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オーケストラと合唱などの形態

主にクラシック音楽のオーケストラが歌唱を伴う「交響曲合唱付き」などのケースで、数十人規模の楽器演奏に対して、唄が1人、あるいは数名、後ろで唄う、というケースはあるのでしょうか? 大凡楽器が大人数なら、歌手もたくさんいる、という形になっていると思うのですが、よく考えてみると必然性があるようにも思えません。一度に唄う人数が少なければ、オペラのようなスタイルになり、歌手は前に出てきて唄う、あるいは、オケもピットに隠れ、声楽となる。歌手が後ろに下がる時は楽器奏者に見合うバランスの大人数になり、例外はあっても大凡器楽と呼ばれる。大人数の楽器に対して、1人から数名の歌手が後ろで唄う、というような編成は試されたが、定着しなかったのでしょうか?何故でしょう?また、このような理解の仕方の間違いを正して頂けますか?

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回答No.2

コメント拝見しました。 実は私は職業音楽家なのですが、これは、今までされたことのない質問で、たとえて言うと、子供から「空はなぜ青いの?」と聞かれて、答えに窮するような感じです(笑)。 >独唱者がソロ扱いでない曲は存在しないのでしょうか? 一応、「存在しない」とお答えしておきます。現代音楽の作品の中には、あるいはそういう試みがあったかもしれませんが、これまで長年音楽をやってきて、そういう作品があったという記憶がありません。 >管楽器が後方の定位置で4人でユニゾンなどで旋律を担当しているようなケースはたくさんあると思いますが、同様に例えば、4人の歌手が独唱的にではなく、ある楽器パートのような役割を果たすケースはどうも見当たらない気がするのですが、如何でしょうか? またそれは何故なのでしょうか? そういうケースはありません、というか、ありえません。なぜかというと、楽器の音と人間の声は、完全には融合しないからです。オーケストラの中にはいろいろな種類の楽器がありますが、楽器同志なら融合します。その中に声が加わると、声だけは分離して聞こえるので、オーケストラの中の一つのパートとしては扱えないのです。したがって、独唱が入る場合は、オーケストラ作品ではなく、声楽作品、つまり、独唱とオーケストラの伴奏、ということになります。あくまでも「歌」です。 >歌手がソロになるとき前に立つのは音量の問題だけではない気がします。音量のバランスが取れないなら静かな曲を書けばよいだけのように思うのですが、そうもいかないのは何故なのでしょうか? それですと、最初から最後まで静かなままの、全く盛り上がりもドラマもない曲を書かなければいけません。迫力のない、退屈な曲ばかりになってしまいます。どんな曲にも盛り上がりがあり、曲のクライマックスでは、オーケストラも大きな音で演奏します。一応、声がかき消されないように、指揮者がオーケストラの音量を調節しますが、曲によっては、独唱者が前に立っていても聞こえにくくなる時があります。舞台の後へ下がるほど、音は前に聞こえなくなりますし、歌詞も聞き取りにくくなってしいます。オーケストラで一番後ろに座っているのは、もともと音量の大きい金管楽器や打楽器です。もしそういう音量の大きい楽器のそばに歌手が立つと、周りの楽器の音のために自分の声を聴くことができなくなり、歌唱不能になってしまいます。 以上の理由から、歌手が前に立つのは、目立つ、目立たない、ということとは関係なく、演奏する側にとってはごく自然で、疑いようのない習慣です。厄介な問題という認識はないのですが・・・

violacello
質問者

補足

引き続き幼稚な質問にお付き合いいただきありがとうございます。_(._.)_ ジョークが通じない相手だと思われたくはないのですが(笑)、空が青いのは比較的単純な理由だと思います。一応リンクをジョークのつもりで添付させて頂きました。 http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/earth/earth03.html >一応、「存在しない」とお答えしておきます。  なるほど了解しました。 >楽器の音と人間の声は、完全には融合しないからです。  それは、どうしてなのでしょうか? 聴く側がそれが肉声だ、と分かると、それだけをより実際よりも心理的・認知的に強く抽出して聴いてしまうように出来ているからではないでしょうか? また一応、楽器同士でも、調律感の違うもの同志、西洋楽器と和楽器などはなかなか簡単には融合しないと思います。 >退屈な曲ばかりになってしまいます。  はい、おっしゃるとおりだと思いますが、クライマックスはインストになる、などの工夫にトライするくらあってもよさそうな気がするのですが…。また、「歌詞も聞き取りにくくなってしいま」うなら、歌詞がなくてもよいと思うのですが…。当時の作曲家はそういうアイデアを思いつかなかったのでしょうか、あるいは何か他のプレッシャーで実現できなかったのでしょうか。  クラシックの(作曲の)世界では色々な形式に沿うことが求められる(た)と思います。「それが自然」というお考えにも反論するつもりは全くございませんが、同じように、私には逆にとても不自然なことに思えています。勿論、このような肉声や歌の扱いの「自然な」特殊性はクラシックにだけにあるわけではないと思います。因みに、この歌の「自然な」特殊性の存在に長い間なかなか気が付きませんでした…。

