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技術による社会発展と閉塞感の矛盾
- なぜ社会は確実に発展していっているのに、閉塞感が拭えないのでしょうか。
- 技術の発展と共に生活は豊かになるはずですが、現代社会では格差が拡大し、雇用不安や将来への不安が存在します。
- 技術の発展と社会の長期展望が連動せず、保証されていないことが問題の一因である可能性があります。
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マルクス曰く 疎外である http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E5%A4%96
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- mekuriya
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不況、自殺、格差拡大、雇用縮小、マイナス成長・・・。現代社会の問題は全て現代人の脳死が原因です。思考停止、退行、白痴化、幼児化、どう言い換えても良い。とにかく現代人は頭を使わなくなってしまった。 ちょっと困ったことがあると、すぐ誰かに丸投げしたがる。なにかというと「どなたか」「どなたか」。 教えて!goo[どなたか]についての検索結果 ( 約404141件中 1~10件を表示 ) 日本で馬車も荷車が発達しなかったのは、道路が広くないし平坦でもないし舗装されてもいなかったので実用に耐えなかったからです。さすがのイザベラ・バードでも、そこまでは考察できなかたのでしょう。 西洋では古代ローマ時代から道路は舗装されています。それに対して日本は明治時代からです。土木技術において2000年遅れたのです。トンネルは掘れない。橋もかけられない。江戸時代、青の洞門を禅海和尚がノミと槌だけで30年かかって300m掘り抜いたのです。それは大変な偉業であった。禅海和尚が一人で全部掘ったわけじゃないけど、禅海和尚が自分で掘り始めて、それを見た村人も協力するようになったのです。そういう史実はともかくとして、こういう日本の道路事情では到底、馬車も荷車も使い物にならないのです。 人間には機械に真似のできない能力があります。状況を的確に判断して臨機応変に対応する能力です。江戸時代の日本は、そういう能力が重視されたということです。 しかし現代は違います。スピードが求められます。30年かかって300mじゃ時間がかかりすぎて話にならのです。 現代日本には命綱を使ってわたらなければならないような危険な道路は存在しない。また禅海和尚のような人もいない。どなたか、どなたかと呪文を唱えればすぐ答えが返ってきてしまうだけに頭を使わない人ばかりになってしまった。 頭を使う人と頭を使わない人で格差が生じるのは当たり前じゃないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 痛烈な批判を頂き、恥ずかしい思いですが質問は継続させて下さい。 私の元々の質問は「技術発展は雇用と相関しない、時には逆相関となる。その社会構造の問題が生じているのは何故か? 」になります。 社会学におけるカテゴリが無かったので、歴史に通底する社会的な傾向を知っている方がいる事を見込んでここへ質問させて頂いた次第です。 道路などのインフラが整備されているヨーロッパとは異なり、江戸時代においては臨機応変に対応できる人間のコストは、技術を使用するよりも結果的に安くなった、イザベラ・バードの記述を引用した「技術的コストが人間のコストを上回った」という指摘は誤りであり、それを事例として社会に通底する技術と雇用の相関問題を論ずる事はできない、とのご指摘ですね。 考慮する材料としては不適であったかもしれません。 考えるべくもない問題で、こんなものは自己解決できるだろう、QAサイトにおける質問欄の無駄だというお考えも分かるのですが、「技術発展は雇用と相関しない、時には逆相関となる。その社会構造の問題が生じているのは何故か? 」という問題に対して、私自身は分からなかったので質問させて頂いた次第です。 ※もしお分かりになるのであればご教授下さい。 「技術発展は雇用と相関しない、時には逆相関となる。その社会構造の問題が生じているのは何故か? 」 については、私の方で別途他回答者様からの回答も交え、考察させて頂きます。 あるいはまた別のカテゴリーに質問を別の切り口で「どなたか」とさせて頂く事になるかもしれません。飽くまでマルチポスト的な話しではなく、そのカテゴリーに応じた回答を求める形で質問をさせていただこうかと思います。 #2さんへの回答への御礼にも記載しましたが、 ジョン・デューイ著「経験と教育」では、編集者はしがきに対し、次のような文章があります。 「社会変化に運を任せては当惑している国民を、アメリカ教育の全力をあげて指導していく必要がある」 私が感ずる日本における閉塞感とは今現在の日本がどういう構造で、どのような社会変化が起きているのか、という事を適切に理解していないから当惑している、それが閉塞感につながっているのではないか、それが不安の根源であるならそれを突き止めておくべきだ、と私自身が思ったのです。 もしこの回答を突き詰める事ができれば、このQAを通して一般的な人が持っている社会不安を少しでも解消できるようにも思うのです。 その点において、禅海和尚の話しはどこか共感するものがあります。将来それは人の為、社会の為になるかもしれないけど、結局駄目になるかもしれない。先の見えない孤独な戦いなのです。 格差の上となる藩主の為でなく、格差の下にいる民衆の為である。 僭越ながらそれは私も一緒です。そんな事をやって何になるのか、という意見や舌打ちや嘲笑もあったでしょう。しかしそれに向かって行くのが人なのではないでしょうか。 いや、私自身こんな偉そうな事を言っていても、本当にそれが達成できるのかどうか分かりません。この疑問が解決するのか、そして解決したところで社会の発展に寄与するものなのか(普通に考えれば寄与しないでしょうが)。それでも悩みは浮かんでは私を縛ります。「技術と社会との相関は何か」と。そして広範に啓蒙せしめる事によって、人の不安を消す事ができるのではないかと。その為、できればこの問題を解決したいのです。 最初にも書きましたが、この質問は継続させて下さい。 お前如きの疑問に、禅海和尚の事例を持ち出すな、あまつさえ禅海和尚と同じレベルのものだとは思えない、出直して来いというセリフは目に見えますが・・・。 ご指摘の通り、社会的格差の下の階層に私はいます。 私自身、格差に負けぬよう、この考察は続けて行こうと思います。 論戦としての、そしてその背景や最終的な目的などにおけるお前の戦い方は話しにならん、という意見もございましょうが、百姓は百姓なりの戦い方があるのです。 今後とも宜しくお願い致します。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”社会は確実に発展していっているのに” ↑ マルクス史観ですか? 社会は発展などしていませんよ。 発展したと言えるのは、科学技術だけです。 日本でいえば、少し前の江戸時代では、一番大切なのは 名誉や誇りでした。 それが今ではどうですか。 金銭至上主義、生命至上主義ではないですか。 欲望丸出しの、獣の社会です。 これのどこが発展しているというのでしょうか。 ”閉塞感が拭えないのでしょうか” ↑ 上で答えたように、人間の魂が堕落しているからです。 科学技術の発達が、あたかも人間性の発達のように 錯覚しているからです。
お礼
回答ありがとうございます。 私が言いたかったのは唯物史観に基づく社会発展を言いたいのではありません。むしろ社会全体を包含した大局視点で人間社会を理論的に統制する事は不可能だというのが私の考えであり、そして実際の歴史でもそれらの理論実践は否定されてきたように思います。ただ、今回の質問ではこれらはあまり関係ありません。 質問の主意は「技術発展は社会構成の発展ににどの程度寄与するか、どのように寄与するか」という事です。もう少し範囲を狭めて言えば「技術発展は経済発展とどの程度相関するか、どのように相関するか」になります。 そして頂いた回答では「技術発展と社会の幸福度は相関しない。そのように見えるのは錯覚だ。」という事だと理解しています。 