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集団的自衛権をめぐる第三の論点
集団的自衛権について、まったく議論されていない、とても重要な論点があると思ったので、そのことについて、3週間前に質問したところ、いろいろ有益な回答もいただいたのですが、あともう少しで理解できるというところまで来て、時間がたったせいか、再回答をいただけなくなってしまい、どうも小骨がのどに引っかかったような状態で困っています。 それでちょっとカテゴリーも変えてこの質問を再度立てました。 私が過去に立てた質問は、「集団的自衛権の議論について」という題で7月2日に投稿したものです(「大きな解釈の幅を許容する法文」という言葉を入れて検索すると、トップで出てきます)。とくに 回答#9のtil-rooさんと回答#15のwarmupall さんに、とてもためになるポイントを教えていただいたのですが、その補足につけた質問への回答がどうしても知りたいです。 できたらどなたか、このお二人の回答を読んでいただいて、その「補足」につけた質問をひきついで答えていただけないでしょうか? 簡単に言いますと、今回の憲法解釈の「変更」は、「修正」ではない以上、同じ条文についてまったく相反する解釈が同時に成立しうると宣言したものと判断できるので、これはいわば行政による憲法矛盾宣言にほかならない。それは、法治国家の大原則たる、法の支配の考え方の前提を揺るがしかねず、その意味で行政の越権行為の可能性も疑われるので、集団的自衛権の行使そのものの是非と同等程度には、重大な問題とみなされるべきではないのか?なのに、まったく議論されていないのはおかしいのではないか?ということです。 どなたか、専門家の方、よろしくお願いします!
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- ww_5
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No1 を書きましたが、実はうっかり滑り書きした部分がありまして、その後様子を見ているとこの質問は閲覧数が結構高いようなので、正確を期して No1 の回答の中で若干説明不足で誤りの部分を修正しておきます。 憲法第9条第1項に記述されている 「国際紛争」 についてです。 【誤】 「国際紛争」とは日本国以外の他国間どうしの国際紛争を意味します。 【正】 「国際紛争」とは日本国にとっての自衛戦を除く、日本を含む各国間どうしの国際紛争を意味します。 要するに、日本の視点から見て、日本にとっての自衛戦は国際紛争に含まれません。自衛戦は自衛権に基づき自動的に反撃可能となりますので、憲法上の国際紛争には日本にとっては該当しません。 ちなみに日本の自衛戦も外部の各国から見れば国際紛争となります。 このように第9条第1項により、自衛戦を除く全ての国際紛争を解決するための国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使が永久に放棄されてます。 集団的自衛権の行使とはまさに、他国どうしの国際紛争への武力介入ですから、憲法上、禁止されてることになります。 集団的自衛権の行使は9条内で具体的文言により明確に禁止されており、これを解釈改憲で何とかできるような話ではありません。 この点は安倍晋三の発した閣議決定文内にも書かれており、内閣も重々承知です。安倍晋三はその禁止条項を逃れるために、もとより合憲である個別的自衛権の行使にヒモ付けて集団的自衛権状のナニモノカを行使できるようにした、とも言えます。 解釈改憲はされてないと判断すべきです。これは集団的自衛権の行使容認ではなく、個別的自衛権の行使可能な範囲の拡張であるとして、考えるべきですね。
- phj
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以前の質問も拝見させていただきました。 この問題は難しいですが、質問者様が回答を求めている「法治のメカニズム」は、たぶん実際にはかなりアバウトであり、歴史的経緯とか前例の積み重ねなどでの解釈が許される世界なのだと思います。だから「すっきりした答え」を出すのは非常に難しいのではないでしょうか。 たとえば「憲法会社のアバウトさ」についていえば、明治憲法において「天皇の大権における輔弼問題」がよく知られています。 簡単に言えば「輔弼」が何を表しているのか、によって天皇の権力が限定されてしまうため、軍部と学者が大論争したものです。結果として憲法学としては美濃部達吉らの「天皇機関説」が定説となっていて、天皇の権限は限定的である、とされたのですが、軍部は「総帥権」に伴う帷幄上奏権で「輔弼が可能」という解釈をひねり出し、文民統制をないがしろにする形を作って暴走したわけです。 これなどは、定説が定まっているのに「解釈」が一人歩きした事例であるといえます。 また、行政行為における解釈のあり方の範囲、という点では7/18に、最高裁が「日本国籍者以外は生活保護の対象外」という判決を出しました。