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日中戦争と日米交渉

1937年に始まった日中戦争は中国のゲリラ戦法で泥沼化しました。 1940年には北部仏印に進駐、翌1941年7月には南部仏印に進駐。この南部仏印進駐が太平洋戦争への回帰不能点と言われいます。 日米交渉の最終局面を向かえても日本は中国から撤退しない。南部仏印からも引かない。 なぜ日本は中国との講和を進めなかったのでしょうか。もし講和が成立して中国から撤兵し、仏印から撤兵すれば、アメリカ、イギリスからの資源輸入も継続され、日本経済は継続していたと思うのです。

みんなの回答

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.7

まず中国は、この当時は明確な政権が確立されていません。 清が滅んだ後は共産党と国民党が対立し、特に1927年からは国共内戦と呼ばれる時期で、しかも列強からそれぞれ資金面などで援助を受けているので、中国事態と交渉しようにもまとめようがない時期です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6 また、アメリカが日本との戦争に踏み出したのは、そもそもアメリカの経済が不況であったためです。ニューディール政策で財政出動しておきながら、少し景気が回復したら、すぐに引き締めを行ったため世界恐慌以降の不景気から脱することができない状況で、失業率は10%以上の高止まりをしていました。 ヨーロッパへの不干渉を第一次大戦以降貫いていましたが、結局不景気には勝てず、武器輸出を解禁し、それでも失業率が高止まりをしていたので、戦争を起こしたという気が満々でした。 ハル・ノートと呼ばれるアメリカ側からの日本への要求が開戦前に出されますが、これは日露戦争以降獲得した利権をすべて手放せというような厳しい内容でしたので、思惑通り戦争になりました。 結果1945年のアメリカの失業率は1.2%にまで下がり、ニューディールの失策も帳消しにするものとなりました。 ですので、中国とは何をしようが、アメリカは開戦の口実をいくらでも用意するかと思います。

hiro706
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「近衞文麿」を調べてみました。 太平洋戦争以降は和平を模索していみたいですが、戦前は「大東亜共栄圏」という、ドイツの欧州における「第三帝国」みたいな構想を作るという、ヒトラーみたいになりたかったのか、という印象です。 ドイツの快進撃をみて、「バスに乗り遅れるな」との世論があったのも後押ししたのでしょうね。 各国の思惑はというと、(多少間違っているかも知れませんが) アメリカ・・・早く参戦したい。(参戦のきっかけが欲しい) イギリス・・・アメリカに早く参戦してほしい。(ドイツの上陸間近) 中国・・・・・アメリカと日本を戦わせたい。 ドイツ・・・日本を参戦させ、ソ連を挟み撃ちにしたい。 ソ連・・・ 日本とドイツの挟み撃ちは嫌だから、日米を戦わせたい。 >中国とは何をしようが、アメリカは開戦の口実をいくらでも用意するかと思います。 この当時、日本は孤立していたので、日本だけで何かをしようとしてもうまくはいかなかったでしょうね。 ただ、日米交渉において、日中戦争停戦、南部仏印から北への撤兵プラスαをアメリカとの交渉のみでなく、中国を含めたイギリス、オランダなどと徹底した交渉すれば、数パーセントでも戦争回避は残されたと思いますが。 蒋介石が必至になって、チャーチルやルーズベルトを口説き日米暫定協定を廃棄させたように。 アメリカも日本への挑発が失敗すれば、「ドイツUボートがアメリカ艦船」を撃沈したと言いがかりをつけドイツに宣戦布告するでしょうね。

hiro706
質問者

補足

皆さまありがとうございました。 勉強になりました。 日本は60年の間戦争をしないで平和国家として世界に貢献していると思います。 集団的自衛権が未来の日本を戦争に引きずり込むことだけは避けなければなりません。 そのためには、外交努力が大変重要なことは言うまでもありません。 当時の世界情勢、特に不況下における資源・植民地を持たない貧しい国日本は外に出る以外の道は無かったのだろうと思いますが、結局は破滅の道に一歩踏み出してしまった。 今回の質問もそういった意味から、近代日本が歩んできた外交、特に日中戦争~日米開戦前までの外交がどういったものか、また、失敗があったとしたならば、戦後の日本にどう生かされてきたのかをこれを契機に勉強 したいと思います。

回答No.6

日本側の理由の一部はゾルゲ事件で明るみとなったスパイの暗躍がすごかったりする。 近衛首相の側近の半数が、ソ連のスパイだったから。 その赤軍スパイたちの対中強硬論を朝日新聞などのマスコミを利用し主張し続けていたから。 ってのがかなり大きいと思います。

hiro706
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 ロシアの裏工作によって翻弄された。レーニン(だったかな)の思うつぼになったわけですね。 第一次世界大戦末期、日本軍によるロシア革命への裏工作と同じですね。