科学技術の発達、もう少し言えば物資を多く供給足らしめる事は、確かに大量消費時代を招きました。これをきっかけにして現代まで続く人間社会のモラルが低下した事は否めません。 確か10年程前でしたか、どこかのレストランで客がセルフで焼く肉をオーダーした時、個別の席へきちんと給仕するのではなく、なんとカウンターの中にいる店員が数メートル遠く離れた4人席へ向かってトングではさんだ肉を「投げて」給仕するというなんとも信じられないニュースがありました(無論、その肉は4人席の皿の上にうまく乗ってくれる訳でもなく・・・)。私はこれを礼賛するような人間ではありません。 ただ、それとは別に技術発展によるより良い物資を供給する事も大事だと思います。 物資が窮乏するという状態については社会として発展させるべきだと考えるのです。 新渡戸稲造「自警録」での新渡戸の友人の話より --引用開始-- その後、世の中の腐敗を聞き、宗教家になろうとまで考え込んだ事があり、また学者となって身を立てようという考えを起こした事もある。 ところが、彼が十九歳のころだったと聞く。ある夜、北国で月明かりの中、一人郊外を散歩していて一軒建ての藁屋の前を通過しようとした。そのとき、ふと隙間から漏れてくる光をたどって屋内を見ると、炉を囲む親子四、五人が一言も交わさずにやっと体を休められるというような感じで座っていた。 そのころ彼は宗教家になろうという思いが最高潮に達していたときであったが、この家族の様子を見て、考えが急に一変した。 というのは、親子夫婦が一緒に働き、雪を踏んで家に帰ると体はすでに疲れきって、夕食を終えれば互いに話しをするだけの元気もなくして、わずかに拾った薪で暖をとり、やっとの思いで身体を休めている人たちが、どうして教育や宗教のことなどを考える余地があろう、と思ったからであった。 彼らに人間らしい精神を持たせるには、まず何よりも衣食が充分に得られる方法を教えなければならない。 といって、衣食の充足だけに目を向けさせれば、ただ贅沢に流れるだけである。衣食充足の方法を教えるとともに、精神的教訓を教えることは勿論必要である。 しかし、ともかく貧しい人たちの経済状態を改善するのが、すべての改良の根本であるという思いに打たれ、その翌日から倫理学、心理学の書物を片付け、急に経済学の書物を読み始めたと聞いた。 --引用終了-- これが全てではありませんが、このように物資や経済が窮乏している所へ、それらを潤沢にせしめうる行為というのはある程度の社会発展の効果を生みます。我々は松下幸之助の水道哲学に言われた「水道の水のように電化製品を社会に溢れせしめる」という理念の実践により、我々の生活というものは豊かであります。 大量消費社会に入った、現代におけるモラル低下は嘆くべき状態である事に間違いありません。しかし、だから物質文明はダメなんだ、昔の方が良かった、と一方向からの観点で見る思想は有閑的な贅沢に過ぎないと思うのです。科学技術の発展により物資が潤沢に供給されるというのは人間社会において一定の安心感をもたらします。科学技術の発展により工業化がなされ、よりよく長く使える基礎的な物資が安価で提供されるという現代では、そのような窮乏によるみじめさを感ずる事はなくなりました。しかしその後、生活の先が見えないという点については科学技術の発展だけでは払拭できない問題だと捉えています。 今感じている閉塞感なるものは物資の製造、生産、供給だけでは打開できず、この問題の解決方法については私の考え方は若干異なっており、清貧に戻る事では解決できないのではないかと思っています。
補足
補足します。 物質文明に対する見解は様々なものがあります。その内の一つ、物質文明に対する忌避感は世の中にある程度通底していると思いますが、それに対する反論がとある書籍にあるので、これを引用します。 マット・リドレー著「繁栄(上)」より28Pから引用 -- 今日、昔のほうが暮らしやすかったと考えている人がいるからだ。はるか昔の生活には素朴さや静謐さ、豊かな人間関係、精神性ばかりか徳もあり、それが失われてしまったと彼らは主張する。このバラ色のノスタルジアを抱くのは概して富裕層に限られることを肝に銘じてほしい。穴式便所を使う必要のない人が小作農の暮らしを懐かしむのはたやすい。