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吉田松蔭の思想についての謎

平成27年現在NHK大河で扱われている吉田松蔭先生ですが、 ドラマでは、国禁を破って異国の船に乗り込もうとしたり、罪人でありながら身分にとらわれず様々な若者に学問を教えたりと、封建時代にあってかなりの開明的な人物として描かれています。 佐久間象山に師事したり、ペリーの船に乗り込んだりする様からは、異国への純粋な興味があったかのようです。そのあたりは昨今描かれる坂本龍馬像とも重なります。 そこで質問です。そのような開明的な人物が、何故幕府が開国の条約を結んだ際に激怒して要人暗殺まで企てたのでしょうか? たしか龍馬は攘夷決行を求めて勝海舟の元に行ったところ、その浅はかさを思い知り、考え方をコロッと変えましたよね。 私の感覚だと、若い弟子達が攘夷に逸るのを、「どのようにして攘うのですか?」と諌める位の知性がある人物だという気がしているのですが。 いくら開明的とはいえ、この時期にはまだ、夷狄を攘うことは可能だと考えていたのでしょうか? それとも、幕府の呑んだ条件があまりにも自虐的だったのでしょうか? あるいは、攘夷など不可能とは知っていても、自分が首を切られるほどの過激な行動を取れば、弟子達が後は現実的なやり方で成し遂げてくれるという計算があったのか…。 悪いように考えると、所詮は田舎で書物を読んで勉強しているだけの現実を知らないネトウヨの教祖みたいなものだったのかな、なんて…。たまたま弟子達の結果が上手くいっただけで、という見方もできますかね?

みんなの回答

noname#212854
noname#212854
回答No.10

 長州人が、明治政府の実権を握るために造った、たくさんの虚構のひとつと考えられるように思います。

ganglion_cell
質問者

お礼

やはり、開明的と言うよりも急進的といったほうが近いかもしれないですね。 置かれた立場が長州でなく、佐幕派の藩であれば、また違った人生だったのかもしれないですね。

回答No.9

ご返信ありがとうございました。ご質問の件ですが、ご質問者の文面の中で、次にのような文面があります。 自分が首を切られるほどの過激な行動を取れば、弟子達が後は現実的なやり方で成し遂げてくれるという計算があったのか…。 この部分、私は計算ずくはなかった思います、つまり馴染まない考え方です。 当時の日本の庶民の有様を多方面から、例えば宗教・郷土史等、調べてください。 他の象山門下生と吉田はどんな話をしたのか、調べてください。 遊学先に赴く以上、何か目的があったはずです、当時どのような状況か、だれに会い、どんな話をしたのか、調べてください。 日本史は大鏡、信長公記、徳川実記等、時の政府の記録から成立しています。為政者の都合の良い記録です。 地域に行きますと、知られていない話を聞くことがあります。私も経験がありましたので。 以上、参考まで。

ganglion_cell
質問者

お礼

なるほど、そういうことでしたか。 結局、松蔭先生の評価をどのように自分の中でしたものか、難しくなってきました…

回答No.8

ご質問読ませていただきました。興味深い話ですね。 吉田は佐久間象山先生の弟子でした。佐久間象山 は、佐藤一斎・江川太郎左衛門に学んだ信州松代藩士で、幕末の思想家、兵学者である。 主な弟子の入門年 1850年 勝海舟(象山の妻は勝海舟の妹である。) 1851年 小林虎三郎、吉田寅次郎(松陰)、宮部鼎蔵(松陰の友、池田屋事件で死亡) 1852年 河井継之助、加藤弘之(後の東大総長) 1853年 坂本龍馬 1854年 橋本左内 吉田が入門してきて、象山は多くの門人の中でも偉才を放つ、吉田には期待するところが大きかったか、「松陰の胆略は稀世の才なり。天下に事を成すのは松陰だ。」と話している。 黒船で密航を問われた吉田が、幽閉された野山獄から師象山に手紙を送った。「私(松陰)は罪を犯して先生に迷惑をかけてしまった。」 1854年 象山は吉田松陰の密航事件に連座し国元蟄居。 1862年 象山は蟄居は許された。 1864年 象山は動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動中、尊皇攘夷派の刺客によって、串刺しのよう      に暗殺された。 吉田は九州、会津、水戸等遊学しています。 吉田の教育で特徴的なのは、教えるだけでなく、塾生の意見も聞いています。塾に共同体意識が芽生えた。 いろいろな人の考え・意見を知っていたことが想像できます。ただ分からないのは海外のこと。 国を憂うる気持ちに佐幕派も攘夷派も違いはない。どちらかを選ばなくてはならない。 自身の身分に身近な、外様大名の下級武士が多い、攘夷派をえらんだ。 あとは迷わず進むのみ。 時代を遡ると、天明の飢饉、寛政の改革失敗など、この江戸時代後期は小藩・下級武士・庶民等の生活は疲弊していたと考えます。身分の差も和らいだ状況も想像できます。そんな中で海外との問題が起きた。 私はご質問者が考えておられる、計算ずくの吉田の考え方は失礼ですが馴染みません。吉田家は約60石、僅かな給金です。藩も幕府もあてにならない、生活のため吉田は考え・学び・実行したと思う方が自然だと考えます。暗殺まで考えたとは思えません。 ただ、象山を暗殺した尊王攘夷派は吉田の思想に共鳴した弟子・武士である可能性があります。これはテロ行為の可能性でもあります。いつのまにか一人歩きした思想とでも表現すべきでしょうか。 以上、わたしの意味もない私説でした。