回答No.5

質問文からすると、中国との講和をなぜ進めなかったか、が、ご質問のようです。 盧溝橋以来、何度か、和平工作が行われていましたが、どれも失敗しています。 原因は、一方からの破約が続いたり、双方とも、譲歩や妥協がなかったり、提示された和平条件への回答を出さないうちに事態が進んでしまったり、それらが失敗の原因でした。 さらに、講和が進められなかった、出来なかった、その最大原因は、中国を対日抗戦に駆り立てるための、アメリカによる裏からの豊富な中国援助=(物資・軍事等の)援蒋行為が盛んになって、中国が折れなくなったこと、それです。 そして、日本は困り果てたあげく、そのアメリカからの中国援助を断つために(=中国との戦争を終わらせるために)、日米交渉に入ったのでした。つまり日米交渉に入ったのは、中国との戦争を終わらせるため、だったのです。 貴方の質問、中国との講和をなぜ進めなかったか、への回答は、つまり、講和提案・交渉は何回か行っていたが、上述の諸原因で、最終段階までは進められなかった、これが回答、ということになります。

hiro706
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 つまり外交が下手だったということと解釈しました。 時の運というか、日清戦争勝利、日露戦争勝利(薄氷で勝ちましたが)、第一次大戦勝利と当時まだ二等国だった日本がいきなり世界に躍り出ましたね。 それまで本格的な外交はしていなかったように思います。 日清、日露戦争は戦争に負ければ「日本は終わり」、で運よく勝ち抜いてきましたが、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、アメリカ等列強との駆け引きには弱かった、というか慣れていなかったというところでしょうか。明治維新から70年足らずで列強と並ぶ近代化をしたとはいえ、外交も国力もまだ二等だったというふうに理解しました。 したがって、世界列強が複雑にからむ東アジアや欧米との政策を一歩誤った(先を読めなかった)。

回答No.4

シニア男性です。 第二次世界大戦は欧州の戦乱とリンクしています。広く捉えることが望ましいでしょう。 1932年、満州国建国。日本は国際的に孤立。 1937年、日中戦争が始まりました。 この頃の欧州は、38年ドイツがオーストリアを併合し、ヒトラーの領土拡張策が 明確化しました。 1939年、ポーランド半分を占領します(半分がソ連占領)。そして英仏と戦争が 開始されます。 40年、西部に移動したドイツ軍はダンケルクで英仏軍を駆逐し西部欧州を押さえます。 後、英国は空襲され風雲の灯になります。この状態で、米国は参戦を急ぎます。 そのためには世論を喚起せねばなりません。 なおドイツは米国の参戦を予想し、極力刺激しないよう配慮します(第一次世界大戦の 反省)。 ここで米国が参戦する口実の一つとして、ドイツと軍事同盟を結ぶ日本に注目します。 もともと日中戦争に手を焼いていた蒋介石は、日米戦を望んでいました。 米国は日本に圧力を加えます。  40年 9月 屑鉄禁輸  41年 8月 石油禁輸 ここに至り、独ソ戦も開始されたこともあり、南進策(石油確保)を取ります。  41年10月 ハルノート提示(中国からの撤退) ここで日本は米国との戦争を決意します。 ここで選択です。 1945年の敗戦が分かっていれば満州放棄、中国徹退も選択したでしょう。 そうではない。そして満州進出は日清、日露戦争の延長でもあったわけで  これを飲むのは「戦わずしてはできない」ことだったものです。  そしてこのことこそが、米国、中国の思惑であったのです。  さらには背後を憂えたソ蓮さえ、ワシントンでハルノート作成に係るスパイ戦に  係わっていたのです。 日本は、何と、仮想敵国は「ロシア(ソ連)」、「米国」でした(中国は入っいない)。 今では信じられない国、強兵が全ての国だったのです。 なお、米国との戦争は実は望んでいなかったのでした。

hiro706
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 日本はなぜ対中戦争を切り上げようとしなかったか、が解らないのです。 中国と争えばイギリスもだまってはいないことは解っているはずです。 4年も争い、にっちもさっちもいかない状態で、英・米に宣戦布告です。 ドイツの勢いを見て、いずれロシアを破り東アジアまで攻めて中国を挟み撃ちにできると考えたのか。 中国の資源を狙っていたのか。これが思わしくないから仏印に進駐したのか。 一時は国際連盟の常任理事国として世界の5強に入ったというおごりがあったのか。 それによって、列強は多少の侵略は大目に見てくれるというあまい考えでいたのか。 国際連盟脱退、日英同盟破棄があり、日本は日々刻々と変わる世界情勢にうとくなっていたのか。