一八〇〇年ころの西ヨーロッパか北アメリカ東部を想像してほしい。木骨造の質素な家の炉辺に家族が集まっている。父親が声に出して聖書を読むなか、母親が牛肉とタマネギのシチューをよそおうとしている。赤ん坊は姉の一人があやし、長男はテーブルに置かれた冬季のマグに水差しから水を注ぎ、彼の姉は馬屋で馬に餌をやっている。外では自動車の騒音は聞こえないし、麻薬のディーラーも見当たらず、牛の乳からダイオキシンや放射能が検出されることもない。まったくのどかで、窓の外では鳥が鳴いていて・・・・・・ 待った! 現実はそれほど甘くない。一家は村でも豊かなほうだが、父親の聖書の朗読は気管支炎による咳でたびたび中断する。肺炎の予兆で、この病気のために、やがて彼は五三歳で亡くなる。炉の薪から出る煙は病状を悪化させる一方だ(とはいえ、彼は幸運なほうだろう。イングランドでさえ一八〇〇年の平均寿命は四〇年に満たなかった)。赤ん坊は天然痘で亡くなる。今、この子が泣いているのも、じつは天然痘のせいなのだ。かたわらの姉は、ほどなく嫁ぎ、酔いどれの夫の財産となる。長男が注いでいる水は牛のような味がする。汲んできた小川の水を牛たちも飲んでいるから。母親は激しい歯痛に苦しんでいる。この間に、上の姉は隣家の下宿人に干草小屋で孕まされてしまい、生まれてくる子どもは孤児院送りになる。シチューは灰色で筋だらけだが、いつもはオートミール粥だから、これでもごちそうだ。木の器から木のスプーンですくって飲む。この季節には果物もサラダもない。ロウソクは高価なので明かりと言えば、萌える薪の放つ光くらいだ。 --(引用終わり) この例を引いたからと言って、私は物質文明を礼賛する訳ではありません。昨今の無理矢理に消費を回転させる経済などの倫理観は私も忌避するところです。物質文明には良いところもあり、悪いところもある。 私が新渡戸の友人が体験した時代に戻れと言われたらそれはもうできないでしょう。 先人達が造った恩恵に対して有り難く属するのみ、そして現在の窮乏感の解決や、あるいは原発事故への対応などが、未来に対して我々が行うべき債務なのではないでしょうか。
- 畑山 隆志(@deltalon)
- ベストアンサー率39% (733/1864)
キミ!思考が閉塞しているぞ。 きみのいう技術というのは(どこでも同じだが)あくまで自然界や機械にたいする技術であって人間に対する技術ではない。これまで顕彰されてきた多くの偉人や達人のほとんどがそうだ。 言葉は悪いが管理技術(マネジメント)に優れた人というのはけなされこそすれ褒められたことはない。たとえば日本全土の平和をもたらした徳川家康がいまだにけなされている。 別の視点から見れば政府や役人どもが考えている縦割のままではこの閉塞感とやらは消えることはない。カースト制と同じで、なにか技術が生まれてもたちまちタコツボ化し、権益になってしまうから。そういったうま味に入れなかった連中は恨みを抱き、結局グチのような官僚たたきに向かう。 この縦割りから思考を解き放てば解決法は見えてくる。これまでの縦割りに横串を入れていくこと。実例として第二次世界大戦時チャーチルが設置したXX委員会がある。これは当時の英国国内の情報機関をすべて集めた会議のことだが、その結果として英国に侵入しようとした外国のスパイは100%補足していたと(英国は)豪語している。(これを真似したのが現在米国でいう情報共同体) 今の日本では、さまざまに立案される計画はほとんど役人まかせで、聞かされた住民はただ反対するしかない。これではいつまでたっても同じことを繰り返すだろう。同時に計画を無理矢理スタートしても進行にあわせ計画を修正したり調整したりする考えや人材がほとんどいない。これもまた閉塞感をつくり出し、さらに再生産される。 キミ!疑問を持つことはいいことだけど、範囲が狭すぎる。金魚鉢の中でいくらぼやいても何もかわらない。本当に得心し人を動かしたければシステムを外から見てみることだ。既存のシステムを変え、新たなマネジメントを確立すること。これを戦略という。 1.きちんと言葉を定義すること。他人に説明できなければただのグチ。 2.全体像を常にとらえること。 3.より高い抽象度をめざせ。高い抽象性があればどの世界どの時代に関しても答えが得られる。