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質問者

お礼

象山門下でも開国派になるものも居れば、攘夷路線の者もおり、外国を知りたいという発想があるからといって、一概に現代の感覚で開明的とも言えないのかもしれないですね。 ところで回答者様の馴染まない「計算ずくの松蔭の考え方」と言うのが理解出来ないのですが、どういう事でしょうか? それと、暗殺未遂は史実ではないのですか?

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.7

攘夷か開国かで見るので理解できないのです。長州藩は関が原の合戦の後に徳川家康によって酷い目に合わされたのです。それ以来、長州藩は倒幕思想を持ち続けていたのです。吉田松陰も同じです。だから幕府政策に異を唱えてもそれは長州藩の考えを代表しているのです。幕府の手前で処罰しますが本心は違うのです。 教え子たちも倒幕を目指し、それを成し遂げたので明治政府で偉くなったのです。その意味では薩摩藩も共通したところがあります。攘夷論は孝明天皇が攘夷を唱えたことから尊王攘夷となり、さらに勤皇佐幕の倒幕運動へと変わってゆくのです。

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質問者

お礼

開国して異国の知識を得て、列強に対抗するということには同意するが、それを今の幕府がやるのは気に入らない、だって幕府は朝廷すら軽視するように中から腐ってるから。開国したって、食いものにされるだけじゃん、幕府はバカだから。 …という感じですかね? ドラマの方も、京都がきな臭くなってきた途端、焦燥感がドンドン出てきました。危機感や焦燥感を共有する方が人の心をコントロールしやすいのかもしれないですね。

noname#224207
noname#224207
回答No.6

No.3です わざわざお礼を記入頂き有難うございます。 お礼の中にご意見といいますか、疑問形式の文がありましたので愚考を書かせて頂きます。 >松蔭先生がいなかったら、どんな幕末だったのですかね? いてもいなくても左程には変わらなかったでしょう。 薩摩には早い時期にこのような人物がいなくても維新を推進することができました。 松陰が処刑されたのは1859年です。 松陰の思想を受け継いだ尊王派は1864年の馬関戦争まで攘夷鎖国でした。 存命時代にも老中の暗殺を計画してむしろ弟子の桂小五郎や高杉晋作にたしなめられています。 新政府を立ち上げ最大の立役者の大久保利通などは無関係な薩摩人です。 大久保に協力した桂小五郎も思想というよりは山鹿流の軍学を学ぶべく弟子入りした人物で、最後まで藩士として勤めあげています。 坂本龍馬など松陰とはさしたる縁のない連中も沢山いました。 明治維新が本格的に動きだすのは1866年の薩長連合以降です。 松陰が開明的であったかどうかというところは些か疑問のあるところです。 動乱期に多くの弟子から慕われていたということは、それなりに人を魅了する人徳を備えていた人物であったことは間違いはないでしょう。 この辺は勝海舟などとは雲泥の差でしょう。 弟子達が苦労しながらお互いに切磋琢磨していったということでしょう。 松陰がいなくても時の流れでお互いに集結していったでしょう。 松陰を祀り上げて後世まで伝えたのは伊藤博文などでしょうけれども。 肝心の伊藤は松陰存命時代はほんの使い走りの小僧扱いでした。 諸先輩の苦労の結果できた仕組みに乗っかって明治の元勲などと大御所顔をしていただけです。 松陰の遺骸埋葬に立ち会ったのどうのというのも判然としません。 当時小塚原で切られれば遺骸は放置されて腐るにまかせるのが通例でした。 これを哀れんで首きり地蔵などと呼ばれる現在も残る巨大な地蔵像を建てた僧侶もいました。 まぁ~恩師の墓がないというのも示しがつきませんので、この辺はなんとも藪の中です。

