- ベストアンサー
~に比べたら
「私たちは戦時中に生まれ、我慢を強いられた。それに比べれば、今の若い者は我慢が足りない。」 このような言葉になんの意義がありましょうか。 ご意見を賜りたく思います。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「私たちは戦時中に生まれ、我慢を強いられた。それに比べれば、今の若い者は我慢が足りない。」 このような言葉になんの意義がありましょうか。 ○何の意味もありません。老人の戯言ですね。 他の回答にもあるように我慢を強いられてそれに従うというのは犬猫にもできることです。 我慢を強いられて戦争に負けるようでは単なる阿呆ですね。阿呆の論理は参考にする必要はありません。 歴史の結果は覆せないですね。 ただね。我慢を覚えるということは必要ですね。 東北の大津波では、被災者の老人も若者も立派に我慢していましたね。誰にも強要されず粛々と耐えるときは耐えるという心構えは誰にも必要だということですね。 一方、我慢が国を危うくするときは我慢してはダメですね。おかしい時は公の憤りで対抗しなければいけません。 先の戦争にもおかしなところはたくさんあったはずです、それを指摘せず我慢のみは容認ですからね。 自信の身可愛さのあまりの我慢は犬に食わせる程度のものですね。 本当の我慢について剣豪の心構えが五輪の書にある[静かなるときも心は静かならず]ですね。 また、危ないと思えば我慢せず「逃げるが勝ち」ですね。 つまり、我慢とは武士の心構えなんですね。それさえ心の片隅に持っておれば良いだけですね。
その他の回答 (3)
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
意義ですか・・? だから、生活保護をもらったり 自殺したりするんじゃない、 てことになりませんか。 職などは選ばなければいくらでもあり ます。 清掃とか工場労働など、いくら募集しても 応募してくるのは外国人ばかりです。 中小企業の有効求人倍率は3倍もあります。 きつい仕事でも、汚れ仕事でも、いやな仕事でも 我慢して働け。 いい若いものが生活保護なんかもらうんじゃない。 ちょっと殴られただけで、自殺なんかするんじゃない。 昔は体罰など当たり前だった。 こういう意義はどうでしょう?
お礼
非常に便宜的な解釈のように思いました。 それも一つの意義だと思いますが、何となく味気無い気もします。 ご回答誠にありがとうございました
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
若者を虐げてこき使って、安泰な年金生活を送る意義がある。
お礼
健康であるだけでは飽きたらず、境遇の意味も考えず、そこがまた憎たらしく思うところであります。 ご回答誠にありがとうございました
- manuke22
- ベストアンサー率54% (19/35)
まず比較対象がおかしいですよね。「戦時中に生まれ、我慢を強いられた」という過去の経験と比較するなら、後ろには「いまの若者は我慢を強いられる状況が少ない」みたいな文が来るべきでしょう。これなら、たしかに今は自動販売機でジュース買ったりコンビニでアイス買ったりなど、物質的に昔と比べたら豊かなわけですから、昔のような我慢を強いられる状況が少ないと言えます。 ちょっとおちょくるなら、我慢を強いられていた昔のあなた方は我慢強かったかもしれないけど、今のあなた方は昔のあなた方に比べて我慢強くなくなったんじゃないですか? とか。若いころの自分より我慢をする機会が少ない今の若者を妬んでるんですか? とか(こう言えばおそらくムキーッとなるか、「いや、むしろ我慢強さを鍛えられる機会が少ない今の若者を哀れんでいるんだよ」みたいに返してくるでしょう)。 「我慢が足りない」という文が、「我慢をする機会が少ない」なのか「我慢強さが足りない」なのかも不明瞭です。たいがいは「我慢強さが足りない」という意味で言われているでしょう。では、我慢を強いられる状況にあったなら我慢強くなるのか、というのがつぎの問題です。我慢を強いられる状況、たとえば食べ物を食べたいのにそもそも食べ物がないという状況では、我慢しようがしまいが関係ないですよね。まさに強いられているんですから。ならば我慢を強いられない状況こそ、我慢しようという意志が重要でしょう。そういう状況でこそ我慢強さが試される、あるいは鍛えられるのではないかと。誰もが我慢せざるをえない状況で我慢するのは当たり前です。そういう状況(欲しがりません、勝つまでは。みたいな)で我慢しなかったら非国民とか言われる時代だったわけですから。 あとは、その文はまるで我慢することが美徳であるかのように見なしている印象を受けますが、我慢しなくてよいのに我慢してしまう人が今はたくさんいるのではないでしょうか。悩みを一人で抱え込んだり過労死したりする人が。そういうことを考えると我慢強さはよい面も悪い面もあると思わざるをえない。だから、それを言った人が我慢を無条件に美徳として考えているならば、それはどうかと疑問に思います。たしかに今は昔より衣食住で我慢する機会は少ないかもしれませんが、それ以外のことを我慢する機会は今のほうが多いってこともあるんじゃないかとも思うわけです。 「今の若者」は衣食住で我慢する機会が昔(戦時中)よりも少ない、それに限って言えば事実として正しいでしょうね。しかし、「だから今の若者は我慢強くない」とかいう話になれば、誤りだと断言はできませんがすくなくとも論としては不十分です。 意味はあるのかという質問に答えるなら、 「我慢強いことは美徳か」 「我慢が強いられている時代で我慢するのは当たり前ではないか、我慢が強いられていない時代でこそ我慢しようという意志が重要になるのではないか」 「我慢強さはどのように鍛えられるか」 などの問いを人に考えさせるぐらいの意味はある、と答えます。
お礼
どのような境遇で生きるかは、選べません。 もしも自分がその境遇で生きていたならと、考えるきっかけにはなると思います。 大変参考になりました。ご回答誠にありがとうございました
お礼
言葉の一つ一つが他人にもたらす意味を、突き詰めて考えれば自然と口は塞がるものだと思います。 ごく普通の自然なことのように思えます。 思うまま、深く考えることなく口を開ける人は、それが許されている人は幸せだと思います。 ご回答誠にありがとうございました。
補足
愚痴に近い質問でしたね。お付き合いいただいてありがとうございました。