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昭和40年代を境に、変わった事はございますか?
今月から祖父と同居を始めました。 会話の中で、『昭和40年代』というフレーズが良く登場します。 例えば、 昭和40年代までは、お醤油を協同組合的に機材を揃え、各家で作ってたとか。 あ、誤解の無いようにお話しますが、そんな山奥ではないですよ。 新幹線なら東京まで1時間程度の関東北部のお話です。 一番びっくりしたのは、戦時中の焼夷弾のかけらに鍛冶屋さんで柄を付けた十能を昭和40年代までは使ってたそうです。 どうも生活様式ですとか、昭和40年代を境に変わったのでしょうか? 諸先輩方の体験談とか 昭和40年代をキーワードに思い当たるお話を お聞かせ頂けたら嬉しいです。
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今でもそう思います。特に1970年(昭和45年以降)はガラッと日本が変わったと今も思います。 電話、車、カラーTVは一家に一台になります。もう会社からの緊急連絡先に三軒先のおばさんの家の電話を書かなくて良くなりました。道路の舗装もこの頃進みます。雨で長靴をはくことも少なくなりました。ということは下水が整備されたということです。 ガス給湯器も普及し蛇口からお湯が出るようになります。冬の寒い日ヤカンのお湯で顔を洗わなくて良くなります。トイレも水洗になります。新聞紙でお尻を拭くこともなくなりました。 海外渡航の敷居は低くなり、JALパックは一般に広まります。人々は初めてレジャーという言葉を実感し、家族で出かけるなど余裕を楽しむようになります。 レトルト食品やカップラーメンも出て食卓は手軽になります。八百屋、魚屋、養鶏場など別々に行かずスーパーマーケットが出始め一か所ですべてが買えるようになります。もう肉屋の親父が鶏を締め殺すのを見なくなりました。 セブンイレブンも出来始めます。夜も買い物ができるようになりました。マクドナルドが出店し、あれは猫の肉だと噂が広まります。 TVドラマでは青春ドラマが流行ります。フォークも流行りアイドルが出始めます。FM放送も始まり音楽が身近になります。若者文化の始まりです。世の中は若者中心になり始めます。石鹸で洗っていた髪の毛はシャンプーで洗うようになります。整髪料MG5も発売され男も髪の毛に気を使いだします。 レコードはシングル中心からアルバム中心になります。オリジナル曲が多くなります。マルチトラックで録音された音楽は重ねどりで音質もよくなり楽曲は生音に近い迫力になります。 どうでしょう。これらがすべてこの5年ぐらいの間に起きてます。びっくりではないでしょうか。この時代に比べると平成に入ってからの27年の変化なんかこの時の一年にも足りません。そう思いませんか?
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- lucky1267
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子供の遊び、服装ですかね。 今のようにテレビゲームなどなく、子供は外で(田んぼや神社や学校や公園)野球をやったり、女の子はおまま事などをして遊んでいましたね。 それに男の子は殆どが半ズボン。 砂利道で転んで、膝小僧がかさぶただらけ、なんて子供も沢山いました。 鬼ごっこやかくれんぼ、缶けりにぺったん。 物もあまりない裕福な時代ではなかったですが、楽しい時代でしたね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ぺったんて分からなかったので祖父に聞きましたら、こちらで言うめんこの事だろうと言われました。 色々伺いますと物的には豊かで無くても、それなりの自然も有り人との絆も今より強いと言いますか、助け合いの気持ちが有って、別の意味の豊かさが有ったように感じました。
- tpg0
