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絵踏みはなぜ行われたのですか?

隠れキリシタンを見つけるために踏み絵が使われたというのを小学生か中学生の時に習ったのを覚えています。 しかし、なぜキリスト教を禁止したのかという背景を覚えていません。 江戸時代だったでしょうか。 キリスト教が問題となった理由などを教えて下さい。

みんなの回答

  • eroero4649
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回答No.7

ほぼ皆さんが回答する通りですが、いくつか補足を。 まず奴隷についてですが、日本人奴隷が安く買えるので初め西洋人は喜んだんですね。当時は奴隷制度がフツーに生きていた時代ではありました。ところが、あるトラブルが頻発するようになったのです。 日本人奴隷が「いつになったら年季が空けるんですか?」って聞いてきたのです。つまり、買われたほうは「季節労働者」のつもりで雇われていたんですね。だから安かったのです。しかし、買ったほうは奴隷として買ったつもりでした。いいや、お前は一生俺のもんちゅうことで買ったんだ、ええ!そんなの聞いてないっすよ!というのがよく起きたのです。 つまり、当時の日本人にはいわゆる「奴隷」という観念がなかったんですね。これは秀吉、家康クラスでも「安い金で奉公で使い回したらあかんやろ」と国際問題にも発展するほどだったのです。ところが西洋人は奴隷だと思っているからそこで「文化的食い違い」が生じたのです。「だったら、奴隷取引禁止」となるのも自然といえば自然ですよね。 また、キリシタンは弾圧を受けた後も「隠れキリシタン」として密かに信仰が続けられたこともご存じだと思います。おかしいと思いません?現代に至るまで、つまり江戸時代を通じて信仰が密かに続いたのです。当時はキリスト教を布教させないためにも檀家制度を作ってどの町民・農民もどこかの寺社に所属するように決めていたから、密かに信仰を続けるなんてとても難しいのです。 実は江戸時代を通じてキリシタンに対しては幕府は「心得違いの者」という扱いをしていたのです。「異教徒」だと取り締まらざるを得ない。でも、「心得違い」を起こしているだけなら取り締まりの対象ではありません。つまり、見て見ぬふりをしていたということです。

noname#224207
noname#224207
回答No.6

>キリスト教が問題となった理由などを教えて下さい。 歴史の教科書や解説書ではキリスト教を禁止した、とされていますが、当初は宗教として禁止した訳ではありません。 江戸時代も正確に言いますとキリスト教徒すなわち信者と布教者を取締りました。 布教する人も信者もいなければ宗教団体として成立しませんから、結果としてキリスト教が禁止された形となりました。 初めに布教者(宣教師)を追放したのは豊臣秀吉です(1587年) 豊臣家にはキリシタン大名などクリスチャンの家臣が沢山いましたから、宗教そのもを禁止する訳にはいきません。 布教者即ち宣教師や牧師、司祭などですが、パードレと呼ばれていました。 これが日本語化してバテレンとなり、秀吉の追放令もバテレン追放令などと呼ばれます。 このバテレンが慣用語となり江戸時代にはキリスト教全体を意味するようになりました 秀吉が追放令を出した理由と言いますか原因は大きく分けて二つあります。 一つは国内の政治情勢です。 現在の長崎県の地図を見て頂ければ分かりますが 稲作に適した土地が余りありません。 戦国時代には長崎県の各地に沢山の武将(戦国大名)が居ました。 勢力を拡大するの必要な財源である水田が少ないことから交易に頼っていました。 当時ヨーロッパの交易船の誘致合戦が繰り広げられていました。 最終的にイエズス会の宣教師コスメ・デ・トーレスと当時長崎市周辺を支配していた大村純忠とが合意してポルトガル船の停泊地として現在の長崎港が決まりました。 秀吉は九州の支配権を獲得したときにこの交易からの利益に目を付けました。 二つ目の理由はイエズス会という教団の性格にあります。 当時のヨーロッパは宗教改革の結果、カトリックが衰退し始めていました。 これを挽回することを使命としていたのがイエズス会です 武力闘争も厭わないいわば現代でいう過激派のような性格を持ち合わせていて武装集団も所持していました。 国籍をとわずに教皇を最高の人と看做して教皇への忠誠を重要視していました。 国王よりも教皇への忠誠を求めました。 このイエズス会が長崎市内での自由行動を求め今でいう治外法権も求めました。 これに大村純忠が応じました。 かつての香港のような状態になりました。 これに秀吉が激怒しました。 秀吉よりも教皇で、秀吉が発する政令にも従わないのですから当然だったでしょう。 1587年に長崎からイエズス会を追放し長崎を自分の支配下におきました。 交易そのものを止めることはありませんでした。 イエズス会をバックアップしていたポルトガルをはじめスペインなどに対しても宣教師など布教者を送り込まないように厳命し、国籍宗派をとわず取り締まりました。 そもそも日本人にとって国籍など見分けがつきません。 徳川家康もこの方針を受け継ぎました。 この間にスペイン船を禁止するイギリスが業績不振で撤退するなどいろいろゴタゴタがありました。 オランダはもともと宗教改革に基づいて実業家が中心となってスペインから独立した国家です。 布教などということに全く興味を持ちませんでした。 江戸幕府は大名の財力を削ぐために外国との交易を独占することにして交易相手もオランダと中国に限定しました。 オランダもスペインやポルトガルを排除するためにいろいろ画策しました。 これを正式な制度として法令を出したのがいわゆる鎖国令と呼ばれものです。 この用語が如何にも不適切です。 国を閉ざしていたのではなく交易の自由を認めていなかっただけです。 江戸時代を通じてオランダにヨーロッパ情勢の報告を義務付けていました。 オランダ風説書として膨大な資料が残っています。 この情報を独占して秘匿していただけです。 幕末にもナポレオン戦争など当時としては正確に把握していました。 朝鮮の使節も将軍交代の度に来朝していました。 江戸幕府としては大村純忠のような大名が現れないように布教活動を禁止すると同時に信者の摘発をすすめました。 その際の手段として使われたのが踏み絵です。 キリスト教は偶像を禁止していますが、カトリックはイコンと呼ばれる聖人などを描いた宗教画を持っています。 幕府は、キリストをイメージしたイコンを作らせ、版画の版木のように彫ったものを人々に踏ませました。 一見キリストに見えますので敬虔な信者は躊躇したり拒絶します。 これを見逃さずに有無もいわせず摘発しました。 以上説明しましたようにキリスト教の思想がどうだから禁止したというのは後世につけられた理屈です。 実際は単純な外交政策、経済政策の一環でした。

