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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ニーチェのいちばん大切な本)

ニーチェのいちばん大切な本とは?

このQ&Aのポイント
  • ニーチェにとって、アリストファネスの作品は最も重要な書物である。
  • アリストファネスの作品には、古代ギリシアの精神が透明に表現されており、その作品がなければプラトンの人生も違っていたかもしれない。
  • ニーチェはアリストファネスの作品を聖書や他の書物よりも大切に思っており、それを枕元に置きたいと考えている。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#208724
noname#208724
回答No.2

回答No1で回答した者ですが、No1の回答は、論拠に乏しいと思いましたので、私がニーチェについて感じたままを書くことにより、私なりの論拠にしたいと思います。 人間には、大自然が与える様々な泉が必要である。そうでなければいかにしても生は美しく、高貴なものとして輝きを与えることなどありえないであろう。我々は大自然のなかに母の姿を見るのである。ときにそれは壮大であり、ときにヒステリックであり、ときに豊かなものであり、そしてときに安らぎであろう。それはいかにも人間的な、迷い、あがき、貪り、そして輝きをもたらすものでもあるかのように。 ああ、偉大なる父、ゲーテ。彼はファウストを描きながら、こう言ったのだ。 人間は いつも女性的なものによって 救われる。 いかにもそのとおりであろう。我々はいつも女性的なものから生まれ、女性的なものによって苦しみ、そして救われる。たとえ永劫の門が我々の生に追いつき、我々に選択を迫ろうとも、女性的なものを信じてこそ、我々は力強く歩むことが出来よう。 信仰を忘れ、人と人との争いに明け暮れるキミよ。神は死んだと宣言したことが、科学の夜明けを宣言したとでも言いたげに、科学の暗黒へ足を踏み入れようとするキミよ。今一度立ち止まって考えてほしい。信仰を失った者は、我々に生を与える泉を科学に求めようとしてはいまいか。もしそうであるならば、彼らはその砂漠に迷い、そして科学の魔力が生み出す幻想の泉を飲み始めることになるのだ。しかしその泉はすぐに枯れ、人は渇き、次なる泉を求めずにはいられないであろう。彼らはそれが幻想であることに気付かないのだ。 神は死んだ。それは大自然を愛し、神々を愛する者の嘆きなのである。人々の間から大自然への畏怖を込めた信仰が消え、争いとそのための科学がもてはやされていることを嘆いているのだ。かつて神々が治めていた大地には、生が輝きを放ち、それがゆえに生はいかにしても美しく、ディオニュソス的な喜びに湧きかえり、大地は我々に乳と蜜を与えていたのだ。 ゲーテは色彩の研究と題し、科学をおこなっていた。しかし彼は大自然への信仰を失うことがなかったのだ。あたかも人々の歴史が神々の歴史であることを、エッカーマンに語ったのだ。いかにも大自然を愛した彼は偉大なる父であり、そして畏怖をもって彼に愛された大自然は、我々の偉大なる母であったに違いないではないか。

noname#214841
質問者

お礼

まことに丁寧な追加回答をありがたうございます。 >人間は いつも女性的なものによって 救われる。 はい、社会的にだけではなく、発生学的にもしばしば指摘されます。 「真の男は二つのことを欲する、危険と遊戯を。それゆえ男はおんなを欲する。もっとも危険な玩具として。」 (『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」 手塚富雄訳 中公文庫 103ページ) >信仰を失った者は、我々に生を与える泉を科学に求めようとしてはいまいか。 >もしそうであるならば、彼らはその砂漠に迷い、 >そして科学の魔力が生み出す幻想の泉を飲み始めることになるのだ。 近年の哲学の姿勢は、言語や科学に偏向してゐるやうに感じられます。視野が狭すぎるのではないでせうか。特に、科学至上主義ともいへる状況には危機感すら抱きます。ゲーテとエッカーマンの話は存じあげません。しかしその内容においては、ニーチェの主張でもあると考へます。 >神は死んだ。それは大自然を愛し、神々を愛する者の嘆きなのである。 そのとほりだと思ひます。ゲーテにかぎらず、この時代のひとたちは、心に余裕があり、自然への敬虔な態度を抱きつづけてゐたやうに思へます。チャールズ・ダーウィンにしても、進化論によつて宗教的なものを否定したかのやうにみなす人がゐますが、『種の起源』を読むと、自説に不都合な証拠を数多く挙げて、科学の限界を認識し、自然への燃えるやうな愛着を湧きださせてゐます。すべてがわかつてゐるのだ、自分こそが正しいのだ、などといふ傲慢な姿勢はありません。

その他の回答 (1)

noname#208724
noname#208724
回答No.1

死の床にあって枕元に置きたいというのだから、そんなときに、それまで社会の価値観や欺瞞に対して、真っ向から立ち向かった哲学者が求める物とは、それは本来的に当たり前が当たり前である本来的な自然な生命力を感じさせる物ではないでしょうか。 そこで私がぜひとも登場させたいのが、ニーチェがしばしば引き合いに出していた、アポロンとディオニュソスの対比です。(参考URLをリンクしておきます。) 彼は人々の欺瞞に満ちた正義や、隷従の道徳による価値判断の転倒、そして哲学者たちが貼り付けた先入見などをアポロン的としたうえで、ディオニュソス的な陶酔によってその悪しき秩序を取り去りたいと考えていたのではないでしょうか。 アリストファネスの喜劇(ウキぺデアより、「アカルナイの人々」)には、ディオニュソス的なものを感じるので、ニーチェがこよなく愛したといわれれば、いかにもそれはそうであろうと思います。 また、良書としてあげているのは、ゲーテ「エッカーマンとの対話」とされているようです。(余りに人間的・二部・ドイツ散文の至宝より)

参考URL:
http://digitalword.seesaa.net/article/133461386.html
noname#214841
質問者

お礼

はじめまして。いつも、柔軟で対話的な御投稿を興味深く拝見してをります。 ニーチェの文章には、諷刺、パロディ、アイロニーがあふれてゐて、どこからどこまでが本心で、どれだけが冗談なのか判断しかねます。私は本を読むたびごとに見方が変化します。このたびの質問文の言葉もどう受け止めてよいのかわかりません。私としては、アリストパネスを読まずして、ニーチェの思想を語ることはできないと思つてゐます。 アポロン的、ディオニュソス的、といふ対比は、このサイトでもしばしば取り上げられますが、ニーチェは、偽善の指摘はしても、世界を讃美し、自然と同化し、歴史から学び、人間を慈しむ、さういふ肯定の人であるやうに思へます。リンク先の意見には、私も同感です。キリスト教批判はしても、聖書の世界への撞着が見えます。アリストパネスが笑ひといふ手段で「赦し」をあたへたのとまつたく同じことをニーチェもしてゐるのではないでせうか。さういふ観点が抜け落ちてしまふと、ナチスのやうに文章を曲解して利用することになつてしまひます。 『人間的な、あまりにも人間的な』および、ゲーテの作品は読んでをりませんので、コメントできません。近いうちに読んでみる所存でございます。 >本来的な自然な生命力を感じさせる はい、御指摘のとほりと存じます。世界の肯定こそが、ニーチェの主眼であつて、ちまたでニーチェについてあれこれと論じられてゐるものは、枝葉にすぎないのではないでせうか。いづれにせよ、ニーチェの書物におけるアリストパネス的な「遊び」はきはめて重要な要素であると思つてゐます。 温かい内容の御回答をありがたうございました。