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ANo8&10です。 度々のように失礼致しまして申し訳ありません。 祖父様の自動二輪免許で思い出しましたが、昭和40年代は運転免許制度がかなり変わった時期です。 私は、高1にの誕生日を待ちかねるように原付免許を取得しましたけど、新聞配達のバイトに原付免許が必要だっただけで自動二輪免許は必要性がなかったので取得しませんでした。 しかし、私の3つ下になる弟はバイクに興味を持って、やはり高1の誕生日を待ちかねるように自動二輪免許を取得しました。 弟は、自動二輪免許を取得したのは昭和44年の秋ですが、当時は「125ccの小型バイクで実技試験」が行われてましたので、県試験場の一発試験を僅か1日1回で合格して限定なしの自動二輪免許を難なく取得してます。 しかし、自動二輪の実技試験が甘過ぎたせいか、大型バイクでの重大事故が多くなり、昭和40年代の後半頃に排気量400ccを超える大型自動二輪は限定解除試験に合格しないと乗れなくなりました。 また、私が普通自動車運転免許を取得した昭和43年頃には「軽自動車運転免許」があって16歳で免許取得可能でしたが、軽自動車免許も昭和40年代の半ば頃には廃止されました。 なお、オイルショックがあった昭和48年春頃のレギュラーガソリン価格はリッターあたり50円程度になってたと記憶を辿ったら思い出しましたが、この年の秋に中東戦争があり、その影響で原油価格が高騰してガソリン価格も倍近い値上がりになったのがオイルショックと言われてます。 なにぶん、古い話ですので、私の記憶違いもあるかと思いますけど、昭和40年代は様々なことが変わった時期という印象はあります。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 祖父より一回り若い方の頃から限定解除が出来て、同時に3無い運動で二輪免許の保有者が激減したみたいです。 大自二免許が教習所で取れるようになったのも、海外からの圧力みたいですね。 祖父と気が合うのはバイクに理解が有るのが大きいです。 当時乗ってたのは、ライラックと言うシャフトドライブのバイクだったそうです。
- daion
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恐らく昭和45年の万博開催を機に、強制的に排除されたんだと思いますが、それまでは大阪市営地下鉄の難波や梅田、心斎橋といった主要駅の地下通路には、傷病兵の恰好をして、お乞食をしている人々が一駅あたり何十人もたむろしていました。卑しいとか汚らしいとかのイメージはなく、包帯姿、松葉杖姿、手を失った人、両足が無い人等々、また時に物悲しそうにアコーディオンを弾いている人 等々、今思い返しても目頭が熱くなります。ちっさかったので他は知りませんが東京の地下鉄とかもそうだったんでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 傷痍軍人さんのお話は別の方からも伺いました。 祖父は上野駅では見たそうですが、全国に居らしたように思います。
- tpg0
- ベストアンサー率31% (3785/11963)
ANo8です。 初任給の件ですけど、昭和48年の「オイルショック」を境に急激に変わりました。 私は、昭和46年春に電子専門学校を卒業してゲーム機メーカーに就職しましたが、初任給は4万3千円程度でした。 ですが、昭和48年のオイルショックでガソリン価格がリッター40円代から一気に100円近くに値上がりになり日用品などの便乗値上げが相次ぎました。 当然、家電品などの値上げもあり、年末の賞与でオーディオ機器を買いに秋葉原の電気街に行ったら「商品に値札が付いてない」ので店員に尋ねたところ、明日になると値上がりしてるかも知れないと言われて値引き交渉もすることなく店員の言い値で10万円近い価格のステレオアンプを慌てて購入しました。 しかし、昭和49年からの昇給は毎年のように1万円以上の昇給額でしたので、昭和52年春に26歳で結婚した時の給料は基本給だけで15万円程度と社会人になってから僅か6年間で初任給の3倍以上の給料になってました。 ですから、昭和40年代前半と後半では初任給を含んだ給料の額も大きく変わった時代だったと思います。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 6年で3倍は凄いですね。 祖父は農家で現金収入が少なかったので、 曾祖父の手伝いしながら隣町まで勤めに出たそうです。 記憶は定かでは無いようですが、1.8万程度と言ってました。 その時バイクの免許を取ったので、二輪は限定無しで何でも乗れます。 バイク買って一緒にツーリングするかと、気の若い祖父です(笑) 45年頃にファミリアのライトバンを買って、 キャベツを積めるだけ積んで、市場に出したら全部で50円にがっかりし 勤めに重点を置いた兼業農家になったそうです。
