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大衆小説について
「純文学」「大衆小説」という区分は日本だけの定義だそうですが、 私が子供の頃、今から15~20年前には、 直木賞はあったものの、いわゆる現在の「大衆小説」「エンタメ系小説」などは無かった(?)気がします。 ところが今の人は子供の頃から大衆小説に囲まれて過ごすので、 詳しくないからあれなんですが、 当たり前のようにそういった本を読むし、好きになりますよね。 それはいいのですが、 そういう人に純文学を勧めようとすると、 「暗い」「つまらない」 と、たいてい言われてしまい、読んでもらえません。 しかし私はむしろ、「大衆小説」と呼ばれる作品の方が、 耐性が無いためか読むのが苦痛です。 軽い描写、あるいはワイドショーのニュースのようなどぎつい描写、稚拙な場面展開、無意味かつじつまのあわない、あるいはつじつまあわせのためだけの筋書き… どれをとっても我慢して読み進めるには辛い要素ばかりです。 私は高尚ぶりたくてこんなことを言うわけではなく、 本当に大衆小説、エンタメ系と呼ばれる小説を読むのが苦痛なのです。 じゃあ読まなければいいじゃん、と言われそうですが、 自分はなぜこんなにも大衆小説を嫌ってしまうのか、 (読んでいるとイライラします。お菓子をお預けされている犬のような気持ちになります。 しかもそのお菓子を与えられることも無く、期待は裏切られ物語は終結してしまうのです) 大衆小説の面白さの真髄とはなにか、 そこまで多くの人を駆り立てるものとは何かを知りたいのです。 「エンタメ系」なんだから、エンターテイメント性じゃん、と思われるかもしれませんが、 それなら私はエンタメが嫌いな人間なのか、根暗な人間なのかといえば、 そういえなくも無いのですが、 それではエンタメ系を支持している多くの人々は皆性格が明るいかと言うとそうでもない気もするのです。 昔読んだ江戸川乱歩だって純文学ではないのに、 私は好きで何冊も読むことが出来ました。 それなのに現代の作家で大衆的、と言うと途端に前出のような難点ばかりがチラついて、 先へ読み進むことが出来ないのです。 これは一体なぜなのでしょうか。 回答お待ちしています。
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- izumi044
- ベストアンサー率36% (1333/3622)
一つの可能性として。 現在の小説の書きかたが変わってきたということもあるのかもしれません。 昔は、作者が「行間に込めた想い」を読むことを大切にされてきたように思います。 しかし、今は小説を書く時には「行間を読んでもらえると思うな」と主張する方がいます。 そういう意味で ・内に秘めたる作品(含みを持たせた表現) ・全てを吐き出す作品(よりわかりやすい表現) があるのかもしれません。 含みのある作品を、本人の知識や感受性を総動員して読んで初めて面白味がわかるものと位置づけるならば 大衆的な作品は、事前の知識も感受性もそう必要としないとも言えるかもしれません。(驚きや興奮を自らが感じずとも、与えてくれる→エンターテイメント) そういう意味で、作品のテンポと読み手のテンポがあっていないのではないでしょうか。 大衆的な作品の多くは「あっと驚く」「スピード感」「どこにでもいそうで、いない」というところを大事にしているように思います。 じっくりと作品の世界に浸りたい方には、目まぐるしすぎるのかもしれません。 >大衆小説の面白さ 神髄はわかりません。 ただ、私にとっては「作者の着眼点」「発想力」「魅せ方」そういったものを魅力的だと感じます。 当たり前の日常に、どんな「非日常」をエッセンスとして加えるのか。これが、作者のセンスかなと考えてもいます。 どれだけ読者にとって「あるある」と共感を引き出せ、その反対の「あり得ない」という驚きを提供できるか。 そういった、より読者に近い視点で描かれた作品が、現在は多く好まれているような気がします。
- ゆのじ(@u-jk49)
- ベストアンサー率30% (1233/4073)
現在の作家に純文学作家はいません。純文学作家の定義を甘くしても、最後の作家は中上健次だったと思います。欧米を含めて、「小説は死んだ」と言われて、かなり久しいですものね。 フランスでは、文壇デビューで、日本の純文学に当たる「レシ」を書きます。作家の実体験、原風景に寝ざした作品を書いて、まあ、短編による「自己紹介」があるわけです。その後、創造性(想像性)豊かな長編である「ロマン」を書くというのが、昔からのフランス文壇の伝統です。 なお、乱歩は、甚だ「純文学作家」という感じで世間にアピールしていた気がします。古い土蔵の中、蝋燭の灯りの下で書いていると信じられていましたし、何か奇怪な事件が現実に起こると、真犯人は乱歩であると確信する読者が一杯いたのです。乱歩は、そういう理不尽な噂をマスコミによって撒き散らされることが過大なストレスとになり、そして、一度は、書くことを断念しています。本当の純文学作家なら、実生活と作品の一致報道は、最大の評価であるので、大喜びなのですが、乱歩は、純文学を書く積りは無かったから、辛かったわけです。 実生活と作品が全くイコールであるという純文学作家の風貌を備えていたのが乱歩だったのですね。作り話の大衆作家と言うより、実際も、なんだかとても怪しい作家というのが乱歩でした。純文学のリアル感があったのですね。
お礼
