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ボランティアに違和感を感じます。
ボランティアをしてきたという方々に違和感を覚えてしまいます。 被災地のために何かできないか、困っている人に何かできないか。 そう思うのは素晴らしいことだと思うのですが… どうも上から目線の方が多いように感じてしまうのです。 そして自分のためにボランティアをしているのでは?と感じることもあります。 ボランティアは誰にも気づかれなくても感謝されなくてもするものだと思っています。 ですから、誰かのために普段から何かされてる人はすごいなと思うのです。 なのにSNSに写真や報告をアップしている人を見るとどうも違和感を感じています。 広めたいというのもあるかもしれません。 でもどうも自分に酔っていないかと感じてしまいます。 誰かのためにと思うなら、私は真っ先に家族や友人のことを思います。 自分の身近な人を大切にしてもしきれないくらい、大切にするって難しいことだと思うのです。 周りの人を大切にできていたら、いろんなことに悩んだり苦しむ人も減るのではと思うのです。 なのになぜ遠くの派手なボランティアを?と思います。 ちょっと偏った考えで申し訳ないですが、ボランティアってなんでしょうか?私にはよくわかりません。
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- toshipee
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まずは、自分の質問自体が卑下していること、他人を不快にさせていることに気づくべきだろうな。
- kuku82
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はじめまして 色んな考え方があると思いますので、それらをすべて含んでの活動と理解するのがいいとおもいますよ イタリアなどでは、社会奉仕活動が犯罪者の更生プログラムに組み込んであることがあります。 人のために何かできる人がすごい?こいつらは犯罪者です。 裁判所に命じられたとはいえ、同じ行動です。 つまり、奉仕行動すらこのような多様性を持っているのですから、 これを言葉で「ボランティア」と表現したら、色んな使われ方があって当然です。 折角 高潔なボランティアもあるのに、低俗なボランティアがそのように便乗するのはおかしい。 全くその通りです。 が、どうしようもないことと思います。
- tomban
- ベストアンサー率26% (2616/9771)
まず、ボランティアというのは「奉仕活動」です。 「奉仕活動」というのは、確かに金銭の授受はないわけですが、金銭の代わりに「経験」を受け取るという意味合いで良いと思います。 全くの無報酬ではない、ということなんですね。 経験を得るために、自分のために、ボランティアというものはするものなのですよ。 勉強の場、経験の場なんです。 これを考え違いしてしまうと「ボランティア「なんだから」」とか「ボランティアの「くせに」」という言葉の応酬になります。 あくまでも自己探求、自らの経験と勉強のために、ボランティアというものはあります。 災害ボラは少し意味合いが異なるし、何よりも「危急性」が高いものですが、経験を作っていくことという意味では、他のボランティアと同じです。 災害援助の中で、何かを学ぶということです。 そしてそれが、自分の人生の中で反映されていくことを期待するということなんですね。
- toshipee
- ベストアンサー率10% (725/7148)
あと、施設のヒトに聞いてごらん。迷惑と返すヒトは居ないと思うよ。施設のボランティア募集冊子があるくらいだし、同じ面々、介護されるヒトで、軟禁されたように毎日を過ごすより、違う刺激があることがむしろ、介護士にも進選であることは少し考えたらわかると思うけどね。後片付けなんていくらでもできるし。くだらん教師もいたもんだ。不幸なヒトは教師になるべきではないよな。それに教育されて洗脳されるのも怖いもんだね。
- toshipee
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幸せじゃないヒトは、そういう考えになるんだろうね。以前の俺ならそう思うと思う。だけどね、ボランティアの本質は、「助けてもらう」じゃなくて、「知っててもらえる」なのね。東日本大震災の後、北海道に出張に行く機会があったんだが、口々に言われるのは「(西日本のヒトは)知ってはります?」つまり、関心があるかどうかなんだよな。対岸の火災的に「かわいそうね」ともっともらしいことを言って、テレビの前で「あれ(ボランティア)、どうなんだろうね」と自分は完全に安全なところに置いて、是非を言う。なんだか非国民にさえ思える所作に感じる。気持ちの質が低いよね。 