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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:古代の出雲の国についてお教えください。)

古代の出雲の国について知りたい

このQ&Aのポイント
  • 古代の出雲の国について、その存在や歴史について詳しく知りたいです。NHKの100分で名著の「古事記」を見ましたが、古代に「出雲の国」があったとされていますが、実際に存在したのでしょうか?また、出雲の国にはどのような文明が存在していたのかも知りたいです。
  • 古代の「出雲の国」の存在について疑問があります。一部の文献には国譲りや滅亡に関する記述があり、出雲の国が有力な国であった可能性も示唆されていますが、その真相について知りたいです。また、出雲の国の創造者や滅亡の理由についても詳しく教えてください。
  • 出雲の国は古代の日本に存在した国であり、その歴史や文明について興味があります。特に、大国主命によって作られたと言われていますが、具体的にはどのような人々が関与していたのでしょうか?また、なぜ出雲の国は大和の国に滅ぼされたのかについても解説していただきたいです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • DieMeute
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回答No.6

>古代の「出雲の国」は、本当にあった国なのでしょうか? ●回答・・・ありました。 「出雲大社」以外にも・・・ 全国最多の358本もの銅剣を含む多数の青銅器が発見された「荒神谷遺跡」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E9%81%BA%E8%B7%A1 全国最多の39個の銅鐸が出土した「加茂岩倉遺跡」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%8C%82%E5%B2%A9%E5%80%89%E9%81%BA%E8%B7%A1 景初三年銘の三角縁神獣鏡(が出土した「神原神社古墳」 この景初三年は魏の王が卑弥呼に100枚の鏡を下賜したとされる年です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE 全国でも最大級の方墳がある「造山古墳」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C) この他にも西谷墳墓群や岡田山古墳など、他にも幾つかの古墳群があります。 また四隅突出型墳丘墓という形の古墳が日本海側を中心に約90基発見されていますが、出雲には全国でも多い19基が発見されています。 こうした事から出雲には古代出雲王朝が存在したと考えられるようになりました。 数十年前は、古墳の発見が少なかった事や、古代の遺物の出土が少なかった事、出雲大社についても伝えられるその巨大さに疑念がもたれ、出雲神話の真偽についても疑いがあった事から、古代出雲王朝の実在を疑う人もかなりいたようですが、 遺跡や考古学的遺物の発見が増えた事から、古代出雲王朝の存在を信じる人も増えたようです。 最近では古代出雲王朝は無かったという主張を目にする事は殆ど無くなりました。 また、能登半島の神話に、能登姫と姉倉姫の二人の女神が争い、それを出雲から来た大国主命が仲裁したという話があります。日本海側の古代の国々と、出雲の古代王朝とは海路、交流があったかもしれません。 なお、前述した景初三年銘の三角縁神獣鏡が出土などしている事から出雲が「邪馬台国」だったと考えている人もいるようです。 >とても進んだ国だったみたいですが、なぜ大和の国に滅ぼされてしまったのでしょうか? ●回答・・・もう40年以上も前の本ですが、早稲田大学教授で「三王朝交代説」を提唱した水野佑氏の著書「日本古代の国家形成 征服王朝と天皇家」の中で簡単にですが、触れられています。 それを要約して簡単に書きますと・・・ 古代の原始国家が水稲耕作に適した地、大和盆地、吉備、出雲などに成立します。 大和の場合、大和の一集団がやがて大和盆地を制し統一し原大和国家を成立させ、さらにその農耕生産力で勢力を増し、その支配圏を周囲に伸ばし、やがて吉備を征服し、その手を出雲に伸ばします。 この時、出雲は武力抗争によらず、原大和国家との和談によって国を譲る事になった。と・・・ そう水野佑氏は書いていらっしゃいました。 出雲地方の平野部に比べると、大和盆地やその周辺の平野部は格段に広いので、その農耕生産力は大きな差が出た事でしょう。そのため、おそらく人口などもヤマトが出雲を大きく引き離した可能性もあります。その上、さらに吉備までヤマトの支配下になります。 ヤマトと戦っても勝ち目はない・・・と出雲が判断してもおかしくはないかと思います。それで戦わずに出雲はヤマトに屈したのではないかと・・・ 戦わずに屈した例というのは、日本の戦国時代や世界の戦史でもよく見られます。 勝ち目の無い場合、戦う事なく自ら敵国に降り、それである程度の地位を得たり、安全の保障を得るというのは珍しくないので、出雲もその手に出たのかもしれません。 出雲の国譲りの話とは出雲が戦わずに屈し降伏した話ではないかと私は考えています。

