十九年一月以後(以來)…」 「明治二十九年中…」などの表現が遣われていて、 単に2月の特定事件だけを指すのではなく、 概ね明治二十九年中の包括的な損害賠償請求の位置付けのようです。 個別具体的にピックアップとも思いましたが、 情報量が多過ぎのため誠に勝手ではございますが、 お時間の許すときにでも 『駐韓日本公使館記録 9』「一.本邦人被害에 關한 件三·四」等を (1)本邦人殺害者逮捕及處分方朝鮮政府ヘ照會ノ件 送第二二號 西園寺公望 1896-03-09 ~ (45)[賠償金支拂通告] 李夏榮 1905-02-07 まで順に御覧いただければ、死者数など一部?は残りますが 概ね全体の流れが掴めると思います。 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

まず最初に私の質問の数値が間違っていたことをお詫びします。 kittynote様はお気づきだったと思いますが、「83,750 元の慰労金」は「183,750 元の慰労金」でした。 私は、やっと気づきました。 混乱させてしまって申し訳ありません。 私は韓国併合の第一歩は、日露戦争「鴨緑江会戦」(1904年(明治37年)4月29日―5月6日)だと仮定して質問しました。 結果は、日本が勝ちましたが、日本軍にも千名を超える死傷者が出ました。 朝鮮半島をわが国土とするために多くの日本人が犠牲になっています。 日本の民間人も韓国という異国にいるわけですから、何かと争いに巻き込まれて死に至るケースもあったでしょう、というくらいの認識でした。 ところが、明治29年(1896)には、すでに多くの日本人が襲撃されていたのですね。 「日韓議定書」締結以降に、日本に対する反対運動が起きたのだろうと思っていましたから、驚きました。 特に酷い事例だけが報告されて記録されたのでしょうから、現実はもっと多くの事件があって、毎日どこかで事件が起きていたという状況に近かったと思います。 このような事実が分かったことで満足です。 秘密第二三號「朝鮮國ニ於テ我人民被害ニ關スル件」(4月6日発:小村公使) 本年一月以來當國各地ニ於テ朝鮮人ノ爲メ我良民ノ兇害ヲ被ル者續出候儀ハ如何ニモ痛慨ニ堪ヘサル次第(中略)今回ニ於ケル我人民被害ノ原因ハ王妃ノ殺害斷髮令ノ發布等ニ關スル愚民ノ迷謬ニアルコト素ヨリナリト雖トモ現政府カ權力ヲ占メテ以來續續發布シタル詔勅等ニ於テ明ニ日本排斥ノ意味ヲ含セタルハ則其兇害ヲ一層大ナラシメタルコト瞭然タル義ニ有之候 自国の都合で異民族を支配しようとするのですから、単純な言葉では言い表すことはできませんが、大きな代償を支払わなければならない、ということがよく分かりました。 >1896(明治29)年1月以降、2月を含めそれ以後も事件が有ったようですし、また当初の損害賠償関連では「明治二十九年一月以後(以來)…」「明治二十九年中…」などの表現が遣われていて、単に2月の特定事件だけを指すのではなく、概ね明治二十九年中の包括的な損害賠償請求の位置付けのようです。 分かりました。 「駐韓日本公使館記錄」は厖大な量ですね。 これは、ちょっとやそっとで片付きません。 今回も実に多くのご教示をいただきました。感謝申し上げます。

その他の回答 (6)