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回答No.6

どうも話がかみ合わないので、とりあえずこの回答で終わりにさせてください。他の方の回答が付いたら、そちらも参考になさってください。違う角度からの回答があれば、納得されることもあるかもしれません。 最初に、誤解があったかもしれないので説明しておきますけれど、「空はなぜ青いの」というたとえは、あなたの質問が子供の質問のようだという意味で言ったのではありません。これは哲学の話で、No.2のコメントに張ってくださったリンクの説明では、子供は納得しない、ということです。かりに子供がこの説明を理解したとしても、そのあとに、ではなぜ光にはいろいろな色が含まれているのか、なぜ空気中の分子は青い光だけをつかまえるのか、と無限に問いが続くということです。そして、今まさにそういうやり取りになっています(笑)。このままだと終わりがありません。 >現在のような電子音楽の環境下では、コンピュータ上とは言え、様々な肉声と楽器音の垣根のない融合は既に山ほど行われており、むしろ垣根の存在を気にする意識もないように思われますが、そのようなトライはクラシックの世界では逆に全く行われなかった、という理解で正しいでしょうか? これも、おっしゃっている意味がよくわかりません。電子音楽であれば、実際の肉声や楽器音ではないはずです。電子的にプログラミングして作成した音ならば、いくらでも変調できるでしょうから、好きなように操作できるでしょう。しかし、今話しているのは、オーケストラの普通の楽器や生きた人間の声ではないのですか。これを人工的に変えて融合させるのは不可能ですよ。トライが行われなかったのではなく、トライする余地がないということです。生の楽器や肉声でできないことを電子音楽でやっているのですから、電子音楽でできることをなぜトライしないか、というのは順序が逆です。それに、参考までにお話しすると、クラシックの分野では、20世紀の初めからすでに電子音楽の試みが始まっています。正直言うと、最近の電子音楽より、20世紀中ごろ以降の電子音楽の方がユニークだったように思います。最近は、技術だけは当時より発達しましたが、実際にそれを使って音楽を作る段階での発想が貧しくなっているようです。クラシックの方では、電子音楽はむしろ20世紀の流行で、現在は下火になっているといってよいでしょう。 >それは表裏、Chicken&Eggなお話ではないでしょうか? 優れているから、と思った作曲家がそれを真似ることは少なからずあったでしょうから。 同じ説明を繰り返すしかないのですが、作曲家も演奏家も、何百年の歴史の中で、より優れた形式を追求してそれを確立していったのです。新しい世代の音楽家は、その成果をもとに、少しずつ前進していったのです。理由もなく、ただ優れていると思い込んでまねるということではないのですよ。ただ、一度に大きな変化というのは起きませんので、同じ時代の音楽ならば似ていて当然です。それから、お話を伺っていると、多くのものが似ていることをことのほか気になさるようですが、多くの人がよいと思うもの、感動するもの、というのは、かなりの程度共通するものです。曲の最後が盛り上がるというのは、だれもが興奮するドラマトゥルギーで、これが嫌いだという意見は、今回初めてうかがいました。なぜなのか、不思議に思うばかりです。なお、交響曲は必ず最後は盛り上がらなくてはいけない、などという規則はありません。ただ、モーツァルトやベートーヴェンの時代は、それがスタンダードです。それは、音楽上の問題だけではなく、たとえばモーツァルトの時代であれば、貴族の宮廷で演奏される曲には、華やかさが求められたでしょう。社会や時代の制約もあるということです。最後が盛り上がらない交響曲はいくらでもありますよ。たぶん、あまりたくさんの曲を御存じではないのだと思います。また、ホルストの「惑星」は交響曲ではないので、この場合比較するのは誤りです。ためしに、最後が盛り上がらない、だんだん静かになる交響曲を、思いつくまま少し並べてみます。 ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」 ブラームス 交響曲第3番 チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 マーラー 交響曲第4番、第9番、第10番、「大地の歌」 リヒャルト・シュトラウス アルプス交響曲 シベリウス 交響曲第4番、第6番 ヴォーン・ウィリアムス 交響曲第2番「ロンドン」、第3番「田園」、第7番「南極」 ショスタコーヴィチ 交響曲第4番、第8番、第13番 などなど 最後に、オーケストラと歌手の配置について補足ですが、No.1の回答で、独唱者がオーケストラと合唱の間に立つことがあると書きました。No.4の方が、実際の体験を書いてくださいましたが、こういう配置が可能かどうかは、演奏会場の大きさや形状、音響設計によります。ホールが小さく、舞台が狭い場合や、客席の勾配が緩く、舞台の高さとあまり変わらないようだと無理です。それから、オーケストラの楽器の配置についても、これまで試みがなかったわけではなく、過去に、いろいろな指揮者が伝統的な配置と違う形を試みました。それが残らなかったのは、優れた結果が出なかったからです。なお、配置については、今日でも一つの配置法に統一されているわけではありません。曲の様式やホールの音響、指揮者の好みなどで、いくつかの配置法のヴァリエーションがあります。 お話しして思ったことは、何が特殊だとか、何が嫌いだとか、そういった先入観をいったん白紙に戻されて、ルネッサンスから現代までの、できるだけたくさんの曲を、いろいろな演奏形態でお聞きになり、体験された方がよいということです。多くの音楽体験を積み重ねることで、これまで抱いてこられた疑問への答を、御自身で見つけられるようになると思います。