miranosoba
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 ご紹介かただいたURLも見させていただきました。 全国最多の銅剣、全国最多の銅鉾、全国で最大級の方墳の遺跡、すごいと感じました。 特に景初三年銘の三角縁神獣鏡については、すごく興味を持ちました。 戦わずして屈するということが日本の戦国時代にもあったのですね。知りませんでした。 戦うことなく自ら敵国に降りて、ある程度の地位を得たり、安全の保障を得るということが珍しくなかったのですね。 農耕の生産力が国の力の差になってくるということだったのですね。 知らないことを、いろいろお教えいただきありがとうございます。 心から感謝いたします。

その他の回答 (6)

  • reflector
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回答No.7

>>古代の「出雲の国」は、本当にあった国なのでしょうか? 出雲の国は、西暦700年前後に存在していた国であり、宇宙人が創った国です。 古文書に宇宙人と書かれています。 出雲の国は、中国から遠征してきた侵略者を迎え討つ為に創った国であり、 神話はヤマタノオロチ伝説です。 戦列が長く、約8人の武将が統括していたと考えられます。 詳細は、オーパーツ(竹内文書)を参考に、本物の竹内文書は宮内庁や旧日本軍らにより消し炭になっています。 尾っぽとする場所に将軍がいて、宝剣を持っていたと考えればヤマタノオロチ伝説は肯定されます。 ただ、中国人が自主的に侵略したのか、依頼されて侵略したのかは不明です。 >>とても進んだ国だったみたいですが、なぜ大和の国に滅ぼされてしまったのでしょうか? 聞こえが善い国譲りでしょうね。見下した言葉が「国譲り」ですから。 三種の神器は、宇宙人から手渡された剣、勾玉、鏡などをニニギの尊が、 それぞれ出雲の国の頭首へ手渡したものです。 元々ニニギの尊が所有していた物ではありません。 そもそもニニギの尊が住んでいた時間は、出雲の国より約千年前ですから、 一緒に住んでいたと勘違いする人がいても不思議ではないんですが、 歴史学者が史実を無視して発言するとトンデモ論になりますので注意が必要です。

miranosoba
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 出雲の国のことは、いろいろな説があるのですね。 いろいろお教えいただきまして、ありがとうございます。 心から感謝いたします。

  • chiha2525
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回答No.5

実は、よく分かっていないというのが本当でしょうか。 国譲りが有名ですが、本当に国譲りがあったのかというと疑問です。その為に長いあいだ出雲は、神話の中では有名だが実際は一地方の平凡な国、だと考えられてきました。それをひっくり返したのが、大量の銅剣が見つかった荒神谷遺跡で、おおよそ西暦100年ころ(多分)に大量の銅剣を持つことができる程の国があったことが分かりました。 でもそこまでで、その国がどの程度の範囲に勢力を伸ばしていたのかなどは、よく分かっていないのではないかと思います。 一方、若狭湾(京都の北あたりですね)や岡山あたりにも、出雲と同様に日本海経由で大陸の文化・技術が入ってきていたと思います。 国譲り神話は、もともとは出雲と若狭の間の土地の奪い合いの話で、取られた出雲が若狭に譲ったという話にしたと聞いたような気がします。 私は、日本国の国譲りの話はヤマト王権のでっちあげではないかと思っています。出雲神話を聞いて勝手にでかい神社を建ててやり、出雲神話を取り込み、国譲りの話を日本全国を譲ってもらう話にすり替え、その証拠として神社を建てたのではないか、と。 それはともかく、建物としての神社は意外に古くなく、文献に最初に出てくるのは6世紀ころではなかったかと記憶しています。 よく出雲神社の遺跡が出てきたことで、古代の~などと誤解されていますが、出雲神社の遺跡は12世紀ころのものですので、古代というには新しすぎる時代のものです。 まとめると、大量の銅剣を持つほどの国は確かにあったが、どれほどの影響力のある大国だったのかは不明、少なくとも日本全国を治めていたなどという日本神話にあるような状態ではない。同じ程度の勢力は若狭や岡山に見られるようだ。九州も独自(?)に繁栄していて、出雲とどの程度交流があったのかは良く分かっていない。 そのようなところでしょうか。 # 考古学は門外漢なので、間違いがあるかも知れません