  • Kittynote
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回答No.6

改めて『駐韓日本公使館記録』を覗いて見ますと、 明治二十九年二月頃の状況がおぼろげながら見えてきました。 例えば下記(電柱60本)なども損害賠償の対象候補の一つと言えそうです。 ●「駐韓日本公使館記錄 7」五. 機密通常和文電報往復一·二第4冊 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007 ・駐韓日本公使館記錄 7>五. 機密通常和文電報往復一·二第4冊> (177)[驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]> 〇1) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]1  高井 1896-02-07 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0010 〇2) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]2  小村 1896-02-07 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0020 〇3) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]3  高井 1896-02-07 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0030 〇4) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]4  小村 1896-02-07 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0040 〇5) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]5  餘村 1896-02-08 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0050 〇6) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]6  渡邊 1896-02-08 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0060 〇7) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]7    1896-02-07 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0070 〇8) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]8  高井 1896-02-08 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0080 〇9) [驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]9  高井 1896-02-08 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0090 〇10)[驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]10 三宅 1896-02-07 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0100 〇11)[驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]11 高井 1896-02-09 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0110 〇12)[驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]12 小村 1896-02-29 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0120 〇13)[驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]13 高井 1896-02-09 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0130 〇14)[驪州·可興等地의 暴徒狀況 통보]14 小村 1896-02-09 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1770_0140 ・駐韓日本公使館記錄 7>五. 機密通常和文電報往復一·二第4冊> (196)[驪州 부근 暴徒에 관한 상황 보고] 〇1) [驪州 부근 暴徒에 관한 상황 보고]1  伊津野 1896-02-10 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1960_0010 〇2) [驪州 부근 暴徒에 관한 상황 보고]2  伊津野 1896-02-11 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_1960_0020 ・駐韓日本公使館記錄 7>五. 機密通常和文電報往復一·二第4冊> (205)[廣州 및 驪州 부근 暴徒에 관한 통보] 〇1) [廣州 및 驪州 부근 暴徒에 관한 통보]1  高井 1896-02-27 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_2050_0010 〇2) [廣州 및 驪州 부근 暴徒에 관한 통보]2  高井 1896-02-29 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_2050_0020 ・駐韓日本公使館記錄 7>五. 機密通常和文電報往復一·二第4冊> (206)[在朝鮮國 日人被害者 조사와 보호 件] 〇1) [在朝鮮國 日人被害者 조사와 보호 件]1  小村 1896-02-29 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_2060_0010 〇2) [在朝鮮國 日人被害者 조사와 보호 件]2  萩原 1896-02-29 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_007_005_2060_0020 上記のほか、2月以外の日付も含みますが、下記など。 ただし、多数につき個々のURLは省略しました。 ●「駐韓日本公使館記錄 8」七.本邦人被害에 關한 件一·二 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_008 ・駐韓日本公使館記錄 8>七.本邦人被害에 關한 件一·二> (1) [驪州附近의 暴徒 情況 報告] 號外    加藤增雄 1896-02-16 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_008_0070_0010 ~ (72)北進暴徒動靜ニ關スル件(二)  公第七七號 二口美久 1896-10-07 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