- citytombi
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家のことで言えば、風呂はまだ釜炊きでしたね。 各家には煙突があって、風呂を炊く時には煙が出ていました。あまり釜の中をかき混ぜると「火の粉」が出るので気をつけていました。 街には銭湯もあったしまだまだ通っている人も多かった時代です。 これが50年代になってくると、薪やオガライトの釜炊きからガスや石油になっていきました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 昔ながらのお宅も有って煙突も見かけますが、実際は使わず灯油ボイラーが多いようです。 そう言えば銭湯ってドラマの中でしか見た事ないです。 逆に温泉センターは増えましたね。
- tpg0
- ベストアンサー率31% (3785/11963)
こんにちは。 私は、昭和41年春から工業高校生になった者ですが、昭和40年代を境に変わった代表的なもので思い浮かぶのは電子回路の「半導体化」です。 昭和30年代に一般家庭に普及し始めたモノクロテレビの殆んどは真空管回路でしたので、電源スイッチを入れても真空管のヒーターが温まるまでの数分間は暫く音声も映像も出なかったです。 しかし、昭和40年代に入ると真空管とトランジスターを組み合わせた「ハイブリッド回路」が増え始めて、音声回路がトランジスターを使用したテレビなら電源スイッチを入れると直ぐに音声だけは出るようになりましたが、映像回路はブラウン管を始め真空管回路が主流でしたので映像は暫く待たないと出ないテレビでした。 (※トランジスターラジオは昭和40年代には既に普及してた) また、電子回路の半導体化が進むにつれて製造コストが下がり、カラーテレビが一般家庭でも買えるような価格になったのが昭和40年代を境にしてからです。 当時は、ブラウン管1インチあたり1万円になれば庶民にも買えると言われ始めた頃で16インチのカラーテレビが15万円程度の価格でしたが、高卒初任給が3万円代の時代でしたから、15万円程度のカラーテレビでも現実的には手軽に買えなかった時代です。 (※私は昭和46年春に電子専門学校を卒業して社会人になり、我が家で初めて買った19インチのカラーテレビが16万円でも当時は安く買える時代になったと思った)
お礼
ご回答ありがとうございます。 家電製品はお給料に比べると随分お安くなったんですね。 反対に住宅とかですと、お給料が上がった場合は払いが楽になりますよね。 そう考えますとここ20年程は初任給は横ばいでしょうか。 中々難しい問題ですね。
- moritaroh
- ベストアンサー率56% (658/1172)
わたくし、男性下着評論家でございます。 いえ、嘘ですけど。 昭和40年代ころと言えば、ブリーフ・ビキニブリーフなどの全盛期でございます。 特に若い男性を中心に。 で、悲しいかな、男性の褌(日常着としての)が撲滅された時期でもありますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 流石に女子としては、下着の事は聞き難いです(笑)
- GIANTOFGANYMEDE
- ベストアンサー率33% (539/1630)
40年代は小学生でした。 当時、浅草や成田山などの人出が多い寺社周辺には傷痍軍人という戦争で手足を無くした方が大勢おられました。 アコーディオンで「露営の歌」を演奏しながら物乞いをしていました。初めて見たとき、人間に手足が無いということが理解できず、ジッと見ていたら母にひどく叱られたのを覚えています。 母方の実家には錆びた不発弾があって漬物石代わりに使っていました。 国鉄駅の近くに戦争当時の工場跡があって小学生は時々肝試しと称して中に潜り込みました。 町のあちこちに戦争の残滓が見られました。 50年代には綺麗さっぱり無くなりましたね。 玩具は買うのと自分で作るのと半々でした。