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質問者

お礼

まあしかし、薩長同盟がならなければ倒幕の機運も消えていたかも知れませんし…これはもうわかりませんよね。

  • iton624
  • ベストアンサー率51% (32/62)
回答No.5

松陰が世間知らずの行動力のある田舎学者と言う見方は確かに否定出来ないと思いますが、本人は自分がそう言う人間であると知っていて行動していたと仮定しますと凄味を感じます。 具体的に言いますと 密航を企てた際に、ペリー航海記(うる覚えですが)では「国禁を犯してまでも、とてつもない好奇心が有り且つ教養がある若者」と多少、評価しています。少なくとも無鉄砲なバカ者とは言っていません。 投獄後、有名なやむにやまれぬ大和魂と読んでいる様に、投獄される事を想像出来ていた。(結果論かも知れませんが)  この大和魂は一般的には国を憂う気持ちと解釈される様ですが、ペリーの印象(会ったとは思えないが)では単に個人が海外で勉強したかった強い希望とも考えられるかと思います。 老中暗殺計画(計画とも言えないが)後に、話したと言われる、 死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし 自分は死ぬ事で国に貢献出来ると思っていたフシが感じられます。自分が革命家や政治家では無いと思っていた事は随所に有りますから、生きて大業は無理と思っていたのは想像に難くありません。 上述したような点を思いますと、単に頭でっかちの田舎の若者とは言えない様な、極端に結果論的な想定かも知れませんが、彼が幕府の次の世の中の為に、出来る事を精一杯行うとした時に出た行動で有ったのかも知れません。 自分がここで死ぬ事で、革命が成功して、その後も自分の思想が生かされると想像出来ていたとすれば、そう思えなくも無く、明治政府は松陰思想を実践した事実も有りますから(余り良い政策では無かったが)凄味を感じるところも有るのでは無いでしょうか。 全くの個人的な印象だけですが少しでも参考になれば幸いです。

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質問者

お礼

確かにそう考えると、凄みを感じますね。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (415/1290)
回答No.4

質問者様の考察に一票投じます。 弟子の七光かと・・・ 頭デッカチの軽挙妄動の見本ですね、然しながら、その行動力は 尊敬します。 NHKの大河ドラマはドラマであって、史実とは違いますね、視聴率 稼ぎ?の為か、回を重ねるに従って、史実から離れて行ってますね。 その事が低視聴率の原因なのではと思うのですが。 本題からは逸れますが・・・ 坂本龍馬も同様な部類に入るかと、違いは龍馬は不良の下級武士で 松蔭は優等生が故に、純粋過ぎたのかな~ 龍馬は司馬遼太郎が美化し過ぎと思ってます、何せ紀州藩から船の 損害賠償で七万両の大金をせしめているのですから。 純粋さと不良侍の違いはあれど、二人の生き様、エネルギュシュな行動力は、 個人的には大好きです。

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質問者

お礼

ドラマは史実と違って行ってますか…。私にはよくわからないのですが、私の疑問点についてどのように描かれていくのか大変楽しみに観ています。 なんというか、日本赤軍の若者だったり、オウムの若者だったり、一緒にすんなと言われるかもしれないですが、何か通じるものを感じます。 話が逸れますが、赤軍やオウムが現政体を倒すことが出来ていたら、という想像までしてしまいます。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