ただし「各行政機関によって保護を与えているものは裁量権の範囲内である」とも言っています。 これなども「外国人に生活保護を出すのは違憲だけど、裁量で出してもいいよ」まさに二重解釈が出来る内容になっています。 問題なのは、なぜこういうことが起きるか、ということと「裁量」とか「解釈」がどのような問題を引き起こすか、ということにつきます。 まず、裁量・解釈というがどれほど重要な事態を招くか、という点から見れば戦前の軍部の暴走に見られるように「重大な結果を引き起こす可能性がある」といえます。 その点において、質問者様のいう「集団的自衛権の行使そのものの是非と同等程度には、重大な問題とみなされるべきではないのか?なのに、まったく議論されていないのはおかしいのではないか?」に、私は完全に同意します。 特にこの憲法解釈変更には文民統制に関する考え方がまったく入っておらず、今後の解釈の変更や追加によっては、軍部の暴走の再来、すらありえると思っているからです。 次に「ではなぜ、解釈とか裁量で行政執行が可能であるのか」ということなのですが、この答えは「日本国の歴史において、憲法は不磨の大典であり、憲法改正を行った歴史がないから」ということにつきるといえます。 結局のところ、明治憲法と日本国憲法を合わせた1889年から今年である2014年まで改正されたのは1回それもGHQ支配下における日本国憲法への変更だけである、からです。 それ以外は、明治時代も昭和も平成もすべて「解釈」で片付けてきたのです。 (先ほどの輔弼について、wikiを見ると「解釈」変更における政治闘争が見えてきます) 日本の法制度において(法文はあるけど)憲法改正の手続きは事実上無い、のが解釈をのさばらせている一番の元凶であるといえます。 ちなみに他国では、戦後だけでもアメリカで6回フランスは27回ドイツに至っては東西合併という事情があったにせよ58回も改正されています。イタリアは15回だそうですので、日本の0回というのは、そもそも「法治国家の大原則たる、法の支配の考え方」というものについて、先進諸国と違う考え方がある、としかいえません。 さて、法律を勉強してみると、法文というのは以外にあやふやであり、すべてを網羅していない、ということに気がつくのですが、その欠陥を補って日々の生活を成り立たせているのが、そもそも「解釈」や行政における裁量権です。 私は消防法に関する仕事をしていますが、消防法が改正されると「質疑応答集」というのが必ず発表されます。つまり法文だけでは「解釈」が理解できないんですね。また、法律の書き方に不備があると、すぐに通達などで訂正されます。本来、通達は「法的拘束力を持たない」はずなのですが、実際には省庁の課長クラスの「通達」が実質的に法律と同じ効力をもっているのです。 しかし、これらの対応がないと、国家運営や経済にブレーキをかけてしまうこともありえます。ですので「解釈」や「裁量」そのものが悪いわけでも、法文が幅広く読み取れることが悪いわけでもないのです。 この点について憲法も同じであることは、先の生活保護に関する判例を見れば分かると思います。 ただいずれにしても「解釈」や「裁量」が重大な結果を招きえることは、もっと注意すべきでしょう。その点で質問者様が「第三の問題点」と指摘しているのは慧眼に値すると思います。 でもそれは「法の支配の考え方の前提」の前提である、人間がどのように法に向き合って利用するか、ということにつきます。 かつて「法(体系)の発明者」と言われたローマ人はこのような言葉を残しています。 「法は人間が作ったものであるから、時代に合わなければ変えるのが当然」 逆にユダヤ人は「法は神がわれわれに与えたものであるから、変えてはならない」 と考えていました。 同じ「法」でも考え方が違えば運用方法も違ってくるのです。これが、私のいう歴史的経緯の本質です。 日本人においては「時代に合わせた細かい憲法改正をしたことがない」という伝統が何よりも問題であるといえます。それを理解したうえで、解釈に頼らず改正して法治国家として成り立つように、また国民が法治に責任を持つようにしないといけません。 その点で、今回の「集団的自衛権の解釈変更」は軍事的な問題点・国際外交に置ける問題点だけでなく、日本における法治という第三の問題点があることは間違いありません。
- sutorama