日本海でのオイルタンカーナホトカ号座礁で海が油にまみれたとき、阪神大震災の教訓を活かして、ボランティアが殺到した。地元民がまず慌てたのは、受け入れ体制と主幹がないこと。これを迷惑ととってしまってはことが進まない。事実、ボランティアと地元民は、衝突を繰り返しながら短期間で海を蘇らせた。このことはボランティア側にも教訓になっており、ボランティアがいつも指令体制ができるように、その時々に集まっては中枢部が機能し始めている。 テレビの前でグダグタ言うより、動いてみれば少しのことでもできる。北海道のヒトは、「我々は阪神を経験しているので、あの揺れでとんでもないことが怒っているのはすぐにわかりましたよ」と言うと、ホッとした表情をされていた。で復興のために、東日本の活性化として、来てもらうことをお願いしますと。行くだけでもボランティア。つくづくそう思ったね。 「自分にもボランティアしてくれよ」こう思うヤツはいつまでもそう思ってる。人生ってそういうものだよ。
- gokuu999
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こんにちは。女です。 私も、ボランティアには少々違和感を感じることがありますよ。 >そして自分のためにボランティアをしているのでは?と感じることもあります。 まさに、その通りだと思います。 小中学校の頃には、クラスごとに「ボランティア活動」をさせられました。 クラスで何をするか話し合うんですけれど・・・ 「老人ホーム訪問」とか「幼稚園のお手伝い(遊び相手)」など案を出しました。 でも、学校の先生が、 「よく考えろ」って言ったんですよ。 老人ホームや幼稚園では、君たちが訪問する時間をスケジュールから割き、 聞きたくもないかもしれない歌を聴かされたり、 経験の少ない君たちがご老人や幼児の相手をしていれば、職員の方の心配や手間も増える。 むしろ、先方にとってはボランティアどころか、こちらが頭を下げて学習や経験をさせてもらう立場だ。 人の邪魔をしないで自分たちが社会のために出来ることを考えろ。 というような内容でした。 とても説得力のあるお話でした。 結果、私たちが選んだのは地元駅の清掃と付近のごみ拾い。 別に楽しくはありませんが、一番気楽で清清しい気持ちになりました。 大学生の頃ですが、施設側からの要請で慰問のようなことをさせて頂いたことがあります。 自分たちのパフォーマンスに涙を流して喜んでいただき、大変励みになりました。 そこにいる人たちのため・・・というよりも、自分のため・・・のボランティアでしたね。 有難い経験でした。 誰かのため・・・ではないと思います。 自分が何かをしてみたい、それがもし人の役に立ったら更に嬉しいってことかと。 震災などのボランティアに関しては、「使命感」だと思います。 人間は、時には使命感に突き動かされることもあるから。 自分のためとか、相手のためとかどうでもよく、 「何か出来ることはないか」といても立ってもいられなくなり、現地に赴く人もいるんですね。 それは誰かの役に立ちたい、助けたい、という気持ちもさながら、 何もしないでじっとしているより、何か動いた方が自分の気持ちが落ち着くという考え方もあるでしょう。 義援金を送る人、寄付する人も、みんなおんなじ気持ちだと思う。 人が怪我して倒れていたとして、 周りに人が集まってあれこれ助けていて、自分が行かなくても大丈夫だろうと思っても、 つい心配で近寄ってしまう、何か出来ることはないかと、その場を立ち去れなくなる、そんな気持ちと一緒だと思います。 また、ボランティアって人助けや社会貢献だけではありません。 たとえば、大きなイベントではボランティアスタッフを募集することがあります。 その世界に関わってみたい、自分の力を試してみたい、経験を積みたいという人が集まります。 まさに、自分のためですね。 多少は「自分人助けしている、役に立っている」と自分に酔い、周囲にアピりたくもなるかもしれません。 誰だって、認めてもらいたいって気持ちがあるから。 ただ、本質を理解していないで上から目線で「与えてやっている」というような人は、私も違和感を感じるし嫌い。 それでも、 その誰かが行動することで、別の誰かや社会が救われたり幸せになったりするのなら、 良いことなんじゃないかな。
お礼
回答ありがとうございます。 とても共感させられました。 私も嫌だなと感じるのはそういう方たちです。でも誰かの役に立っていたらそれでいいのかなと葛藤していました。 嫌いですが、悪くはないのでしょう。 きっと自分のため、誰かのため、無意識に体が動く。どちらにせよ素晴らしいことです。 人間も捨てたもんじゃないですね! ←ちょっと上から目線な発言でしたね(笑) 自分も誰かのために自分のために行動していたいです。