明治維新が成功裏に終わった結果、新政府を樹立した人達が、自分あるいは先輩が師事した人を美化して後世の伝えるのは止むを得ません。 これから離れてその人を評価すするのは非常に難しい作業です。 史実を評価する際に、現代の価値観に基づいて評価するのと、その当時の価値観で評価するのとでは時には180度違ってきますので注意して下さい。 「封建時代にあってかなりの開明的な人物」とされていますが、これはあくまでも現代の価値観に基づいた上に史実についての情報不足から来た印象です。 長州や薩摩、土佐などいう大名領の家臣や領民と江戸幕府とでは情報の質も量も圧倒的に差がありました。 このことと封建時代というのとは何の関係もありません。 江戸時代は鎖国をしていたのではなく、交易を極度に制限して幕府が独占していただけの時代です。 江戸幕府は全時代を通じて西欧の情勢は的確に把握していました。 オランダ領事の最大の責務はヨーロッパ情勢の詳細な報告です。 裏付けは中国の商船から得ていました。 オランダ風説書として膨大な報告書が現在も保管されています。 大黒屋光太夫やジョン万次郎のような漂流民や難破して帰国した商人からも情報を得ていました。 254件の報告がなされています。 これ等の情報を全て独占して秘匿していただけです。 「知らしむべからず、寄らしむべし」という政策を徹底させていた時代です。 ナポレオン戦争の一部始終も西欧各国の植民地化の経緯も把握していました。 幕府が西洋式軍事教練をフランスに依頼したのもこれが遠因です。 アヘン戦争の顛末も翌年には詳細を入手していました。 更に、アへ戦争当時に、英国兵がこれが終われば次は日本だとなどと放言したことも知っていました。 >「ペリーの船に乗り込んだりする」 これが如何に馬鹿げた行為かということは勝海舟のような下級幕臣でも知っていました。 ジョン万次郎のように外国の船団の士官級の扱いを受けていた人もきちんと帰国していた時代です。 他国の人間が許可もなく乗船すれば即刻退去させるか、所属国へ引き渡すのは大航海時代を経て度々お互いが戦闘を繰り返していた西欧の軍船にとっては常識中の常識の時代です。 ジョン万次郎が渡海して帰国できたのならオレもなどという発想自体が何をかいわんやです。 とは言え、何も正確な情報を所有していなかった松陰を誹謗するのも如何なことかと思います。 知っていれば如何に松陰でもあのような行動はとらなかったでしょう。 >何故幕府が開国の条約を結んだ際に激怒して要人暗殺まで企てたのでしょうか? 単に情報量の差です。 更に江戸時代を通じた歴史的な経緯もあります。 長州毛利家というのは江戸時代を通じて、幕政には一切関与できずに、一方的な幕府からの要求を吞まされ続けてきました。 正月の行事などで、全国の大名が将軍の前に座る際にも毛利家は座敷の外の廊下でした、一歩も座敷へ入ることは許されませんでした。 関ヶ原で曲りなりにも総大将として東軍に対峙した毛利家を江戸徳川家は絶対に許しませんでした。 幕府の顔色ばかり伺う上席者に対して若い下級藩士が不満を持つのは当然でしょう この鬱積が積もり積もって噴出したのが幕末です。 ロクな情報を持たない松陰が幕府の行動に難癖をつけても可笑しくはありません。 国家対国家の外交というものを知っていた幕府としては、長州だから薩摩だから徳川と対等の大名だからなどという国内理論が通用しないことは充分承知していました。 軍事力の圧倒的な差も認識していました。 ペリーの艦隊を引き連れた恫喝外交に対抗すべき術がありませんでした。 だからと言って国内で反対論を煽り立てる人間を放置しておくわけにはいきません。 サッサと小塚原で首を切ります。 このような状況下で勝手に砲撃などされてはどうにもならなくなります。 多額の賠償金を支払わずに薩摩は薩摩、長州は長州などと言っていたら、今ごろ山口県も鹿児島県も香港やシンガポールのように植民地になっていたでしょう。 >所詮は田舎で書物を読んで勉強しているだけの現実を知らないネトウヨの教祖みたいなものだったのかな、 当時の松陰が置かれていた地理的条件や時代背景を考えれば止むを得ません。 長崎で幕府の長崎奉行の配下にいれば多少違っていたでしょう。 長州の下級藩士を現代のネトウヨ扱いするのはどんなもんですかね~ 正確な情報を手にした後はキチンと対応しています。 腐るほど情報を持っていながらそれを有効利用できなかった幕臣の方が如何なんですかね~ 京都の警護も幕臣ではなく半農半士の郷士であった新撰組に依頼しています。 平和ボケの幕臣よりはマシだったのでしょう。 幕府の老中も大老もさぞかし頭が痛かったでしょう。 手足として動く連中がどれもこれも平和ボけで役立たずではどうにもなりません。 御三家も譜代大名もあてになりません。 戊辰戦争でも尾張も紀州も右往左往するだけで役立たずです。 会津や長岡のように落城を顧みずに頑張ってくれていれば多少は変わっていたでしょう。 現代にもなにやら通じる部分がありますね~

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質問者

お礼

なるほど、やはり田舎で陽明学を講義している程度で、海外の情報に常に触れていたというワケでもない松蔭先生ですから、その時に的確な判断が出来ていたかどうかは微妙なんですかね。 ただ、行動力だけは日本一だったので、的確とは言えない判断で自ら首が飛ぼうとも、弟子たちのその後にとんでもない影響を与えたのは間違いないワケで…。 松蔭先生がいなかったら、どんな幕末だったのですかね?