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----- 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 ----- ※日本国憲法前文 この前文があって、第二章「安全保障」の『第九条(平和主義)』があるわけです 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」 終戦69年目を迎え、憲法の前提(前文)が違っています 既に、「平和を愛する諸国」には日本が保持していない大陸間弾道ミサイルがあり、日本に向けられています 核だって持っています 集団的自衛権は、もしも日本が標的にされても他国(アメリカを除く)は、助けてくれない状況を無くそうと言うモノです マスゴミや左は、他国(友好国)が襲われたときに、日本が助けることばかり言っていますが、狙いはその逆です 首相も、いつでも助ける準備ができたので、こっちのときもお願いね・・と外交をしています 話をもどすと、改憲が反対される中で「憲法矛盾宣言」ではなく、もうそもそも骨子である「前文」がおかしくない?ということなので、そこに視点をもっていくべきかと思います >まったく議論されていないのはおかしいのではないか? 前文を無視して、第九条や第13条の権利ばかり主張してくる人たちとは、本来は話にもなりません 「戦争ができる国」になってしまった・・・ではなく、「本当に平和を愛する国と協調できる国」にしたいだけかと思います
補足
ご回答ありがとうございます。質問を立てたとたんに、何人かの方にとても詳しいご回答をいただき、とてもうれしく思っています。ただ、いろいろ難しい内容なので、自分なりに消化するのに少し時間がかかるので、もうしばらく時間をいただいてから、改めてお礼に書かせていただきたいとおもいます。
- ww_5
- ベストアンサー率41% (7/17)
法律の専門家でも何でもないですが、日本国憲法を趣味としてます。 早速回答ですが、前提が間違ってます。今回、解釈改憲はされていません。そう考えてもらえば、質問者さんの疑問は全て解決するはずですよ。 これまでの政府見解を継承しつつ、「安全保障環境の変化」を理由として、個別的自衛権の行使のうち合憲と解釈できる範囲を拡張しただけです。 集団的自衛権の行使が可能であると解釈改憲されたことになってますが、その行使の条件として我が国の個別的自衛権の行使上、必要な場合に限る(日本防衛上必須の場合に限る)とされています。 これまで日本はいわゆる「専守防衛」にこだわり、必要最小限以下の個別的自衛権行使しか予定してませんでした。それだと変化する安全保障環境へ十分に対応不可能であることから、憲法で許容される個別的自衛権行使の枠を拡大し、日本国外への戦力投射、友好国等への防衛協力を行えるように変更しました。 要求されたのは、国外への戦力投射が合憲であると解釈変更すること(これは解釈改憲には当たらない)、友好国との共同軍事行動が日本防衛目的でとれるようにすること、です。 次に、例示の最初の質問に関して、以下の点について簡略に私の考え方を書いておきます。 1.(憲法の)法文上、集団的自衛権があると解釈できるか? 憲法9条では集団的自衛権は「明文化されて」禁止されています。 -------------------- 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 -------------------- 上は9条第1項の一部分ですが、この中の「国際紛争」とは日本国以外の他国間どうしの国際紛争を意味します。その国際紛争への武力介入(並びに国権の発動たる戦争)は永久に放棄するとされてます。 集団的自衛権の行使とはまさに、他国どうしの国際紛争への武力介入ですから、上記のように憲法上で具体的に明文化されて禁止されています。禁止条項にそのまま該当する典型例です。 ですので集団的自衛権の一般的な行使は違憲であるため実施できません。 A国とB国が日本に全く関係ない状況下で戦争に至った場合、A国の友好国である日本はB国に対し国権を発動して戦争を仕掛けるのを、通常では集団的自衛権の行使と言います。 或いは、A国の軍艦が地中海にてB国の戦闘機から攻撃された場合、日本が地中海にイージス艦を派遣して友好国であるA国の軍艦を防護するのが、普通の集団的自衛権の行使です。 これらの集団的自衛権の行使を憲法第9条は具体的文言を明記して禁止しています。 この度安倍晋三が行ったのは、それらの集団的自衛権について、日本の個別的自衛権が侵される場合に限り、日本は友好国等を防護・防衛できる、としたのみです。同時に、日本の個別的自衛権が侵されない限り「憲法上の規定により」集団的自衛権は行使できないとされています。 噛み砕いて言えば、日本防衛上必須の場合に限り、集団的自衛権の行使が容認されます。要するにこれは、集団的自衛権の行使ではなく、個別的自衛権の行使なのです。 これを集団的自衛権の限定行使と主張するのは、何かの意図を持った詭弁でしょう。
補足
ご回答ありがとうございます。質問を立てたとたんに、何人かの方にとても詳しいご回答をいただき、とてもうれしく思っています。ただ、いろいろ難しい内容なので、自分なりに消化するのに少し時間がかかるので、もうしばらく時間をいただいてから、改めてお礼に書かせていただきたいとおもいます。
補足
ご回答ありがとうございます。質問を立てたとたんに、何人かの方にとても詳しいご回答をいただき、とてもうれしく思っています。ただ、いろいろ難しい内容なので、自分なりに消化するのに少し時間がかかるので、もうしばらく時間をいただいてから、改めてお礼に書かせていただきたいとおもいます。