miranosoba
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 大量の銅剣が遺跡から出てきたのですね。 ですが、大量の銅剣を持つほどの国はあったが、どのくらい大きな影響力のある国であったかは不明なのですね。 日本国の国譲りは、いろいろな説があって、よくわかってないのですね。 いろいろお教えいただきまして、ありがとうございます。 心から感謝いたします。

noname#204885
noname#204885
回答No.4

私も古代出雲は大好きです。縄文文明の血を引く王朝の最後の砦となった地ではないかと思います 今から1万年以上も昔、温暖だった縄文時代は、東北から北陸(「越(コシ)」)にかけて、日本海側に縄文の一大文明が築かれていました。しかしながら、地球の寒冷化が進むにつれて、この文明を作った人たちは北部の拠点を放棄せざるを得なくなり、最後まで残ったのが出雲なのだと思います。そして、キリストが生まれたころ、九州に上陸してきた弥生系の渡来人勢力との交流が始まり、やがてその勢力を始祖とするヤマト政権との抗争に発展し、最後の王となった大国主命は、和解の道を選んで、自ら王の地位を去ったのではないでしょうか。 縄文文化の遺跡はいろいろあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7 青森の亀ヶ岡遺跡は何と言っても遮光式土偶 http://inoues.net/ruins/3naikamegaoka.html 同じく青森の三内丸山遺跡は、出雲大社神殿の伝説を思わせる6本柱の建造物。この建造物を作った頃には、既に、縄文尺(1尺=35cm)と呼ばれる単位が確立されており、直角を出すために3:4:5の比のピタゴラス三角形が使用されていました。 http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k258/kodaishi25.html あと、知られざる遺跡としては、山形県の押出遺跡があります。 ここで発掘されたのは、5000年前(~BC3000年)の漆器!亀ヶ岡よりも更に2000年ほど遡った時代です。 http://blogs.yahoo.co.jp/kinos5000/46072572.html http://www.yamagata-museum.jp/archive/pictorial-record/pr-15.pdf これを文明と言わずになんと呼ぶのか。 縄文時代を「木の実を採集したり石器で狩りをしていた原始人の時代」と貶めたのはどこの連中か。 歴史の長さを誇る中国といえども、最古の王朝と言われる殷王朝(BC1600~1400年頃)の遥か以前、黄河文明を形成した裴李崗文化(BC7000~5000)の時代まで遡って、ようやく同時代になります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E6%9D%8E%E5%B4%97%E6%96%87%E5%8C%96 話を出雲にもどすと、国引き神話は、温暖だった縄文海進の時代(BC6500頃)に島であった島根半島が、寒冷化によって海面が後退し半島となったBC4500頃の歴史を伝承しているのではないかと言う説もあります。 http://bell.jp/pancho/travel/izumo/history.htm おそるべし出雲の国。

miranosoba
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 貼り付けていただいたURLも見せていただきました。 縄文文化のすごさに驚きました。 私も縄文時代というのは、木の実を採集したり石器で狩りをしていた原始人の時代と思っていました。 遮光器土偶はとてもすぐれた美術品のように見えます。 出雲の国の国譲りには、多くの説があるのですね。 ますます出雲の国に惹かれてきました。 いろいろお教えいただき、ありがとうございます。 心から感謝いたします。

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.3

出雲には国があったことは、古墳などから明らかです。 日本海側にほかにあった国としては、越の国(北陸地方)があります。 当時国が栄える条件としては、中国朝鮮との交流が欠かせませんので、海を隔てて、今は裏日本と呼ばれたりする地域は、当時の表側です。 日本はシルクロードの終着点で、色々な人種が日本にはわたってきています。 それも北、南、西とさまざまで、例えば、太秦を作った秦氏はペルシャ人ではなかったか、という説もありますし、朝鮮や中国からも多くの渡来人が来ていて、日本は国際色豊かな国です。 さて、日本が初めて中央集権に動いたのは、5世紀ころと言われていて、奈良の纏向にそれまで主立って栄えていた出雲(島根)、吉備(岡山)、飛鳥、尾張などの各豪族が集まったと考えられています。 当然その中で主導権争いがありました。最終的に勝ったのが当初は、吉備出身の物部氏と考えられています。 日本が中央集権になるに当たり、重要なのが、中国朝鮮からの物流で、奈良は関門海峡から瀬戸内海を抜けて大阪から入るルートです。 北九州勢力は、昔から中国朝鮮に近いこともあり、大和政権とは対立していたようです。 この対立の中で、中国の権威をかさに借りるために金印をもらうなど、中国との冊封体制を築いているようです。卑弥呼はこのあたりの北九州勢力として存在していたという考えもあります。 特に関門海峡は物流の拠点となるので、当然大和と北九州勢力との激しい争いがあり、最終的に勝利したのは大和政権でした。大和政権内は、この物流の確保で飛躍的に勢力を強めますが、そんななかで、出雲は吉備との勢力争いに負けて、大和との対立姿勢を取ったため、滅ぼされるようになったようです。 越の国に関しては、奈良から地理的に遠いということもあり、勢力を保っているようです。 継体天皇が越から迎えられたことは有名ですし、ほかにも東海の尾張氏、関東の下毛野氏など有力豪族は大和と共存をしています。