作るといってもプラモデルのような半分出来合いのものではなく、割り箸で鉄砲を作ったり、ボール紙でお面を作ったり、空き地に秘密基地を作ったりです。紙芝居なんていうのもこの頃まではあちこちで見られました。 50年代になると多種多様な玩具が市販され、住宅街の中の空き地は無くなり、田畑も宅地に造成され、子どもたちの遊びや空間はどんどん矮小化されていきました。 牛乳の配達が一般的でした。どこの家庭も郵便受けの横に牛乳受けの小箱が備えられていました。 「ロバのパン屋」と言って、本物のロバが曳く幌付馬車に菓子パンを満載して、独特の音楽を鳴らしながら売りに来ました。当時、地球上で最も美味しい食べ物でした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 上野駅で傷痍軍人の演奏を見たと祖父に聞きました。 祖父の叔父さんは戦死なさったそうです。 戦争は遥か昔のように思ってましたが、機会が有れば語り継ぐべきと改めて感じました。 不発弾って危なそうです。 昔は色んな行商が有ったみたいですね。 こちらは田舎な割に、数キロ以内にショッピングセンターやスーパーが何軒も出来て、個人のお店や行商はひとたまりもないですね。
- smi2270
- ベストアンサー率34% (1640/4699)
yuriaさん こんばんわーー。 SMIは42年生まれです。 昭和40年は 前半と後半で大きく様変わりした 一つの分岐点ではないでしょうか・・ SMIが子供の頃は 給食は牛乳ですが 少し前の方は「脱し粉乳」を飲まれてたそうですし。 市営・府営の団地が出来始めたのも 40年中ごろですから 昭和40年は 日本にとって大きな 変化の年だったんだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼を書きながら寝ちゃいました。 そうすると祖父は脱脂粉乳世代でしょうかね。 田舎なので、乳牛飼ってるお宅に瓶を持って買いに行った話は聞きました。 大きな変化だったのでしょうね。
- k-josui
- ベストアンサー率24% (3220/13026)
昭和40年代 ・マイカー元年ですね。 奇しくも今日トヨタカローラの新型が発表になりましたが、昭和40年代初め(41年)トヨタカローラ、日産サニー、マツダファミリア、スバル1000など大衆車と呼ばれる車が各社から発売され、一般のサラリーマンにも手が届くようになりました。 ・歌謡曲では舟木一夫の「高校3年生」に代表される学園ソングといわれる、当時の若者が好む明るい歌が流行り始めました。 ・私の住む中山間地でも国道の舗装化が進んできました。 それまでは国道といえども非舗装路でした。 (今の若い人に非舗装路といってもピンとこないかも?) ・私たち団塊の世代が世の中で働き始めた年代です。 つまり若い労働力が一斉に働き始めた。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく考えたら、昭和40年はもう50年前ですね。 私はギリギリ昭和生まれですので、そんな前には感じていませんでした。 祖父はファミリアのライトバンが最初のマイカーだったそうです。 バイク仲間でオフロード専門の方も居ますが、殆どダートが無いと嘆いてます。 大転換期だったのでしょうね。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 電話は、有線で(音楽を配信してる有線じゃなく)村外からのは交換手が聞いたのを伝え、こちらの話をまた交換手を通じて相手に伝えたそうです。 今は有る事が当たり前の物が、この頃を境に出来てきたのですね。 確かにお話のように平成になってからと、この頃の1年の変わりようは比べるべくも無いように思います。
補足
その後調べたり、祖父に聞いたりして色々考える機会がございました。 吉野家の牛丼は昭和40年代に200円だったのが、昭和50年に300円その後乱高下は有ったにせよ横ばい。 衣料品は海外生産で昔より安くなって、家電やバイクも海外生産が増えて、それが最近の円安で、国内生産にシフトするとか新聞に出てましたよね。 庶民にとっては仕事が有って、収入内で楽に暮らせたらそれが何よりに思います。 私は難しい事は分かりませんが、多くの方が幸せに暮らせる世の中であって欲しいと、感じました。 皆様ありがとうございました。