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11072/34514)
回答No.2

幕末史を調べていて非常に混乱するのは、志士たちの「思想のなさ」です。その典型が坂本龍馬で、バリバリの攘夷派だったのに勝海舟に説得されるとあっさりと開国派になってしまいます。 別に坂本龍馬に限った話じゃありません。幕末の志士のほとんどがそうです。伊藤博文なんかもイギリスに留学するとあっさり「ああ、こりゃね、攘夷なんて無理だわ。やっぱ開国だ」となります。 薩長の志士ばかりとは限りません。あの新撰組の土方歳三も鳥羽伏見の戦いで「刀槍じゃ銃に勝てん」と分かると関東に移ってからは銃兵を率いて戦い、一体どうやって銃の兵法のコツをつかんだのか短期間のうちに連戦連勝。函館戦争辺りになると間違いなく日本一の無敵の野戦指揮官になります。それだけではなく、まだ和装に丁髷がスタンダードだった時代にいち早くざんばら髪にして洋装、ブーツ姿の有名な写真を残しています。あれを見ると「アンタ、武士になりたかったんじゃないのかよ」とツッコまずにはいられません。 だからあの時代にある程度しっかりした思想に基づいてある意味頑固に活動していたのは佐久間象山や勝海舟などのごくごく一部で、あとの若者たちは割と「その時代の気分」で動いていたような気がします。 同じようなことは太平洋戦争後にもいえて、戦争中は特攻までしてアメリカと必死に戦っていたのに、戦争が終わったら割とあっさりと世界でもトップクラスの親米国になり、戦後10年くらい経つとすっかりアメリカ文化の強い影響下になります。そのときも、幕末のときも、日本の若者に「昨日まで敵だったやつらの軍門に降るようなことがあっていいのか」という葛藤はほとんど、というかもう皆無といっていいくらいです。 私はその定見のなさは、むしろ融通無碍な柔軟性であり日本人の良さでもあると思っています。あっちのほうが優れているとわかったら、あっさり受け入れる。それが明治の近代化や戦後の復興を成し遂げたのは間違いないと思います。アフガン人は誇り高い民族のようですが、日本人からすると「つまらんプライドにこだわって、だからいつまでも貧しい国のままなんだ」というように見えます。

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質問者

お礼

まあ、どちらが正しいのか、結末が出てみないとわからないですからね。 開国路線じゃなくて攘夷路線で突っ走っていたら、どんな近代を迎えていたのでしょうかね? ただ、松蔭先生は思想的にはブレてはなかったと思いますが、どうでしょう?

回答No.1

戦前の有名な皇国史観の歴史家「平泉澄」(東京大学教授)が「先哲を仰ぐ」という書籍で吉田松陰と橋本景岳(佐内)について項を立て解説しております。若干の違いはあるかと存じ上げますが、天皇絶対主義の水戸学派ややはり天皇を絶対視する思想である「崎門の学」(山崎闇斎が創始者)垂下神道の一種と朱子学の変形が合体した思想。簡単に言うとやはり天皇絶対主義で日本=中華思想。朱子学で言えば徳のある統治者に価値を見出している。良い政治=徳のある政治家である。徳のある統治者は代々滅びずに残るだろうという論理展開になり、中国は政権交替がなされている(殷・周・秦・漢・・・・・。)ところが日本の場合は古代から皇室が万世一系で存続している。真の中華は中国ではなく日本である。という論理展開になっております。 参考文献としては山本七平の「現人神の創造者たち」を挙げておきます。

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質問者

お礼

どうやら松蔭先生、幕府の弱腰外交、開国路線に腹を立てたというよりも、朝廷をないがしろにした幕府の政策決定過程に腹が立ったみたいな感じですね。 その辺りが、あまり詳しく描かれているものを見たことがないので、どうもピンと来なかったのですが。 水戸や長州のような、幕政から蚊帳の外に置かれていた人びとのルサンチマンが、自らのアイデンティティのよすがとして、対幕府としての尊王という発想に昇華したのでしょうか。 そういう立場から見ると、危機を前にしてもなお変われない幕府に対して、テロも辞さず、というのは、先を見通す才があればこそなおさら理にかなっていたということでしょうか。