お礼
回答ありがとうございます。 技術的発展と社会的な構造の発展とは別物だという事なのですね。 また、私が言いたかったのは、日本全体の社会構造が内包する問題とその定義、そして解決方法であり、日本の公的組織、主に情報機関などの横連携ができていない、あるいは統括する組織が無い事を問題として指摘している訳ではありません。 (素人考えですが、情報機関の統括組織が無いという件については、内閣情報調査室の権限を広げれば良いと思いますがどうでしょうか。以前の安倍内閣の時に似たような案が潰れた経緯を見れば傾向と対策は打てると思いますが・・・)。 また、組織が対象ではないので、組織の中の人をどう運用するのか、という事を対象としたい訳ではありません。この質問で対象としているのは比較的ミクロな組織マネジメント論ではなく、比較的マクロな日本における社会構造の流動と統制がお題になります。 また、この質問における質問の定義自体が出来ておらず大変申し訳無いのですが、この問題については「何が問題なのか」という問題の定義自体が本当に私の中でまとまらないのです。決して丸投げで質問している訳ではありません。 私自身は、子供の頃より「科学が発展する事によってこんなにも明るい未来になるんだよ」と世間で言われ続けた為に、それを信じました。 事実、ロボットが製品を作れば、その分人は働かなくて済むので人間に余暇が生まれる、といった文句は説得力に富み、非常に魅力的でしたが、実際にはさんちゃん工場にリースでロボットが導入されると、工場で働いている従業員はリストラの疎き目に会います。そのロボットですら、作られる製品が古くなるとロボットもリストラとなります。 これにより、技術礼賛は全くの嘘とまではいかないまでも、社会における技術の過度な発展と雇用は相関しない、時によっては逆相関の関係に転ずるので、今まで言われていた万能薬的な考え方は間違いだったのではないかと思ったのです。 「ものつくり」という言葉があり、現在の日本ではそれが大切にされ、あるいはもっと過激に言えば、日本人はその考えに支配されているように私は感じています(無論そうした人ばかりではありませんが)。私は「とにかく製品を誠心誠意込めて作るんだ、そうすれば全て解決する」というような空気を皮膚で感じます。私は製品を誠心誠意込めて作るのは否定しません。それこそが日本の強味です。しかし、その考え方を強力な基盤として持っているがゆえに、その上の構造(雇用などに代表される社会の構成)と、それが内包する問題、そしてその対策をどう打つべきか、という考え方が浸透していないように思われるのです。そして事実私自身もそれらの問題を具体的にどう捉えれば良いのか分かっていません。円高の影響に伴い、とあるラインを突破すれば町工場が潰れてしまうという観測がありましたが、それらは十年程前にものつくりを提唱している際、検討されなかったのでしょうか? ジョン・デューイ著「経験と教育」では、編集者はしがきに対し、次のような文章があります。 「社会変化に運を任せては当惑している国民を、アメリカ教育の全力をあげて指導していく必要がある」 私が感ずる日本における閉塞感とは今現在の日本がどういう構造で、どのような社会変化が起きているのか、という事を適切に理解していないから当惑している、それが閉塞感につながっているのではないか、それが不安の根源であるならそれを突き止めておくべきだ、と私自身が思ったのです。 しかし、それらの現象を普遍的にまとめた法則が見つかりませんでした。「技術発展と雇用確保(生活の安定)は相関しない。それは何故か? 本当は何をすべきなのか? 」といった定義そのものに対する回答は、私の持っている情報にはなかったのです。そしてこれを自前の資料や書籍で解決できないが為に、この問題の本質に迫れる方がいらっしゃるという事を見込み、ここへ質問させて頂きました。上記がこの質問の本質になるかと思います。 ただ、技術を発展させるという事については、私は否定しません。十数年前だったかと思うのですが、カラー写真で、北朝鮮のハサミを見た事があります。説明には、「北朝鮮にはアルミ精製技術が無い為、このようなハサミしか作れない」といった説明がありました。ものすごくレトロで切れ味が悪そうなハサミでした。 