  • roksy
  • ベストアンサー率39% (9/23)
回答No.3

歴史の解釈は難しく、現状では答はないのかもしれません という前提で。 >この南部仏印進駐が太平洋戦争への回帰不能点と言われいます 回帰不能点はいくつか論じられていますが、 南部仏印進駐・・そう思われるのはどういったところからでしょう ドイツとの軍事同盟のから、という解釈もありこれも説得力があります。。 #2の方の解釈も日本人は主張する人も多く説得力あるものだと思います。 結論から私が思うに、ヨーロッパは英国ぐらいがかろうじて残り、地図がどんどんドイツの色に変わっていくなかで、米国はどうしてもそれを食い止めるべく参戦したかった。 民主主義国だった米国は、日本を追い詰めて突っつかせる方法をとったのだと考えます。そこだけでなく、新興国日本に対する白人国の感情も様々入り交じっているでしょう。 これもよく言われる解釈のひとつです。 新たにハル・ノートに新資料が出てきて論議をよんでいますが、ハル・ノートを飲んでいたら、戦争は回避できたのだろか いずれにしろ、今に続く歴史は1つ・・答えはないでしょう

hiro706
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 当時の日本国政府・軍部の当事者が実際なにを恐れ、どう考えていたのかは解るよしもありませんが、日本をどこに向かわせるのかを、必死に考えていたのは事実だと思いたいです。 資源の乏しいちっぽけな日本が、世界と対等に渡り合える方策を必死になって模索していたのは歴史を少しかじった私でも解ります。 ただ、roksyさんが言われるとおり、当時は白人至上主義であり、黄禍論、排日移民法に続き、なんといっても帝国主義全盛でしたから、武力による侵略戦争しかない、と日本が考えても当時としては・・・ ー 南部仏印進駐・・そう思われるのはどういったところからでしょう - 日本は長年のロシアの脅威から、朝鮮半島と満州を支配下に置き、一応ロシアの脅威から一定の防波堤はできたと思います。しかもこれは列強の承認も得られていることから、日本としては国際法上問題ないとしています。(日本側見解) 同時に、日本もアメリカによるフィリピン支配権を認めています。  従いまして、なぜこれ以上中国と戦争を始めたのか、元々権益のあるイギリスが警戒するのは当たり前、後から中国を狙ってきたアメリカが妨害する・・・日本も解っていたと思います。 更に仏印を南下すれば、自分の支配下であるフィリピンに近ずきロシアを破った日本はアメリカにとって脅威であったはずです。 日本にとって、ロシアが満州を占領し、朝鮮半島に迫ってくるように。 現在、集団的自衛権でにわかにきな臭い匂いがしますが、当時のような弱肉強食の世界と違い外交の力が国を左右すると思っています。 当時であっても外交の力があれば・・・っと思ってしまいます。 蛇足ですが、少し前の第一次世界大戦末期の「シベリア出兵」での大損害から学んでいない感じがします。 シベリアと同じように泥沼に足を突っ込み、国家総動員法まで作り、政府も国民も後先考えずドイツと同様それいけドンドンだったのでしょうか。 アメリカは失敗を徹底的に分析し次に生かしますが、当時の日本にはその文化が無いように思われます。 近代日本においていくつかの失敗を、現代日本は生かしているのでしょうか。

