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旧ユーゴスラビアとコソボについて

旧ユーゴスラビアとコソボについてざっくりまとめてみました。 間違いや、肝心な部分で抜けがあったら指摘お願いします。 ----- 1900年初頭、セルビア王国はスラブ人を集めた国を作ろうとした。 (ゲルマン人に対抗するため?) しかしオーストリアハンガリー帝国がそれを阻んでいた。 ↓ 1914年 サラエボでセルビア青年がオーストリア皇太子を殺害。 そこから第一次世界大戦が勃発。 ↓ 1918年 第一次世界大戦集結。 その結果民族自決の動きが高まり、 現在のスロベニア、クロアチア、ボスニア、セルビア(とコソボ)、マケドニアが合わさってユーゴスラビアとなる。 ↓ しかし首都はセルビアのベオグラード。 基本的にセルビアを中心とした動きや、地域貧富の差で不満が爆発。 ↓ 1991年にスロベニアとクロアチア、1992年にボスニアヘルツェゴビナが独立。 1992年 ユーゴスラビアは国名をセルビアモンテネグロに変更。 ↓ 2006年 モンテネグロも独立。 セルビアは取り残された。 ↓ 2008年 今度はセルビア内の自治区だったコソボ(アルバニア人が9割りを占める地域)も独立を宣言。 それをきっかけにセルビア人によるアルバニア人迫害が始まり、内戦へ発展。約10年続く。 ↓ 長期化する内戦で飛び火や移民を危惧したNATO(特にイギリスとアメリカ)がコソボの独立を支援。 セルビアの軍事司令ビルを空爆。 ↓ しかし制圧できないどころかセルビアのコソボへの攻撃を激化させ、多数の死者を出す。 結局話し合いにて収束することとなった。 ↓ 現在世界100カ国ほどがコソボを国として承認。 しかしセルビアをはじめ、国内に独立の危険を孕んだ地域を持つロシア中国などは未だ存在を承認していない。

みんなの回答

  • zep19
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回答No.1

第一次バルカン戦争で生じたアルバニア独立問題とコソヴォ地区の取り扱いはやや複雑です 伊土戦争でイタリアがオスマン軍に対し優位に戦争を進めていた間 ヨーロッパに駐留していたオスマン軍が北アフリカに移転した間隙をついて第一次バルカン戦争が勃発しました オーストリアの基本政策は反墺国家セルビアのアドリア海進出は絶対阻止であり これにはイタリアも同意していました 一方、セルビアは後のアルバニア全域の領有を目指しており ロシアはそれに一定の理解をしていました オーストリアはアルバニア人居住地域全域でのアルバニア国家独立を提案し セルビアのアドリア海への出口は【鉄道での連絡 】を提示しました セルビアはこれに対し反発するのは当然でした ロシアはアルバニア全域の占領をセルビアに諦めさせ アルバニア国家設立は認めるが、セルビアにアルバニア北部に回廊を作り領有させることを提案します しかしオーストリア、イタリアは拒否 第一次バルカン戦争が進行していく中、セルビア軍のコソヴォ制圧は不可避となり (コソヴォは中世セルビア王国がオスマンとね決戦を行った地であり、王国の発祥地ラシュカ地方のすぐ南西に位置していました) オーストリアの主張するアルバニア人居住全域のアルバニア国家を断念 ロンドンで英独仏露墺伊の六大国会議を開催しました ロシアは前述の提案をしますが オーストリア、イタリアは当然反対し ドイツはオーストリアを支持 意外なことにイギリス、フランスはロシアに一定の理解を示すが同意できない事が明らかになり ロシアは愕然とします そうこうしている内に後のアルバニア国家の北部要衝スクタリがモンテネグロ軍に占領されます これに対しロシアを除く五大国は英将軍バーニー提督を司令官とする五大国合同軍を組織 兵力は 英:戦艦1隻、巡洋艦複数、陸戦隊400 墺:戦艦3隻、巡洋艦複数、陸戦隊400 伊:戦艦1隻、巡洋艦複数、陸戦隊400 この地域の問題に深入りしたくない独仏は 独:巡洋艦1隻、陸戦隊100 仏:巡洋艦1隻、陸戦隊200 合同軍はスクタリからモンテネグロ軍を撤退させ、スクタリを管理下に置きました 第一次世界大戦前の最後の成功した国際協調の場になりました (ロシアは大いなる不満を持ちましたが…) これがアルバニア独立の際の実情です

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