miranosoba
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 当時は日本海側が表日本だったのですね。当時は国が栄える条件としては、中国朝鮮との貿易が不可欠だったのですね。 日本がシルクロードの終着点だっとということを知りませんでした。いろんな国の人が渡来して住んでいたのですね。 5世紀頃いろんな地域の豪族がいて、主導権争いがあったのですね。物部氏という名称を聞いたことがありあますが、岡山の方の豪族とは知りませんでした。大和の豪族と思っていました。 中国朝鮮からの物流が重要で関門海峡をめぐって、大和と北九州の勢力で激しい対立があったということ、とても興味深いです。 出雲は他の豪族のように共存するのではなく、対立したため滅ぼされてしまったのですね。 いろいろお教えいただき、ありがとうございます。 心から感謝いたします。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.2

その問題は、邪馬台国論争にも匹敵する、あるいはそれ以上の古代七不思議のひとつです。 古代出雲に優れた文明があったことは、出雲大社の存在で明らかです。一説によると、かつては東大寺大仏殿を越える大社があったとあります。ただ、記録に残るその大きさは木造建築としての限界を超えた大きさともいわれており、長年「誇張された記録であろう」と思われていました。 しかし2000年に巨大な柱が発見されて、その伝説が現実であったであろうといわれています。建築会社が計算したところによると、高さ48mの社殿になるそうです。15階建てのビルに匹敵するというのですからすごいですね。 また周囲からは多くの剣なども発見されており、かつては出雲近辺に非常に強力な勢力があったであろうことは確かです。しかし、出雲側の記録が残されていないので、どのような勢力であったかははっきりとは分かりません。 古事記によると、大国主命は「国を譲る代わりに俺への祀りを決して怠ってはならない」と強く希望し、それが受け入れられる形で譲られたことになっています。出雲大社は現代でも全国を代表する神社のひとつであり、二拝四拍手一拝という独特の参拝の作法といい、神無月には全国の神様が集まる場所になっていることといい、古代出雲の謎はロマンあふれるものになっていますよね。

miranosoba
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 出雲の国のことは、邪馬台国に匹敵するほどの古代七不思議のひとつなのですね。 15階立て社殿って、すごいです。 伝説が現実であろうとする大きな柱が発見されたのですね。 出雲大社は神無月には、全国の神様が集まる場所ということ初めて知りました。 とても不思議です。やはり出雲に非常に大きな勢力があったのでしょうか。 いろいろお教えいただき、ありがとうございます。 心から感謝いたします。

  • marbleshit
  • ベストアンサー率49% (5033/10253)
回答No.1

出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。 朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。 これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。  これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。  ところが、『出雲国風土記』はまったく別のニュアンスを伝えています。  国譲りにさいして、オオクニヌシ(『出雲国風土記』では大穴持命(おおなもちのみこと))は、 次のようにいうのです。 「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。 しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、 垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」  つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、 とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、 葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。  このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。 逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。 列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。  これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。 つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、 自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。 すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、 置き換えようとしたのではないでしょうか。  しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、 と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、 倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。 大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。  神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、 このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。 http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai11.html

miranosoba
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 私は出雲国風土記という本があるのを知りませんでした。 日本列島の支配者として、初めに出雲族がいて、それを天孫族が奪ったと考えられるのですね。 出雲系邪馬台国から、天照系大和朝廷へと倭国の支配権が委譲したというお考え、とても興味を惹かれました。 いろいろお教えいただきまて、ありがとうございます。 こころから感謝いたします。

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