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明けの明星 宵の明星
マリナー ビーナスは、それぞれ別の星と思われていたとのこと マヤ文明は、金星の動きを熟知して暦を編みだし、明けの明星と宵の明星は同一の星であると把握していたとのこと では、コペルニクスやガリレオの時代のヨーロッパ、また本人達は、明けも宵もどちらも金星だとわかっていたのでしょうか?!
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明けの明星と宵の明星が同じ星であることは、古代ギリシャ時代に次第に理解されるようになったことのようです。 広瀬秀雄氏の『天文学史の試み』によれば、最初に気づいたのはピタゴラスだといわれていて、「それまでフォスフォロス(暁の明星)、ヘスペルス(夕の明星)と呼ばれていた星は、後に金星と呼ばれることになる同一の星であること、月は鏡と同様に光の反射で輝いていることなどを知っていたといわれる」そうです。(同書 53頁) 時代がやや下って、ヒッパルコスやプトレマイオスの時代になると、惑星の運行を天動説の立場から周転円という考え方を取り入れて説明しています。これは金星や地球を含む惑星が太陽の回りを楕円軌道を描いて周回しているという事実とは異なりますが、惑星の見かけの動きを一応は説明可能であり、明けの明星と宵の明星が同じ星であること(さらに金星や水星が明け方と夕方だけしか見えないこと)も説明できました。 この明けの明星と宵の明星が同じ星であるということを含むプトレマイオスの天動説の考え方は後の時代にも長く影響力を持ちましたので、コペルニクスやガリレオの時代のヨーロッパ人は明けの明星と宵の明星が同じ星であるということは知っていたと考えられます。ガリレオが手製の望遠鏡で金星の満ち欠けを発見して、これこそ天動説の誤りを示す証拠と考えたように、明けの明星と宵の明星が同じ星であるということを前提として、天動説に変わる天体の運動の説明を考えたと見られます。 なお古代中国でも明けの明星と宵の明星が同じ星であることは知られていました。2000年以上昔の歴史書『史記』には天文を扱った「天官書」がありますが、唐代に作られたその注釈書である『史記索隠』には「韓詩云「太白晨出東方為啓明,昏見西方為長庚」」とあります。太白(金星)は朝に東方に出たときは「啓明」、夕に西方に現われたときは「長庚」と呼ぶ(と韓詩は云う)」という意味だと思います。
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ガリレオは金星が見た目の大きさが大きくなったり小さくなったりを観測していて、天動説では説明できないことを理解していました。 (もし天動説のように金星が地球を回っていると仮定すると、そのような現象は起きないため) 地動説にあてはめて金星の軌道も把握していましたので、当然、宵だろうが未明だろうが金星の位置は把握していたでしょう。
- koiprin
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コペルニクスは、1543年に『天球の回転について』という本を著しています。 この中で、黄道12星座の動きや星の出入り、地球の公転を取り上げていますので、身近な、特に目立つ星に関しては、細かく観測していることが想定されます。 となると、金星の公転周期や出入りを観測していることが考えられますので、どちらも同じ惑星だと判断することが可能かと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます 思っていた以上に古い時代から気付いていたんですね 別の星と思われていたのは、更にもっと古い時代だったのですね 参考になりました!