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発達障害とは?理解して付き合う方法とは?
- 発達障害について理解することは重要ですが、その特徴を理解しただけでは上手に付き合うことは難しいかもしれません。
- 発達障害の人と上手に付き合うためには、その人の特徴や傾向に気を配ることが必要です。
- 発達障害の人と上手に付き合うためには、相性の良い人であることも重要です。
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ここで言う発達障害とは、以前は軽度発達障害と呼ばれた、知的障害を伴わない広汎性発達障害、アスペルガー症候群、ADHD、LDのことだと解釈してよろしいでしょうか。 身内がADHDにLDを合併しているタイプの発達障害なのですが、私は相手が他人であれば発達障害のことは身内ほどには理解できないし、身内に対するのと同じように心を砕くことはできないな…と感じています。 依怙贔屓とか差別とか、そういうことではなくて、身内ほどの長い付き合いも無ければ、その人自身をつぶさに見る機会が無かったので、将来は違うのかもしれないけれど現状では本当の意味で理解することは出来ないし、誰もが一人一人性格が違うように、他人であれば診断名が同じでも、別タイプの発達障害と考えても良いのではないかと思えるぐらい、発達障害には多種多様な特徴があると感じているからです。 専門書によく書かれている理解とは、平たく言ってしまえば「こちらが発達障害者に合わせなさい」ということですが、限度があります。 双方が合わせなさいの意味を「自分の出来る範囲で」と解釈しているのなら問題ないのですが、発達障害者の方が「何もかもを理解し合わせてくれ」となったり、一般人の側が「あなたがそこまで要求を上げるなら、あなたも私をもっと理解すべきだ」という流れになってしまったら、どちらも関わることが負担になります。 このようなケースだと「全てとは言っていない、少しで良いから理解してくれと言っているんだ」と双方は思うのでしょうけれど、何度も関わりを持てば塵も積もれば山となるので「少しを何度も重ねれば全てと言っているのと同じだ」と感じるものでしょう。 どちらかが合わないと感じれば距離を取ることができる性格なら特に問題に発展することもないけれど、お互いが頑固で生真面目なタイプだったり、人に対して理想を求めるタイプだと、ますます深みにはまってしまいます。 _____ 医療関係者が書いた発達障害の専門書や(鬱病だけではなく抑鬱を含む)鬱などの二次障害に苦しんでいる発達障害当事者が訴える「理解」と、家族でもなければ専門職に就いているわけでもない一般人ができる「理解」の間には温度差があります。 一般人が出来る理解とは、せいぜいが傾向を掴んだり予測することなのに、自分が発達障害であるということに苦しみを感じている人ほど一般人に受容を求める傾向が強いように感じます。そういう方は自己肯定感が低くなってしまっているので、何事にも高いハードルを感じて、すぐに苦しい辛いと訴えるし、理想の対応が返ってこないと、ものすごく落ち込んだり怒り出したりするので、一般人は その感情の激しさに困惑してしまいます。 家族や医療関係者から充分な理解を得ていると実感している発達障害者は自己肯定感があるので、他人にそこまでレベルの高い要求は持っていないし依存心も強くないけれど、誰からも理解されていないと強く感じている発達障害者の場合は自分を受け入れることがまだできていないので、他者に対して理解という言葉に高い理想を持っているように感じられます。 理想を求められれば求められるほど一般人の側も「あなたも私のことを理解してくれ。人間、誰しも万能じゃないし、凡人は万能と言う意味じゃないし、万能に近いのでもない。何でもできる、何も苦しんでいない、何を言われても怒らない、何でも容認できるはずだなどとは決して思わないでくれ」と。 >発達障害の人と上手く付き合うことが出来るのは、理解するようになった人ではなく、 その人の特徴や傾向があまり気にならない人ではないでしょうか? それは、発達障害があると診断されている人や疑いのある人のことを病的に感じたり負担に思うことなく、一人の人間として受け入れることが出来ているということですよね? ならば、仰る通りだと思います。 理解には、もともとは受容(受け入れる)という意味も、容認(本来の意味は“認められないことをよいと認めて許すこと”)という意味もないし、忍耐という意味もないと思います。 だけれど、殊に人が相手だと理解という言葉は重い意味に拡大解釈されてしまいがちです。そこで、発達障害のあるなしに関わらず、多くの人が惑わされてしまい、それぞれのことを負担に感じてしまうんだと思います。 「理解の理想形が受容で理解と容認は本来は別物なんだ」と、そこからスタートするのと、「理解とは受容であり、その理想形は容認である」と受け取ってスタートするのとでは大違いだと思います。前者は一歩一歩前に進むことや無理のない歩み寄りを考えているけれど、後者は最初から到達地を掲げています。 発達障害のあるなしに関わらず、後者からスタートすると、大義名分に振り回されて深みに嵌ってしまうんだと思います。 誰でもは可能性は持っているけれど、理想や理不尽エゴを押し付けられることは嫌います。不自然な付き合いは、いつか必ず終わります。 長く付き合える関係とは、理想やエゴを押し付け合わない関係と言えると思います。 理解しようと努めるよりも、お互いの無理のない歩み寄りの仕方や距離感を感じ取ることの方が大切なんだと思います。