  • ithi
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回答No.5

poniponi69 さん、こんばんは。 3代将軍家光のころに起きた「島原の乱」が直接的な理由ですね。そのほか、人間が元来平等であるという思想も幕府の政策を進めるうえで邪魔だったということが言われています。 詳細は下記のURLを参照ください。 島原の乱 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1 日本のキリスト教 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

信仰の為に、危険を冒して海を渡ってきた。 珍しい文物も持って来た、ということで 信長は好意的でした。 秀吉も、当初は好意的だったのですが、イエズス会 が、日本人を奴隷として売買しているのが発覚し 禁圧するようになりました。 その後、徳川幕府の時代に入りますが、キリスト教が 侵略の先兵であることを知った家康もやはり 禁圧政策を採るようになります。 更に、三代将軍家光の時に、天草四郎による、原城の乱、が発生 して、宗教の恐ろしさを知り、厳重に取り締まる ようになったのです。 ”キリスト教が問題となった理由などを教えて下さい。 ”      ↑ 1,侵略の手先であったからです。  だから、フイリピンなどは今でもキリスト教信者  ばかりです。  イエズス会はカトリックですが、欧米以外の中南米  などのキリスト教はほとんどがカトリックです。  これらは、キリスト教が侵略の先兵であったことを  示しています。 2,キリスト教は、神が一番偉いとしています。  支配者はこれでは困るわけです。  支配者が一番でなければ統治できません。 3,原城の乱が決定的でした。  当初、幕府方は軽視していました。  たかが土民の反乱じゃないか、と。  これを諫めたのが柳生宗矩です。  宗教の信者は怖い、メンタル的には剣術の名手に  近いものを持っている、と勧告して諫めました。  しかし、家光や幕府の幹部は信じません。  そして、実際に戦闘してみて、大苦戦し、柳生宗矩の  正しさを思い知ったのです。  そのため、柳生家はその後大名になりました。  すぐに減額されたけどね。

  • mpascal
  • ベストアンサー率21% (1136/5195)
回答No.3

禁教令の発端は、豊臣秀吉1587年が最初です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4

  • citytombi
  • ベストアンサー率19% (1721/8628)
回答No.2

実は、江戸幕府の中で徳川家康の時代では、当初はキリスト教は特に禁止されるような宗教ではありませんでした。寛容・好意的でした。 しかし、国内のキリスト教徒が増えはじめて、周りの国々がキリスト教の国(スペインやポルトガルなど)によって支配されていることを聞いた幕府は、キリスト教諸国からの侵略を恐れてキリスト教を禁止(キリスト教禁止令)にしたということなのです。 それともうひとつは、偉い人・権力のある人が支配するという、「絶対君主・封建制」が崩壊するという危機感もあったかも知れません。

noname#212058
noname#212058
回答No.1

「島原の乱」「天草四朗」というキーワードは覚えておいででしょうか。この島原の乱をきっかけにして、キリスト教が禁教となり、キリシタン狩りである「踏み絵」が実施されました。 詳しくは以下のページを参照してください。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3