  • Kittynote
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回答No.5

少しだけ進展がありました^^ 『駐韓日本公使館記錄』によりますと、どうやら1895(明治28)年ではなく、 「建陽元年二月ノ交朕カ領土內ニ不逞ノ徒輩蜂起シ危害ヲ大日本帝國 臣民ニ加ヘ若クハ其財産ヲ掠奪シタルノ事實アリ」の記述から、 「1896(明治29)年2月」の事件のようです。 また1905(明治38)年2月2日以降韓国側から受領した 「賠償金拾八萬三千七百五十圓」は、1905(明治38)年2月8日、 駐韓・林公使から第一銀行経由で小村外務大臣宛に電送。 ・駐韓日本公使館記錄 26>一.本省往電一~四> 〇(17) [暴徒에 의한 日人 損害賠償 件] 第二三號 林公使 1905-01-18 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_026_0010_0170 第二三號 明治三十八年一月十八日正午發 林公使 東京 小村大臣宛 二十九年損害賠償問題ヲ此時機ニ解決スル爲メ本官ハ先頃來當路大臣ニ熟 議シ又前回ノ謁見ニ於テ奏上スル處アリ本件ハ之ヲ韓國政府ノ責任問題ト シテ引續キ公然ニ交涉スルヨリハ寧ロ韓帝陛下單獨ノ意思ニ基キ救恤金若 于ヲ政府若クハ內帑ヨリ支拂ハシムル事トスル方韓廷ノ意ニ投シテ本件ヲ 速決スルニ便ナリト認メ一昨日ノ謁見ノ際大要左ノ意味ノ詔勅ヲ發セラレ ン事ヲ上奏シ陛下ノ同意ヲ得タリ (三十八.一.十六起稿詔勅全文) 右詔勅中ノ金額ニ關シテハ本官ハ前來ノ要求額貳十四萬五千圓ヲ其儘記載 シタルモ外部大臣ハ豫テ本官ニ對シ半額以上ノ减額ヲ求メ又陛下モ金額ニ 關シテハ外部大臣ヲシテ協議セシム可キ旨勅答アリ且本件發生前後韓國ニ 於ケル事情及我地位等ヲ斟酌スルトキハ要求ノ權利サヘ多少疑問ニ屬スル ヲ以テ金額ノ減少ハ止ムヲ得サルモノト思考ス就テハ要求額ノ半額ヲ限度 トシテ臨機减少ノ權能ヲ本使ニ與ヘラレ度シ又支拂金額ノ如何ニ係ハラス 目下韓國ノ財政ニ顧ミ支出上必ス困難アル可キニ付愈確定ノ場合ニハ第一 銀行又ハ三井物産會社ヨリ借入シムルニ關シ本官ニ於テ相當ノ助力ヲナス 筈ナリ右大體ノ御承認ヲ乞フ 詔勅 曩キニ建陽元年二月ノ交朕カ領土內ニ不逞ノ徒輩蜂起シ危害ヲ大日本帝國 臣民ニ加ヘ若クハ其財産ヲ掠奪シタルノ事實アリ當時朕カ政府ハ當局有司 ニ命シ匪徒ノ鎭壓ト被害者ノ救護ニ盡サシメタルモ奈何セン交通ノ不便ト 通信ノ遲緩トハ容易ニ鎭壓ノ功ヲ奏シ救護ノ實ヲ擧クル能ハサリシハ朕ノ 深ク遺憾トスル所ナリ嗣後幾星霜朕ハ朕ノ政府ニ命シ被害者ノ賑恤ヲ凝議 セシメタルモ時勢ノ不便相踵テ到リ未タ賑恤ノ典ヲ擧クル能ハス朕深ク以 テ憾トス今ヤ韓日兩國間ノ交誼日々ニ深厚ヲ加フルニ當リ勝カ敬愛スル大 日本帝國皇帝陛下ノ赤子ヲシテ尙ホ怨ヲ地下ニ含ミ其妻兒ヲシテ道塗ニ泣 カシメ又ハ財産被奪者ヲシテ永ク補償ノ途ヲ得セシメサルハ抑モ朕ノ本意 ニ非ス依テ朕ハ朕ノ政府ニ嚴命シ金貨貳十四萬五千圓ヲ內帑ヨリ割テ當時 ノ被害者全員ニ發給セシメ以テ朕ノ惜哀賑恤ノ念ヲ明カニシ且韓日兩國間 永遠ノ交誼ヲ助長スルニ資セントス爾有司之ヲ體セヨ ・駐韓日本公使館記錄 26>一.本省往電一~四> 〇(27) [暴徒에 의한 日人損害賠償 決定 件] 第三五號 林 1905-01-25 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_026_0010_0270 第三五號 明治三十八年一月二十五日午後四時發 林 東京 小村外務大臣 賠償金ノ件ニ關シ昨日電報セル如ク外部大臣ヘ談話ニ及ヒタル末本使ハ昨 夕皇帝陛下ハ外部大臣ヲ召見セラレ本件ヲ裁決アラン事ヲ求メタリ其結果 外部大臣ハ本朝國分書記官ニ對シ陛下ハ尙ホ多少ノ减額ヲ希望セラルゝモ 大臣ノ責任ヲ以テ四分ノ一ヲ减シタル額即拾八萬參千七百五拾圓ヲ救恤金 トシテ支拂フ事ニ同意スヘキ旨ヲ告ケタリ仍テ本件ハ不日決定ニ至ルヘシ 但シ實際ノ支拂ハ借款等手續ヲ要スル事アルニ付多少手間取ルコトアルヘ シ ・駐韓日本公使館記錄 26>一.本省往電一~四> 〇(36) [暴徒에 의한 日人損害賠償金受領件 續報] 第四四號 林公使 1905-02-02 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_026_0010_0360 第四四號 明治三十八年二月二日午後一時五○分發 林公使 小村外務大臣宛 前電第三五號電稟ノ通リ賠償金十八萬參千七百五拾圓ヲ特ニ內帑ヨリ支出 シ被害者遺族及損害ヲ被ムリタル者ニ恤典ヲ施スヘシトノ詔勅ヲ奉有シタ ル旨ヲ叙シタル外部大臣ノ一昨日附照會ニ接到セリ又其金額ハ帝室ヨリ第 一銀行支店ニ預ケ入金中ヨリ已ニ引出シ濟ナルヲ以テ今明日中ニハ現金受 領ノ運ニ至ルヘシ詔勅之趣旨ハ本使電報第二十三號中ニ電稟セシトコロト 大同小異ノモノナリ委細郵便 ・駐韓日本公使館記錄 26>一.本省往電一~四> 〇(40) [賠償金 電送 件] 第四九號 林公使 1905-02-08 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_026_0010_0400 第四九號 明治三十八年二月八日正午 林公使 小村大臣 當方電報第四四號ニ關シ賠償金拾八萬三千七百五十圓接收シタルニ付本日 第一銀行ノ手ヲ經テ閣下宛電送ス なお「1896(明治29)年2月」の事件?としても 特定となりますと…(><) たとえば下記(3)などとか? ・駐韓日本公使館記錄 8>七. 本邦人被害에關한件一·二> 〇(1)[驪州附近의 暴徒 情況 報告]號外 加藤增雄 1896-02-16 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_008_0070_0010 〇(2)[開城 居留民 撤收 통보]內田 1896-02-20 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_008_0070_0020 〇(3)[咸鏡·江原·黃海道 暴徒狀況 보고]公第六號 上田專一 1896-02-18 http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_008_0070_0030 以上 「1896(明治29)年2月」の事件?が特定出来ないため 中途半端ではありますが 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