その他の回答 (4)
No.4です。 何度も申し訳ございません。 先の投稿の終わりの方になりますが、下から二段目にミスがあったので再投稿です。 誤)誰でもは可能性は持っているけれど、理想や理不尽エゴを押し付けられることは嫌います。 正)誰もが可能性を持っているけれど、現実を度外視した理想や理不尽、エゴを押し付けられることを嫌います。 ~訂正は以上です。お手数をお掛けしますが、よろしくお願いします。~
- obrigadissimo
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家族でもなく、職場の関係でもなく、日頃の生活で接する 機会があるのは、作業所や学校等を職場に含めるとしますと、 どのようなケースなのか私には不明なのですがまぁ それはともかく、 お求めの回答にはなりませんが、畢竟、自身が どのようなスタンスで接するかではないでしょうか。私なら 長所を伸ばせるように協力し、微力ながらサポートさせて いただくといったスタンスをチョイスします。たとえば、 他の人の神経を逆撫でするようなことを頻繁に言う人 であっても、IQが高い人ならば、その長所を伸ばせるように 環境を整える協力をしたいです。 発達障害にも諸種在りますし、加えて、個人差がありますので、 一括りにしない方が多様な救いの道があるように感じます。 括ってしまうのは、思考の節約状態や思考の吝嗇傾向のある人には、まぁ ある種の救いがあるでしょうけれど。 理解できるか否かということでは、 理解できない発達障害の人もいれば 理解できる人もいるとしか、 答えようがないですな。 Good Luck! CiaoCiao!
補足
ありがとうございます。 私はIQの度合い(だけ)ではないと思います。 才能(ものすごく明るくポジティブ)で、他の人との差異など気にならない。 そういう人もまた上手く付き合える人だと思ってます。 (どちらも知性的であると共通する面はあるかもしれませんが) あと、一括りは、即興・短文の振りに対して同様に返すQA方式だからそうしたもので、 分類や言葉の定義から始めたりすると、敷居が高くなるし、、まあ面倒臭いですね。 なので、その辺りは、割愛してると察していただけると幸いです。 ちなみに、私個人は、「一概には言えないと思います。人それぞれでしょう。」的な結びはギャグとしては使いますが、言い切るのを避けるために保険をかけた風になる気がして、あまり使いません。 なので、環境を整える協力をしたいです。で終ってたらカッコイイ回答だと思いました。
- sun-zoo
- ベストアンサー率28% (86/300)
何でもそうですが「理解」出来れば何でも出来るわけではありません。 「頭ではわかってるんだけど」とか 一般社会でよくある言葉です。 それでもやらなくてはいけないときもある、 ただそれだけです。
補足
ありがとうございます。 最初の一行で終ってたら、凄くいい回答だと思いました。 最後に、保険をかかてまとめた感がします。
- doc_somday
- ベストアンサー率25% (219/861)
正論だと思います。だが「正論」は「好い子のお答え」に過ぎない。 >その家族でなければ、上手に付き合うことは、ほぼ無理だと感じます。 多分正しい、幼少の時の言動が無いと、時には全く理解不能でしょう。 >、理解するようになった人ではなく、その人の特徴や傾向があまり 気にならない人ではないでしょうか? そこ迄行くと突き放し過ぎになります。少しずつ理解はしたほうが良い、 だが、ある処以上は「理解停止」するほうが良い場合も多い。 あまり良い言葉ではないが「一線を引く」立ち入らず相手の「行動」に 「絞ってしまう」 家族でも医師でも無い人は責任を持てない。
補足
ありがとうございます。 私の中で、他の障害(精神除く)や高齢者の場合は「理解」という言葉に違和感を感じませんが、 発達障害の場合、秘境にも「理解」という綺麗な言葉を使って、受け入れを強要しているイメージと重なります。 ものは言いようで「突き放す」と言うといかにも酷い人になりそうですね。 「お互いに良い関係でいるために程よい距離を保つ」と言えば、距離を置くのも納得してもらえそう。 発達障害の人との付き合いは、気が合わない人と付き合うことに似てる気がします。 どうしても合わない人っているじゃないですか。距離を置くことで誰にも迷惑がかからないなら、ストレス抱え無理して付き合う必要ないでしょう? 誰も、「理解してあげようよ」とは言わないでしょう? 「発達障害への理解」と言われる(表記される)と、 「じゃあお前はどんな性格の人間でも理解し受け入れるんだな?」と言いたくなります。 その辺がモヤモヤしてるのです。
補足
ありがとうございました! あなたの回答文は、最高の良書と出会ったのと同じです。 そして、私なりに感想をお返ししたいのもありますが、モヤモヤを大きく汲み取られているような感覚から、発すると薄い意見になるようで言葉が紡ぎだせません。 私は、しっかり関わるでのない、時折関わる程度の発達障害とそれをとりまく環境について、不思議な感じと違和感から興味が湧くかもしれません。 捉えにくい分野ですね。