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平氏政権とは?独自の政治機構は存在したのか
- 平氏政権は貴族政治の中枢に深く入り込んだ元武士である平氏一門による政治を指すが、実際には貴族も参画し、武士だけが独立して政権を担当する段階には進んでいなかった。
- 六波羅に一門が居を構えていたが、特別な役職や地位があったわけではなく、近さによる話し合いの場としての役割があった。
- 平氏の力の基盤は縁戚関係や財、それに連なる兵力であった。
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平氏政権および鎌倉政権の初期までは過渡期政権であったと考えるべきでしょう。 すなわち 1.平氏政権に独自の政治機構などはなかったのですよね? はい、その通りです。平氏は従来の権力機構に乗っかる形で政権を掌握していきます。特に平清盛の昇進に伴って清盛の縁者も多くの役職に就き 全体としての勢力を拡大していきます。 2.それとも何らかの特別な役職?や地位が・・ これも従来通りのものが基本です。特別なものはありません。 3.また平氏の力の基盤は、縁戚関係と、財と、それに連なる兵力ですか? これは微妙な問題となります。2の答えと重なりますが平清盛は後白河法皇により、太政大臣に任じられ、一族も多く殿上人や国司に任じられ平氏の知行国は60余国のうち30余国を越えると同時に所有する荘園も500ヶ所を越えました。また日宋貿易による利益も存在し、こうした経済力が権力の基盤であると同時にそれを補強しました。後に、クーデタを起こして後白河法皇を幽閉した清盛は娘(建礼門院徳子)の子供が安徳天皇となったことにより、外戚として権力を掌握します。(天皇の女系祖父が権力を握れば外戚政治で父系が権力を握るのが院政です) これらは結局のところ、いずれもalcheraさんのおっしゃる通り縁戚関係と財となります。 4.兵はどんな形で平氏と結びついていたのでしょう。 武士団形勢の基本は一族郎党です。郎党関係を成立させるには鎌倉時代にいう土地を仲立ちとした「ご恩と奉公」的なものもあったでしょうが、それよりも地縁的な主従関係の方が中心でしょう。 疑問に対して十分な答えになっていないかもしれませんね。 最後に参考書としてはもいずれも全集の中の一巻ですが 日本の歴史7「院政と平氏」小学館 日本の歴史6「武士の登場」中公文庫 などです。
お礼
ああ、安心しました。一応基本はずれてなかったようですね(^_^;)。 一族郎党かー、なるほど。この視点が欠けていました。「地縁」が具体的にどういうものかピンとこないので、この辺をちょっと見てみようと思います。 中公の6は持ってました……。こっちを読むのが先でしたね(^_^;)。 ほっとするご回答ありがとうございました。