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寄付について。
もう長いこと疑問を持っていますが、寄付をするのは良いことだと思います。ですが受け取る人の屈辱感を考えるとつらいです。受け取る人を見くびっているから与えているのかなと思ったりします。 なぜ寄付や募金ができるのでしょうか?健全に寄付ができる人はどのように考えているのでしょうか?汚いところを少しでもきれいにしていきたいので教えてほしいです。
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質問者が選んだベストアンサー
保健の授業で習ったと記憶していますが、マズローの欲求段階説というものがあります。 睡眠・食欲等基本的な欲求が満たされていくことで他人や集団にに奉仕し貢献したいという欲求が生まれるものです。 例えば大震災などでどうにか生き延びた人はまず食料・トイレ・寝る場所を求めます。 どうにか仮設テントを見つけ、そこで余震続く中数日生き延びている間は誰からの物資であろうが嬉しいでしょう。隣で子供が泣いていようが眠ることが出来ますし、食べるものもおいしさよりも量を求めます。寒いので古着でもなんでも構いません。家が無くなった事に加え家族も失ったので絶望の中にいます。 一週間以上たって慣れてくると食事のおいしさや、自身のプライバシーが気になってきます。 届く古着なんか着たくないと思うでしょうし隣の家族の騒音が気になってきます。葬式はどうするのだろうとか、遺産について等を考えるようになります。 このように人間の欲求は段階的に上がっていきます。 寄付を受ける側は何らかの事情で欲求レベルの低くなった方ですので、食事が支給されるだけで嬉しいですし世界のどこかで自分を支援してくれている人がいると思うだけで心強いものです。 例えば日本は二年前に多くの国から寄付を受けました。質問者様は屈辱感を感じていらっしゃいますでしょうか? 若い日本人は寄付を送っていただいた国でお礼公演をしたり、それらの国で起こった震災の際に多くの寄付を返したりしています。このような形で逆に国際貢献できるようになったのも寄付を受けたおかげではないでしょうか。 以上参考になれば幸いです。
お礼
図解つきで丁寧にご回答くださってありがとうございます。 実は有事の際に他国からの支援が不必要なくらいの国力を持っていないことに無力感を感じていました。 恥ずかしいですが普段から超がつくほどの傲慢さが出てしまいました。 自己実現の欲求さえ満たせられたら、承認や愛などいらないと考えている事に気づきました。 独善や偽善と言われることに過剰に反応して他人に認められることに無関心になっていたと思います。 というか自身のそういう弱さをみたくないから無関心を装っていただけです。 自己実現のために善行を否応なしにやっても偽善に見える気がしてつらい思いをしてきましたが、 自己否定感をコントロールする理由がようやく見つかりました。 自分自身に社会投資家になる許可ができそうです。 このご縁に感謝します。ありがとうございました。