私個人の疑問にここまで徹底的に調べて下さって真にありがとうございます。 もったいない限りです。お手数をお掛けしましたこと、恐縮に存じます。 明治29年ごろから日本人が襲われる事件がこんなに多くあるとは想いも寄りませんでしたので、想定外で途惑っています。 私の浅い歴史知識では、多くの事例を提示されてもなかなか理解できません。 >「建陽元年二月ノ交朕カ領土內ニ不逞ノ徒輩蜂起シ危害ヲ大日本帝國臣民ニ加ヘ若クハ其財産ヲ掠奪シタルノ事實アリ」の記述から、「1896(明治29)年2月」の事件のようです。 そうですね。結論はこれだと思います。 この事件の処理になぜ9年間もかかったのだろうと思いましたが、 「嗣後幾星霜朕ハ朕ノ政府ニ命シ被害者ノ賑恤ヲ凝議セシメタルモ時勢ノ不便相踵テ到リ未タ賑恤ノ典ヲ擧クル能ハス朕深ク以テ憾トス」とのことで、よく分かりません。 当時の日韓関係を知っていなければ分からないということで、後日調べてみます。 賠償金は双方歩み寄って、日本側が初めに提示した金額の75%なので、交渉した両者の顔が立つ形で解決していますね。  1896(明治29)年2月の事件を特定するために、『駐韓日本公使館記録』を丹念に読んで、調べて下さったのですね。 感謝の気持ちでいっぱいです。 この記録を読んでいくと、まさに同時進行でその場に居合わせたような気になります。 実に面白いです。 ところで、#4のお礼欄に「李朝朝鮮の“開国”について追って調べてみようと思います。」と書きましたが、開国は建国のことを指しているのですね。 私は、別かなと思って、ちょっとつまづいて要らぬ時間を費やしました。

  • Kittynote
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回答No.4

沈黙を守っていらっしゃいますところをみますと、 私の見当違い投稿に開いた口が塞がらないのかもしれませんね^^ ただ正直、御質問主題が何れなのか判断がつきかねますが、 軌道修正して改めて「高宗在位(~1907.7)期間内」に限定して 調べ直しを試みましたが、ほとんど先にすすめません(><) 御提示事例の「注 14)」では、 「內帑庫のお金を出して匪賊に殺された日本人の遺家族を救済する」 (『朝鮮王朝実録』高宗45巻1905年1月30日,1番目の記事)。 と記されていますが、どうやら冒頭部分が省略されているようです。 韓国側資料に当たってみますと、先ず下記の漢字表記版に出会しました。 事件特定も実際に何時支払われたかも?のままですが、 『日省録』<1904(明治37)年12月25日>「開國五百四年春匪徒搶攘時在國內 日本臣民性命財産多被其戕害伊時慘狀令人酸鼻丙枕靜思至今…」の記述から、 どうやら1895(明治28)年春の被害に対しての「內帑金十八萬三千七百五十元」 であることが分かります。 ・SEOUL NATIONAL UNIVERSITY KYUJANGGAK INSTITUTE FOR KOREAN STUDIES>日省録 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/LANG/jp/search/2_02_search_ilseongnok.jsp ■年度別/・1900年代 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/home/index.do?idx=06&siteCd=KYU&topMenuId=206&targetId=379&gotourl=http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/home/YDG/YDG_CLASS.jsp?ptype=class^subtype=ils^lclass=year^mclass=1900 >・1904 (광무 8 년)> 12(월)/3/3 >1904 년 12 월 25 일 特下內帑金分恤國內日本臣民被害者遺族 詔曰朕念開國五百四年春匪徒搶攘時在國內日本臣民性命財産多被其戕害伊時 慘狀令人酸鼻丙枕靜思至今惻然嗣後屢令政府向該被害者遺族及損害者議施恤 典緣於勢使尙未體行是豈朕本意哉今者韓日友誼日益敦密朕不忍長使朕良友大 日本皇帝陛下之赤子含怨於九原又使其孤兒寡婦失業顚連特將內帑金十八萬三 千七百五十元撥下政府使之從便分恤 以示朕一視如傷之至意而敦我兩國永遠之友好 その後、ネット上で『朝鮮王朝実録(高宗)』を探しましたが、 現時点ではハングル版しか見つからないため、それを自動翻訳してみますと、 『日省録/1904.12.25』『朝鮮王朝実録(高宗)/1905.1.30』と記録日付には 相違がありますが、内容は概ね同一の様子が伺えます。 「1895(明治28)年春」の事件?と 改めてスタートラインに立ったばかりですが、 追加投稿に至れるか否か分かりかねます(><) 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