このようなハサミを使っている北朝鮮はそれの内部単体では幸福かもしれませんが、他国から観た場合に相対的に不幸であります。 即ち、技術発展は社会的幸福である、という事になります。ですが、上述の技術万能薬否定論と併せると、それ単体では社会的幸福を維持できないという事になります。 また別の話しをすれば、松下幸之助の水道哲学に代表されるように、水道の如く普及せしめた電化製品は、我々の活動時間を比較的に高め、他国と比較して多大な富を得られたようにも思われます。 凹埋めの代表格であった白物家電メーカーはこの時に社会から必要とされ、そして大きな役目を果たし、利益を上げました。 そして前時代までは水道を敷設するが如く電化製品を供給たらしめれば、社会は発展し、利益も出る、という構造は、その凹が埋め終わった時に、社会の需要もそれに応じて減りました。 今現状はそのモデルではなく、埋めた凹をどう維持するか、いかに凸を出すべきか、という点に転換しています。しかし、これは企業の戦略であって社会不安の解消には根本的に繋がっていません。日本製品がいかに高機能を謳っても世界に対して利益が上がらないのは、技術努力が企業利益に比例しないという事への反証でもあるでしょう。 「技術と社会発展の相関メカニズムはどのように構成されるか? 会計で言う損益分岐点はどのように規定されるか? 」 がこの質問の主意となります。 宜しくお願い致します。
補足
皆様、回答ありがとうございます。 この問いに対する回答が見つからず、私の方で五里霧中で探していましたが、最近になってほぼ正解に近い文章を見つけました。 ここに記載しておきます。 週刊SPA! 11月13日号 インテリジェンス人生相談 より抜粋 (同コラムでの参考書籍として、賃金決定のメカニズムに回答した資本論の研究の手引きとして、マルクス・エンゲルス選集第7巻経済学批判より『賃労働と資本』を紹介しています) ----- 賃金は3つの要素から構成されています。第1は、労働者の食費、家賃、被服費、レジャー代など今後1か月消費をして、働くエネルギーを蓄えるために必要な商品とサービスを購入する費用です。第2は、労働者が家族を養って、子供を社会に送り出すためにかかる費用です。マルクス経済学の用語を用いれば、労働者階級の再生産ということになります。第3は、資本主義社会では常に技術革新が行われるので、それに対応するために労働者が勉強する費用です。この3つの要素が満たされていれば、資本主義社会はきちんと回っていきます。しかし、現下の日本のように不況が続くと、第2、第3の要素が切り取られ、賃金は働くためのエネルギーを蓄えるために必要とされるギリギリお水準に切り詰められていきます。そうなると中長期的に、社会が弱っていきます。 (引用ここまで) ----- 私は資本論とその他マルクス関連の資料をきちんと読んだ事が無い為、私の中の解釈や理解として上述の文章を更に精査・研磨しなければなりません。ですが、現時点でこの文章を基に考えて見ますと、マルクス経済学からの観点では、資本主義社会においては技術は勝手に向上するが、それに対する金銭が回らなければ、社会そのものが閉塞するという事になります。 つまりは技術が発展する事から必ず社会が発展する、という事は言えず、むしろ技術のみが社会発展の根幹要素として存在するのではなく、技術と同時に景気(金回り)も大きく絡んできてしまうという事になります。
お礼
回答ありがとうございます。 人間の意図は社会を統制しきれない、という観点を私は持っているのですが、それにこの「疎外」という観念・考え方は非常にマッチします。 疎外がいかなるメカニズムにおいて動いて行くのか、というのも知りたいので、心に留めておきたいと思います。いつか必ずこの問題に当たるでしょうから。
補足
補足します。 私はまだ未読ですが、下記の書籍に答えがあるようです。 経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2) [文庫] http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003412427 「人間の供給が需要よりはるかに大きいとき、労働者の一部は乞食の状態か餓死に陥る」