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明治維新で開国した時期
- 明治維新で日本は開国させられた
- 不平等条約を結ばされ、一部の港を開港させられるにとどまった
- 尊王攘夷運動が明治政府の成立につながった
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アメリカのフィルモア大統領は、ペリー提督に対して「絶対戦争にはするなよ」と厳命していました。その理由はシンプルで、「あんな遠い国(註:ペリーはアメリカ東海岸から大西洋を渡り、喜望峰を回ってインド洋を越えて日本にやってきました)にわざわざ軍隊を派遣したらどえらい金がかかる。しかも、その価値があるようなところには到底思えない」からです。 しかしペリー提督は割とそれをガン無視して強気の恫喝外交を展開しました。理由はシンプルで「たぶんそうしたほうが日本人には効果的」と判断したからです。「日本人は強気で来られるとNoといえない民族性」ってのを見抜いていたのです。 それで早速開国をさせたその当のアメリカはその後戊辰戦争から明治維新への流れでまったく登場しなくなります。理由はこれまたシンプルで、南北戦争が始まったからです。南北戦争で国土が疲弊したアメリカは、極東アジアのちっぽけな国に関わっている暇も余裕もなくなってしまいます。 さて、そんなアメリカに代わってイギリスやフランスが日本に対する存在感を増していきますが、これまたこれらの国々も極東アジアのちっぽけな国に関わっている軍事的、精神的、資金的余裕がなくなります。理由はここもまたシンプルで、先日何かと話題となったロシアのクリミア半島で、クリミア戦争というのが起きたからです。このクリミア戦争は日本ではどマイナーなのですが、その理由は同じ頃が幕末だったからです。 一方、ヨーロッパにとっては政治的に見ても軍事的に見てもかなり大きな戦争でした。戦争そのものはローカルなものだったんですけど、ヨーロッパの政治に対する影響は大きかったのです。今でもEU諸国はウクライナ問題に非常に関心が高いでしょ? このクリミア戦争で有名なのがあのナイチンゲールの活躍です。病院は清潔に、を広めたのが彼女なら、後の赤十字運動のきっかけにもなりました。また、現代の私たちに非常に身近なものが2つこの戦争をルーツにしています。ひとつがバーバリーでおなじみのトレンチコートで、このときに兵士に配られたコートが現代サラリーマンのトレンチ(塹壕)コートの基礎となっています。肩にヒラヒラがついてたり、ベルトのところに用途不明のリングがついてるのは軍服がルーツだから。また、嵐でフランスの戦艦が沈んだことをきっかけに、天気予報もこのときに始まりました。 そしてアメリカの南北戦争はある軍事的な大きな影響を欧米軍事史に与えるのです。それが小銃の発達です。南北戦争によって、ミニエー銃という銃が主力になったのです。ヨーロッパ列強各軍でも、ミニエー銃が急速に普及しました。そのため、古いゲベール銃が大量に時代遅れの中古銃としてダブついたのです。 ところが、火縄銃から約200年間武器の発達が止まっていた日本では、欧米では時代遅れになっていたゲベール銃が「素敵な最新兵器」に映ってボッタクリ価格で喜んで大量に買ってくれたのです。 かくして、欧米諸国は軍隊を派遣して植民地とするより、時代遅れの銃をボッタクリ価格で売って一儲けするほうを選んだのです。よしんばいくらゲベール銃が大量に日本にあろうと、時代遅れの戦闘機を売るようなものですから、その気になればいつでも潰せるし脅威にもならない、と判断されたのです。 日本なんてね、欧米から見たら遠い遠い離れ小島で、特に欲しくなるような資源も何もない国なんですよ。買い被ってはいけないです。当時の彼らにとっては清朝中国のほうがよっぽど豊かで資源がある国だったんですよ。江戸城と紫禁城のスケールの違いを比べたらどっちが金持ちそうかは一目瞭然でございましょ? ついでに、幕末の攘夷論者の志士のほとんどは、明治維新に伴って開国論者に転向しています。坂本龍馬がその典型ですが、面白いことに、彼らが攘夷論から開国論に路線変更するにあたって思想的に葛藤した様子が微塵もありません・笑。 高杉晋作なんか(私は大好きですけど)ひどいもんで、ガチガチの攘夷論者だったくせに、上海に留学すると「あのね、アヘン戦争のその後とか見てきたわ。無理。攘夷論はありゃダメだわ」と開国論へ180度意見を変えています。 