『日省録』まで調べて下さって真にありがとうございます。 「開國五百四年春匪徒搶攘時」とあるので明治28年(1895)春ということになるのですね。 明治28年春の日韓の出来事をちょっと調べてみたのですが、思い当たる事件はないですね。 李朝朝鮮の「開国」について追って調べてみようと思います。 ・SEOUL NATIONAL UNIVERSITY  KYUJANGGAK INSTITUTE FOR KOREAN STUDIES は、とても興味あります。 素晴らしいサイトを教えて下さって感謝の気持ちでいっぱいです。

  • Kittynote
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回答No.3

またまた失礼致します。 No.1投稿中の「○明治42年5月28日/暴徒被害救恤金/27日京城特派員発 暴徒の為に生じた被害者に対し、韓皇帝より救恤金10万円が下賜される事 になった。」の断片記事だけでは10万円と9万4千円との関連が不明のため もう少し幅を広げて調べてみましたところ、下記によりますと、 No.2投稿分『第二次韓國施政年報 明治四十一年/統監府/明43.4』の金額と 少し差異がありますが、どうやら9万4千円は10万円の内に含まれるようです。 〇件名:朝鮮総督府施政年報 明治43年 ・国立公文書館>内閣文庫>朝鮮総督府刊行物>朝鮮総督府施政年報 [レファレンスコード]A06032015000[画像数]219 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06032015000 第四章 賑恤/第二十二節 暴徒被害ニ對スル救恤 <58/219> 明治四十年八月暴徒蜂起以來一般人民ニシテ其ノ災禍ヲ被ル者頻頻續出スルニ及 ヒ舊韓國政府ハ特ニ舊韓國皇室ノ内帑金十萬圓ノ下賜ヲ奏請シ慰恤ノ目的ヲ以テ 死者一人ニ付金拾圓、被燒戸一戸ニ付金十二圓ノ割合ヲ以テ被害死者朝鮮人一千 二百五十九名内地人百二十五名淸國人一名及被燒戸數六千六百八十一戸ニ對シ明 治四十一年末迄ニ九萬三千三十八圓ヲ頒給シタリシカ尚同年末迄ノ被害者ニシテ 救恤漏ノ分死者八百三十五名被燒戸二千四百二十九戸ニ對シ調査ノ結果明治四十 三年四月前記下賜金ノ殘餘金額六千九百六十二圓ヲ配與セリ…(後略)… 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

さらに詳しく調べて下さって真にありがとうございます。 「明治四十年八月暴徒蜂起以來」とあります。 同年7月に日本は韓国軍を解散させていますから、以降、暴徒(日本側の呼称、韓国では義民)が増えています。 その暴徒(義民)による襲撃で内地人125名が死亡し、その補償で「内地人」にも「死者一人ニ付金拾圓」出たのですね。 具体的でよく分かります。 >少し差異がありますが、どうやら9万4千円は10万円の内に含まれるようです。 私もそう思います。

  • Kittynote
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回答No.2

再度、失礼致します。 前投稿中の「○明治42年1月27日/暴動被害救恤/26日平壌特派員発 昨年来の暴徒被害者に対し、韓国政府は9万4千円の救恤金を交付した。」 の記事と関連する内容の詳細情報が見つかりました。 ・『第二次韓國施政年報 明治四十一年/統監府/明43.4』 〇「第九章 治安/第一節 暴徒/(三)暴徒の損害」<47/140>(58頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784421/47 …普通人民ニシテ暴徒ノ爲損害ヲ被ムリタル者ノ中其ノ被害ノ甚大ナルモノニ對 シテハ韓國皇室ヨリ特ニ慰恤ノ目的ヲ以テ死者一人ニ付金拾圓、被燒戸一戸ニ付 金拾貳圓ノ割合ヲ以テ恩賜金ヲ下附セラルルコトトナリ四十一年中死者韓國人千 二百五十九名日本人百二十五名清國人一名及被燒戸數六千六百八十一戸ニ對シ合 計金九萬四千二十二圓ヲ關係者ニ交付セリ なお、上記書籍と同等の別年度版も覗いてみましたが、 ・『韓国施政年報 明治三十九・四十年/統監府/明41.12』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784420 ・『第三次施政年報 明治四十二年/朝鮮總督府/明44.3』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784422 明治四十一年版以上の情報は得られませんでした。 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