回答有難うございます。 「文学は死んだ」という言葉をはじめて知りました。中上健次が最後なら、結構前から死んでいたのですね。 乱歩についての記述も面白く読みました。 教えてくださって有難うございました。
- bran111
- ベストアンサー率49% (512/1037)
大衆小説とは現実の社会に生きる人間に寄り添って、願望を満たし、傷ついた心を慰め、励まし、明日を夢見る気持ちにさせることを目的としており、よって読まれるように書かれています。そこでは真実は要りません。論理が通らなくても構いません。 あなたが社会人か学士か知りませんが、これからいろいろつらい経験をするでしょう。誰もそうです。そうしたとき純文学なんてものは何の役にも立ちません。一緒に泣き、一緒に世を呪い、つれない恋人を殺す共犯となってくれる仕置き人や仕事人の依頼窓口を必死になって探すでしょう。ひょっとすると「オール小説」のどこかに連絡先が出てるかもしれない。大衆小説の仲間はみんなあなたを応援してくれます。何という幸福でしょう。 そういう事態になるまで大衆小説の存在を気にする必要はありません。
お礼
回答有難うございます。 私は社会人でも学士でもありませんが、色々なつらい経験なら、してきたと思います。 持病があり二十年近く治療を継続中で、一日25錠薬を服用しています。発病が十代で、これまでに幾度も絶望し、それを乗り越えてきました。 しかし大衆文学には必要性を感じないのです。けれど必要としている人が入るからといってそれを小突き回すようなこともしたことはありません。好きな人は好きだし、必要な人には必要なのでしょう。 しかし私にはそうでは無いのです。
- yoruaru-q
- ベストアンサー率17% (476/2703)
周りの人のことは気にしないで、質問者様はこれからも自分の基準で新しい作品にどんどんあたって楽しんでいけばいいのではないかと思います。 >大衆小説の面白さの真髄とはなにか、 >そこまで多くの人を駆り立てるものとは何かを知りたいのです。 それは「萌え」や「あまり考えずにできる暇つぶし」かもしれません。 大量に作られて大量に消費されるエンタメ作品群には、その作品群を消費するためのコツがある。コツを理解できないとうまく消費できず時間の無駄に感じられる。ということがあるのではないかと思います。
お礼
回答有難うございます。 コツですか。確かにコツがつかめません。 「萌え」と「暇つぶし」も判るような気はします。 なんだかネットで見る限りでは「大衆小説が面白くて、純文学はつまらない」ということになっていて、逆に感じるのはおかしいのかと思いましたが、「コツがつかめず、萌えも暇つぶしも文学に要求していない」という人が少数派で、その逆が多数派ということかもしれないですね。
- trytobe
- ベストアンサー率36% (3457/9591)
いやいや、戦前から、人間の本質を描き出すのを目的とした「純文学」以外の、脚本や時代物のような「書き物」を「大衆文学」といって鼻で笑われるようになっていたのですよ。 今のラノベ(ライトノベル)とか携帯小説のような、マンガやアニメの視聴者層に合わせた書き物以外でも、幕末物とかも「大衆文学」扱いなのです。
お礼
回答有難うございます。 脚本も時代物も詳しく無いのですが、寺山修司などは国語の便覧に載っていましたね。脚本ならほかにも唐十郎とか。どちらも戦後以降の人ですが、私はその二人の作品は文学性が高いと思います。少なくとも大衆的ではありません。 話によると今では、時代小説が教科書に載っているようで、「教科書に載っているかいないか」では小説を区分できないようです。でも私は個人的には時代物は好きではありません。何のいいところも無いような男の剣士が、じつは凄腕の剣の達人で、ばったばったと敵を倒すとまた黙って去ってゆく、というところに男性の夢を感じてしまうからです。私は女性なので共感する所が無いのです。
“深み”がないからじゃあないですか? 私も質問者様の意見は何となくではあるんですが理解出来ます。 私の場合は “深み” です。
お礼
回答有難うございます。 深み、をなんととらえるか考えてみました。 人が生まれて、生きて、愛して死んだりすること、そういうのが深みでしょうか。 そうなると純文学の方がより真剣にその問題について悩んでるという感じがしますね。
- jusimatsu
- ベストアンサー率11% (171/1438)
物事の好き嫌いは理屈じゃないから。 そこに理由を問うことに、意味も答えもない。
お礼
回答有難うございます。 私はなんでも言葉で、理屈で証明できる、などとおごり高ぶってはいませんが、 「好き嫌い」でしたらちゃんと理屈や法則を言葉で説明できるのではないかと思うのです。 もしできないのならそれはそれで理由があるのでしょう。説明したくないとか、説明するのは面倒だとか、こ理屈は嫌いだとか…。 意味も答えもあると思います。生意気でしょうか。
お礼
回答有難うございます。 読み手の眼力というか、備えているものを軽視しているのでしょうか。 そこが読んでいて何か馬鹿にされているような、 「ねぇねぇ、あなたこれ好きでしょ」と押し売りされているような気分になるのかもしれません。 最近知り合った友人に、どんなジャンルの作家でも別け隔てなく読める(楽しめる)読書家の人がいて、彼女が羨ましいのですが、どうしても彼女のようには読書できません。そこでこのような質問をネットで捜してみたところ、自分と真逆の人のほうが多くて驚いたのです。 なかなか難しい問題のようですね。 有難うございました。