ボランティアって何だろうと考えるのはとても大切だと思います。 色々な考え方があるでしょうから、興味深く拝見しました。 おっしゃるように、上から目線の方、自分に酔っている方が いらっしゃるのも事実ではないでしょうか。 ただまず、世界中でボランティアをされているすべての方々が あなたと同じようにご家族やご友人をお持ちとは限りません。 災害、飢餓、戦争でそのお相手を亡くされた方もおられます。 全ての方々が良好な家族関係ばかりとも限りません。 派手なボランティアに見えるのは、日本のメディアが 派手に取り上げている出来事に関するボランティアだけを ご覧になっているからではありませんか? あなたのおっしゃる大切にするとはどういう事でしょうか? 遠くと言っても、それはあくまで物理的な距離ですよね? 世界が共存している以上、あなたにとっては遠くの出来事 だとしても、それは無関係という事ではありません。 あなたが抱いておられる、ご家族やご友人への想いの範囲は 人により違うと思います。大切にしたいと思う対象が 自分だけなのか、身内だけなのか、恋人や友人だけなのか、 住んでいる地区だけなのか、住んでいる国だけなのか、 近隣国だけなのか、世界の国々なのか。 ボランティア”する側、される側”という区別は私にはありません。 何らかの原因でたまたま困難な状況にいらっしゃるどなたかが、 その方が本来持っていらっしゃる力を取り戻せればいい。 そのために、出来る時に出来る人が出来る範囲で 出来る事をすればいい、ただそれだけです。 私は、何か行動することで、自分の知らなかったことを知り 新たな気付きや、持っていなかった力を与えてもらい 今度はまた違うどなたかそれをに渡すことが出来たならば、 大切にしたい範囲がまた広がり、自分の出来る事も増えていく。 その連鎖が結果的に、人を大切にするという事であり あなたのおっしゃる、色々なことに悩んだり苦しむ人も 減るという事に繋がると思っています。
お礼
回答ありがとうございます。 なんだかとてもすっきりしました! 私の身近で大切にしたい思いは他の人だといろいろな方に向けられている、なんだかはっとさせられました。 ボランティアしてる人間もしていない人間も良し悪しなんてないのでしょうかね。 自分の思いも誰かに繋げていきたいです。
- mitomito
- ベストアンサー率40% (165/406)
私の経験を書かせていただきます。 私の学生時代に、複数の大学の学生が参加する、大学生だけがイベントスタッフとなり、資金も自腹で賄った「大学生のためのシンポジウム」を開きました。テーマは、「国際援助・国際ボランティア」でした。時期は、阪神大震災から1年半ほど経ていたはずなので、96年の秋ごろだったと思います。(古い話で恐縮です。) 初めのうちは、「国際援助・国際ボランティア」の話でしたが、途中からディスカッションのテーマは、「自分の祖父・祖母の介護もろくにしていないのに、海外で何かをするのって矛盾しないか?」とか、「阪神大震災だって、いろんなボランティアがあったはずなのに、それに参加していない人が、国際ボランティアって、矛盾していないか」等々という話になりました。また、「ボランティアって偽善じゃないのか?」という意見も出ました。 最終的に「国際援助・国際ボランティアとして、何ができるのか?」では無くて、「そもそも、ボランティアとは何か?」ということに、ディスカッションが集中して、イベントが終わった記憶があります。 あくまで私見ですが、多くのボランティアの方々は「近くの人のために何かができてから、遠くでボランティアするのが、正論・本来あるべき姿」と知っておられるのではないかと思います。 >どうも自分に酔っていないかと感じてしまいます。 そういう人もいると思いますが、全体としては、少数派だと思います。 >ボランティアってなんでしょうか? 誰かの役に立ちたいという人間の本能のような願望だと思います。 少しでも、お役に立てば幸いです。 (私は人間が小さいなので、質問者さんから、この回答がプチボランティアと思っていただけると幸い・うれしいです。)
お礼
回答ありがとうございます。 プチボランティア助かります!(笑) 皆さん葛藤を持ちながらボランティアをされているのでしょうか。 ボランティアをされてる方が皆嫌な人だとは思っていません。むしろ動けてすごいなと思うばかりです。 ただ、ボランティアと称し、自分の株上げをする人はやだなぁと思います。 そんな人たちにもやもやしてました。 でも気にしてもしょうがないですね。人それぞれですよね。
- rokometto
- ベストアンサー率14% (853/5988)