  • Kittynote
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回答No.1

御提示の「高宗皇帝は,「匪賊」に殺された日本人の遺族に対して183,750 元の 慰労金を使うように政府に命じた。」件につきましては、 残念ながら直接には辿り着けませんが… >朝鮮半島内で韓国人(当時は大韓帝国)に襲われた事件はありますか。 ・歴史探訪「秋山真之が活躍した時代」 2 当時の韓国情勢 東京朝日新聞「朝鮮特電」欄記事より http://www.tsuyoshitsukuda.com/2-%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E9%9F%93%E5%9B%BD%E6%83%85%E5%8B%A2/ 上記から、明治40年1月~明治42年8月の間に限っても、 相当数の事件があったことが伺えます。 あと、断片記事に過ぎませんので詳細は不明ですが、 下記に救恤関連記事をピックアップしてみました。 ○明治40(1907)年 ・11月9日/韓国暴動被害/8日京城特派員発 各地で暴徒の横行がますます激しくなり、京城から数里の所にまで頻繁に被害を 蒙る者がでるようになった。又我が被害者は、最初から何らの損害賠償を求める 方法もなく、多数の財産、生命を失い、実業の被害は絶大であり、官憲の施設経 営も中止の状態である。統監も不幸な被害者に対し、相当な救済の途を図る為に、 現在検討中である。 ○明治41(1908)年 ・4月3日/暴動被害民救恤/2日京城特派員発 内部大臣は、暴徒の為に家屋を焼かれ、そして自費で再建の資力が無い各地の貧 民を救済する趣旨で、国有森林を伐採して建築資材を無料にて提供する事により、 乱伐その他の弊害に注意の上処理すべき旨を各監察使に訓令した。 ○明治42(1909)年 ・1月27日/暴動被害救恤/26日平壌特派員発 昨年来の暴徒被害者に対し、韓国政府は9万4千円の救恤金を交付した。 ・5月28日/暴徒被害救恤金/27日京城特派員発 暴徒の為に生じた被害者に対し、韓皇帝より救恤金10万円が下賜される事になった。 ・7月9日/暴徒被害統計/8日京城特派員発 度支部の調査によれば、昨年中暴徒の為に略奪された公金は、3万45千円で、 これに関連して死亡した者は36人、負傷した者178人、脅迫その他の遭難60名… 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答真にありがとうございます。 実は、厚かましいことですが、Kittynote様が調べて回答してくださるのではないか、と期待して質問しました。 今回も私の知りたいことにピタリです。 それに、びっくりするような面白いサイトを教えて下さったので、読み出したら止まりません。 脱線ばかりしていたので、お礼が遅れてすみません。 朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、日本軍と韓国・義兵との交戦数は、1908年 1451 1909年 898 です。 毎日、何ヵ所どこかで“戦闘”しているわけですが、数字の羅列だけではピーンときません。 具体例を新聞記事で読めば、鈍感な私でも肌身に感じます。 鉄道や郵便が妨害されたり、軍・警察の施設や学校が攻撃されたり、していますね。 郵便配達にも軍が警備していたとは、想像すらしていませんでした。 明治日本が、ロシアの脅威からわが国の独立を守るために、血を流してまで朝鮮半島を支配しようとした確固たる熱意を感じました。 それは、韓国民の物凄い犠牲を強いるものでしたが…。 日本軍の死傷者は、ざっと千五百人ほどということは、本にも書いてありますが、一般の日本人も何百人もの死傷者が出ていたとは、知りませんでした。 他民族を自国の文化基準で支配しようとしたのですから、当然と言えば当然です。 脱線ですが、何かにつけて日本人は「提灯行列」しています。疑問は尽きません。 「砂金」鉱山を手に入れています。鉱物資源で砂金は気が付きませんでした。 歴史を楽しむことができました。 感謝申し上げます。