noname#224207
noname#224207
回答No.2

当時の中国は清王朝が瓦解していて、群雄割拠の状態になっていました。 群雄と言いましたが玉石混交で、馬賊とまで呼ばれるような武装集団まで横行していました。 1912年に孫文を中心とする中華民国と称する政府が立ち上がりましたが、広い国土を統治するだけの力を持っていませんでした。 それに加えて新政府の内部で権力闘争が繰り広げられ、国家として外交に当たるような状態ではありませんでした。 日本政府も誰と条約を締結すれば、国家間の条約としての効力が期待できるか皆目見当がつきませんでした。 一方で満州に展開していた関東軍が政府の意向を無視して戦闘を拡大し続けました。 本来は国軍の一部にすぎないのにも関わらず、軍としての制御がきかない状態になっていました。 明治憲法が軍を政府とは切り離して天皇直轄の組織と位置付けていたために、政府が軍を制御できませんでした。 要するに、日中ともに、アクセルのみでブレーキのない状態で突っ走っていた時代です。 日中双方の武装組織を引き分けるだけの力を持った組織がどこにもありませんでした。 現在のように、国家の全ての組織が政府に所属している時代とは違います。 中国から軍を引き上げることができる組織も人も存在し得なかった時代と考えて下さい。 アメリカやイギリスが日本を敵視していたのは、仏印がどうのこうのというレベルの話ではありません。 現在中国が南シナ海や東シナ海で盛んに活動していますが、これに対してアメリカや日本をはじめとする自由主義国が主張している「国際秩序に従えと」いう主張に対して、中国は、中国を中心とした新秩序を主張していることを思い出してください。 当時、欧米が植民地経営のために樹立した東アジアの秩序に対して日本が反旗を翻した形になった点を注意してください。 現在の中国はどこかの国がいつか来た道を歩み始めています。 当時の欧米の理屈からすれば中国大陸の権益は欧米諸国が分け合うべきものであって、日本のような新興国がしゃしゃりでてくるべきものではない、という考え方です。 結果として、日本がやった朝鮮併合、台湾併合、満州国建国ということは到底容認できるものではありませんでした。 例え仏印から軍を引き上げて一旦戦闘は休止されても、朝鮮、台湾、満州の権益を欧米に献上しない限り睨み合いは続いたでしょう。 経済封鎖も全面解除されることはなかったでしょう。 日本の経済繁栄などどこの国も望んではいなかった時代です。 せいぜい消費地としての位置づけしかしていなかった時代です。 植民地主義時代の末期だったことを忘れないでください。 欧米が構築した植民地経営のための秩序に対して大東亜共栄圏などというスローガンを掲げ続ける限り、いずれ新たな戦闘が始まっていたでしょう。 日本が撤退した後で東南アジア諸国が宗主国との間でどのような闘争が繰り広げられたのかを思い出してください。 沢山の血が流れています。 たまたま、第二次世界大戦で宗主国が国力を消耗していたために、結果として短期間で済んだだけの話です。 古今東西一度手に入れ権益をお願いベースでハイどうぞなどと手放した国はどこにもありません。 今後も同じでしょう。

hiro706
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 19世紀後半、欧米列強の帝国主義により東アジアも開国を迫られていました。 アヘン戦争により「清」が敗れ、半植民地化されたことは日本にとって相当ショックでした。 日本は開国して明治維新、富国強兵に邁進します。 日清戦争に勝ちますが、日露戦争では体力の限界からアメリカに仲裁を依頼し、賠償金なしの講和を締結。 朝鮮半島と満州の支配権を得ました。 第一次世界大戦では戦勝国として後の国際連盟の常任理事国となり、ある意味念願の一等国になりました。 日本は、東南アジア諸国のように植民地化されないよう必死だったと思います。 ichikawaseijiさんの仰るとおり列強から見た日本は邪魔の存在だったでしょうね。 ///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 当時の欧米の理屈からすれば中国大陸の権益は欧米諸国が分け合うべきものであって、日本のような新興国がしゃしゃりでてくるべきものではない、という考え方です。 結果として、日本がやった朝鮮併合、台湾併合、満州国建国ということは到底容認できるものではありませんでした ////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 日本は、江戸時代からロシアの脅威に怯えてきました。 何時朝鮮を経由して日本に攻めてくるのか。 朝鮮半島、満州をおさえたことでロシアの脅威に一定の歯止めができたと考えます。 日中戦争は仕掛けられたとの説もありますが、たった30年前の日露戦争でも講和の道を進めたのに、なぜこの泥沼化した日中戦争を終わらせる努力をしなかったのか・・・。破滅の道を進むときは仰るとおりブレーキが壊れていたということですか。 軍部が外交を抑えたということ? 或いは当時政府が好戦的だった? 日本の国力を課題評価していた? 太平洋戦争に行ってしまう前に、何度か戦争回避のチャンスはあったと思いますが、 やはり日中戦争の終り方を考えないで突っ込んでいったのが(関東軍暴走)原因でしょうか。

  • fgjkjn
  • ベストアンサー率0% (0/8)
回答No.1

講和の機会は南京陥落の時にありました。しかし時の首相、近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と講和を打ち切ってしまいます。この時に近衛のブレーンをしていたのが、朝日新聞の尾崎秀実という人間です。尾崎秀実はソ連のスパイ、ゾルゲの手先です。ゾルゲの思惑は兎に角日本をシナ事変に泥沼にさせておいてソ連への北進はさせずに南進させる計画がありました。近衛は後に「共産主義者に騙された」と述べています。最終的に近衛は自殺、ゾルゲと尾崎は絞首刑になりました。

hiro706
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「国民政府を対手とせず」→ ここが一番大きなポイントになりましたね。 近衛は何を考えていたのでしょう。この後蒋介石は確か重慶に政府を移して更にゲリラ戦を仕掛けるのですよね。  米・英との関係は悪くなる一方で、米との戦争になれば日本は挟み撃ちになるのに。 ここでもやはりロシアの裏工作ですか。ロシアにとっては日・中が共倒れすれば中国の社会主義化(共産)がやり易くなるわけで。 ここは近代歴史の中で大きな外交の失敗のひとつでしょうね。

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