それは日本人の価値観ですね。 世界で言えばボランティアは自分の可能性を広げるため新しい世界に飛び込むこと、です。 日本での無償善意での労働をいうのはかなり特異な考え方です。 それはいいところもあれば悪いところもあります。 例えば世界では里親が非常に盛んです。 日本でも子育ては自分育て、という言葉がありますが先進各国では育児は自分の人生を豊かにしてくれる楽しいものだという考えが通常です。 しかし日本では里親が全く増えず孤独に育つ訳ありの子どもが急増し続けています。 無償の労働として考えれば重すぎるから、という価値観が根底にあると思います。 まあ育児に冷酷な社会や政治になってるのもありますけどね。 自分の可能性や世界、器を広げるという意味ではおっしゃるような身近な場所で身近な相手、というのはあまり実りがないかもしれませんね。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど!価値観って全然違いますね! 自分の可能性を広げるためっていいなと思います。 なんだか恩着せがましく誰かのためにと言う人が苦手だったのです。 ボランティアに限らずいろいろやってみることは可能性を広げることにつながりそうです。
- ucok
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人それぞれではありますが、まず、ボランティアというものは、自分のためにやるものだという考え方が世の中では主流だと私は思います。少なくとも「自分に返ってくるもの」だという考え方をする人は多いでしょう。 次に、他者だけのためにボランティアをすることは、実際には難しいです。肉体であれ、頭脳であれ、自分の労力を提供していながら自分を無にするのは、凡人にはなかなかできません。したがって、「私は他者のことしか考えていません」という人がいたら、十中八九、その人は偽善者か、自分を見えていない人なのだと私は思っています。 さらに言うと、私は(いろいろあって必然に駆られて)ボランティア活動を何年かやっていましたし、ボランティア団体を立ち上げたこともありますが(ちなみに、いずれもいわゆる被災地ボランティアではありませんでした)、ボランティアをやっている人の多くは自分に酔っているし、我が強いです。 とはいえ、ボランティアはお金儲けにはなりませんし、意外と感謝もされませんので、ある程度は、自分に酔っていたり、我が強くないと続けにくいのは確かです(あまりそれが強いと、今度は周りが去っていくのですが)。 さて、前置きが長くなりました。ボランティアとは何なのか。繰り返しになりますが、人それぞれです。しかし、時間的および精神的および物理的な余裕のある人が、ちょっと働くことによって誰かの助けになるのであれば、それは非常に結構なことなのだと私は思います。 その働く過程で、その人は、かえってありがた迷惑な存在になるかもしれないし、ウザい存在になるかもしれませんが、そもそもボランティアと名がつこうがつくまいが、好意というものは必ず通じたり実ったりするものでもありません。好いてくれる人がいる分、嫌う人もいます。 また、無償であれ有償であれ、どうせなら楽しく働いたほうがいいと思いますし、特に被災地においては、元気な人がいると励みになるでしょう。それを見て、「楽しそうだな」と思って仲間に加わる人がいればいいし、そこで意外な発見もあるものです。 ただし、ボランティアの強要は、政治思想や宗教の強要と同じくらい問題だと思います。 で、ボランティアって何なんでしょうね。ま、一応、「志願する」「自発的におこなう」という意味の英単語が語源なんですが。ちなみに私は、我の強い人たちをまとめることに時間と労力を使うよりは、勝手にQ&Aサイトでアドバイスや意見や体験談を書き込む方が、私らしく社会貢献できると思って団体をやめました。被災地については、ほそぼそと「復興市場」というサイトに参加したり、被災地の友人と情報交換したりしています。昨日辛そうだった人が楽しそうになるのを見ると、自分にも励みになりますので。被災地で豪遊したこともありますよ。 あ、余談です。SNSでは、利便性と危険性が紙一重ですよね。自分がピンと来ない投稿には無反応を通すのがいいのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 人それぞれですよね、本当に。 自分のためでも人のためでもある。両方を兼ね備えてるものなんだなぁとしみじみ感じました。 自分のため、ということを認めないのはあんまり好きじゃないなぁと思うので、これがもやもやしてる原因かもしれないですね。 ボランティアらしき活動に参加したことはないですが、自分のやりたいことやできることはやっていきたいですね。
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お礼
回答ありがとうございます。 まとめてのお礼で失礼致します。 あなたのおっしゃるボランティアの力は素晴らしいと思います。 ただあなたの回答を見て悲しいと思いました。 気持ちの質が低い、不幸。それはあなたの価値観で決めつけていますよね。 教師もいろいろな方がいらっしゃいますよ。 完璧な方なんていないでしょう。 比較して卑下するのは、自分自身を下げるだけですよ。 それこそ批判する前に行動すべきでしょう。