violacello
質問者

お礼

色々ご丁寧に何度も回答下さり、ありがとうございました。ご指摘のとおり、私の興味は音楽表現そのもの、というよりも、認知・心理的な視点に近いものでしたので、視点がそもそも噛み合っていない部分がかなりあったと思います。ご紹介頂いた曲なども、今一度よく聴いてみたいと思います。

  • BASKETMM
  • ベストアンサー率29% (240/806)
回答No.5

 No.4 です。 合唱の歌わないときに、ソリストが歌う時間は沢山ありました。

violacello
質問者

お礼

なるほど、ご返答ありがとうございます。

  • BASKETMM
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回答No.4

幾何学的配置だけの回答です。 2014年10月3日に新日本フィルハーモニーがベートーベンのミサ曲を演奏しました。 そのときの配置は; オケの態勢は左奥にコントラバス、前に第1ヴァイオリン、右へチェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンという対向配置。その後ろに、管・打楽器群。さらにその後ろに栗友会合唱団のメンバー100名以上が、左に女声、右に男声という陣容で配置。ソリストの4人がセンター後方、管弦楽と合唱団の間。 合唱の歌わないときに、ソリストが歌えば、質問者の言われる【大人数の楽器に対して、1人から数名の歌手が後ろで唄う、というような編成】ですね。 音楽的意味/歴史的背景は私には分かりません。演奏会は鯖らしい出来でした。

violacello
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。なるほどそうなりますね。因みに、 >合唱の歌わないときに、ソリストが歌えば という状態は実際にあった・なかったのでしょうか? 「ベートーベンのミサ曲」の様々な演奏形態などの明るくないので、 教えて頂けるとありがたいです。 「どこまでも抜ける青空」のように「鯖らしい」演奏を堪能されて!お喜び申し上げます(^◇^)

回答No.3

うーん、困りましたね。肉声や歌の扱いが特殊だとお感じになる理由がよくわかりません。オーケストラの前に立っているという理由だけでそう思われるのでしょうか。以下の点についてだけ補足しておきます。 >聴く側がそれが肉声だ、と分かると、それだけをより実際よりも心理的・認知的に強く抽出して聴いてしまうように出来ているからではないでしょうか? 心理的・認知的にではなく、音響学的(物理的)にです。わかりやすく言うと、ドミソの和音を演奏するとき、例えば「ド」をクラリネット、「ミ」をオーボエ、「ソ」をフルートに振り分けて演奏すれば「ドミソ」の和音としてまとまって聞こえます。もしこのうちの一音を声に振り分けると、「ドミソ」というひとまとまりの和音として把握しにくくなります。声と楽器では、ヴィブラートのかけ方も違いますし、音響特性も違います。調和させるためにこれらを変える、というのは不可能です。 >また一応、楽器同士でも、調律感の違うもの同志、西洋楽器と和楽器などはなかなか簡単には融合しないと思います。 おっしゃる通り、西洋楽器と和楽器は融合しません。西洋楽器と和楽器が共演する場合はまくまでも異質なものをぶつける面白さだけだと思います。両方の楽器を使った作品は少しはありますが、後々まで残るような曲はほとんどないでしょう。あくまでも融合しないことを逆手に取るか、邦楽器に西洋の音律に合わせて演奏させるか、どちらかになります。個人的には、西洋楽器と和楽器を一緒に使った曲を書きたいとはあまり思いません。 >クライマックスはインストになる、などの工夫にトライするくらあってもよさそうな気がするのですが…。 インスト、というのはオーケストラだけ、ということですか。そういう部分のある曲もありますが、ちょっと盛り上がるたびに歌が休みになってしまったら、歌を聴く楽しみもなくなりますね。そもそも、古代の時代から歌はあり、歌詞を伴うものです。表現したい文学的な内容、テキストがあるから声で歌うわけで、歌詞がなくてもよいのなら、声を使う理由もなくなります。もちろん、声をあくまでも声として、歌詞を伴わずに使った曲は少しですがありますよ。でも、基本的に声を聴く場合は、具体的な物語を語る「歌」を聞きたいのですから、歌詞を伴わない声楽曲が主流になることはありません。「プレッシャー」のようなものは、この場合、全く考えられません。 なお、作曲家が「形式に沿うことが求められた」のではなく、理にかなっていて、演奏効果の上がる演奏形態が、長い歴史の中で形式として徐々に確立されたということです。先に形式があって、それに従うのではなく、優れているから形式として定着した、ということです。自然、というより、理にかなっている、ということですね。それを無理に変えても、良い結果は出ません。もし可能なら、とっくに誰かがやっているはずですから。 これが、私ができる、精いっぱいの回答です。