このへんの「柔軟さ」が明治維新という革命運動がスムースに、しかも国の近代化という点から考えると非常に成功する形で進められた理由だと思います。 この転向的柔軟さはなにも新政府側の志士に限った話ではなく、新撰組の土方歳三も新撰組時代は刀をグルグル回していたのですが、鳥羽伏見の戦いで「刀や槍では銃に勝てない」というのが分かると「これからは銃での戦争の時代だぜ」とあああっという間に銃の戦術を身につけて、函館戦争あたりでは無敵の野戦指揮官となっていました。だいたい歳三さんのよく知られている肖像写真がざんばら髪(ちょんまげ禁止令はずっと後です)に洋装、どこで手に入れたのかオシャレなブーツまで履いていて、「ちょっと、アンタ武士になりたかったんじゃないの?」と小一時間ほど問い詰めたくなるほどです。
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理由の一つで、捕鯨船が立ち寄る基地にしたかったとかいう話は聞きますよ。 ウィキペディアにも書いてあった・・・ 黒船来航 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA 「捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保」 確かに学校ではサラっとしか教えてくれないし、教科書にもたいして載ってなかった気が・・・・でも日本は本をたくさん売ってますから、詳しく知りたいんだったらネットだけでなく、本を読むのが良いですよ。 ネットで記事を書いてる人たちも本を何冊も読んでるはずです。 参考文献 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA#.E5.8F.82.E8.80.83.E6.96.87.E7.8C.AE ペルリについての参考文献 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%BC#.E5.8F.82.E8.80.83.E6.96.87.E7.8C.AE
中二病くさい発想抜きで考えましょう。 世界史を学べば誰にでも分かりますから。 アメリカは良くも悪くも合理的な国です。 侵略する価値があればとうにやっています。 東洋の小島にコストをかけて侵略するなんて 馬鹿の考える事です。戦略的に何の意味も無い。 質問者の知識は小学校で習う範囲でしかありません。 高校で習う歴史だともっと詳細な事が分かるでしょう。 教科書でも読めばいい。
- 0fool0
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一概に植民地にしようとしていたかと言うと、そうとも言い切れません。 何故なら日本は遅れている所が有るとは言え、立派な国家としての政治と軍備を持っていました。(脆弱でしたが、無い訳ではありません) 更に科学技術は劣っている面も沢山ありましたが、オランダを通して西洋に渡っている日本の文物は、高い文化度を誇っているのは疑い様の無い物ばかりだったのですから。 「文明国」を一方的に侵略するのは、大義名分が立ちません。 既に時代は複数の国籍の西洋船が日本近海に来ている迄になっていたのです。 其の中で「暴挙」と取れる行動は、他の西洋列強に日本への「介入の口実」を与えてしまうだけの愚策でしかありません。 清は当時、「眠れる獅子」と形容される様な怖ろしい「大国」だったのですが、いざ、アヘン戦争をしてみると、驚くほどに脆弱な国だったのです。 ですので日本に対しても同様の認識だったとは考えられますが、長州・薩摩と実際に戦闘を行った所、簡単には(ノーダメージで)勝てないと理解出来ました。 脅しも通用しませんし、それどころか賠償金交渉も一筋縄ではいかず、薩摩は賠償金を名目にして軍艦を購入するという「交易」と摩り替えて、幕府から無許可のイギリスとの交易権を獲得してしまいます。 そうなると本来の西洋の要求は、薪炭の補給と交易でしたので、無理に戦闘をする必要も無いし、植民地化しなくても治安が維持出来ていれば、特に問題もありません。 金の交換レート等、問題が山積みのスタートでしたが、彼らに日本を食い物にする気はあっても、必ずしも支配をするメリットを感じていたのかは私には疑問に思えます。 戦争をするだけのコストに対する対費用効果が、何処まであるのかと考えるのかが肝でしょう。 で、ご質問の分配ですが、これは前提として彼等が「連合」を組んで「日本と戦争をした」場合であって、実際はヨーロッパ勢が互いに戦争を繰り返していましたので、実現不可能です。