violacello
質問者

補足

引き続きご返答ありがとうございます。子供の空の色への疑問をもう少しだけ聞いてやって頂ければ幸いですm(__)m >音響学的(物理的)にです。 現在のような電子音楽の環境下では、コンピュータ上とは言え、様々な肉声と楽器音の垣根のない融合は既に山ほど行われており、むしろ垣根の存在を気にする意識もないように思われますが、そのようなトライはクラシックの世界では逆に全く行われなかった、という理解で正しいでしょうか? >優れているから形式として定着した、ということです。 それは表裏、Chicken&Eggなお話ではないでしょうか? 優れているから、と思った作曲家がそれを真似ることは少なからずあったでしょうから。クラシック音楽の大好きな部分は山ほどあるのですが、どうして交響曲の終わり方はどれも似て大袈裟に盛り上げるのか、など、嫌いな部分もあります。「惑星/ホルスト」などでは、違う終わり方をしているかと思います、これが「理にかなっていない」と退けられてはいないですよね?

回答No.1

御質問の趣旨が今一つよくわからないのですが、たとえば、ベートーヴェンの第9交響曲の場合、オーケストラの前にいる4人は独唱者、後ろにいうるのは合唱団です。独唱者は、それぞれ一人で一つのパートを歌わなければいけないので、音量の大きいオーケストラの後ろへ行ってしまうと、声が聞こえにくくなります。ですから、声楽に限らず、器楽の協奏曲でも、ソリストはオーケストラの前に立ちます。合唱は大人数なので、オーケストラの後ろでも十分な音量があります。合唱団の人数は、オーケストラの編成が大きくなれば、その分多くなりますので、オーケストラの後ろに位置していても、音量のバランスは取れます。ただし、バロック時代のような、オーケストラの編成が小さい曲の場合、後ろの合唱団の団員が独唱する場合もあります。また、ベートーヴェンなども、巨大なホールで、舞台の上の段が高くなっている場合など、まれにですが、独唱者が、オーケストラの後ろ、合唱団の前に位置する場合もあります。要するに、どこに立つかは、音響的に、独唱者の声がオーケストラの音にかき消されずに各席まで聞こえるかどうかによります。合唱がなく、独唱とオーケストラだけが共演する場合は、例外なくオーケストラの前に立ちます。もちろん、音響的な意味だけでなく、その曲の主役だからということや、指揮者の近くでコンタクトをとる必要があることも理由です。オーケストラがピットに入るのは、舞台上で演技されるオペラの上演の時のみですので、オペラ以外の声楽とオーケストラの曲の上演で、オーケストラがピットに入ることはありません。 なお、大凡楽器という言葉を聞いたことがありません。ネット上に、二、三、使用例はありましたけれど、どういう意味でお使いでしょうか。

violacello
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます、妙な質問で申し訳ありません。言い方を変えると、次のような感じです。 ・独唱者がソロ扱いでない曲は存在しないのでしょうか? ・管楽器が後方の定位置で4人でユニゾンなどで旋律を担当しているようなケースはたくさんあると思いますが、同様に例えば、4人の歌手が独唱的にではなく、ある楽器パートのような役割を果たすケースはどうも見当たらない気がするのですが、如何でしょうか? またそれは何故なのでしょうか? ・歌手がソロになるとき前に立つのは音量の問題だけではない気がします。音量のバランスが取れないなら静かな曲を書けばよいだけのように思うのですが、そうもいかないのは何故なのでしょうか? というような質問です。人間が目立つ・目立たせたい・目立ちたい・目立ってしまう・目立たないようにはできない…その様々な理由を知りたいのです、それが今日までの音楽の厄介な問題の根源の一つでもあるように思えるからです。どうぞよろしくお願い致します。 「大凡楽器が大人数なら」=「おおよそ楽器(の演奏者が)大人数なら」でした、紛らわしい表現で失礼いたしました。

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