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昔の発達障害について
- 最近発達障害と言う言葉をたまに耳にします。文献なども子供を対象にしたものが多いですが、外見で判断できないので見過ごされたまま大人になる人もたくさんいるらしいです。
- 実は私も特徴で当てはまるものがたくさんあり、近いうちにメンタルクリニックに行こうかと考えています。現在30代前半ですが、子供の頃は見過ごされるどころか教育や医療現場で発達障害と言う概念自体がなかったような気がします。
- ここ最近「発達障害」と言う言葉を聞くようになったけれど、生まれつきのものなので昔から一定の数の人がいたはず…と。発達障害そのものも二十世紀に発見されたようですし、それ以前の時代に生きていた人たちは今より大変だったのでは?それとも少しくらい風変わりでも、あまり問題にならならずにどうにかなっていったのでしょうか?
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ご指摘の通り、発達障害という概念は新しいものですが、症状自体は昔から見られるものです。 ちょっと前までは、どこか変、ちょっと変、と片づけられていた人も多かったと思います。 また誰でも何かしら当てはまる、と思うのも当然です。だって人はそれぞれ違うものですからね。 ただその違いが、社会生活を著しく困難にしている場合は問題となるのです。 風変りでも何とかなる例としては、ある方面にすごく秀でた才能がある場合。天才と呼ばれる人にはかなり変わった人も多いように思います。今でも学者さんなどには良く見られますね。 また、風変りで人付き合いもむずかしいけど、なんとなく憎めなくて周りが思わず助けてしまうタイプの人もいます。その人の持っているキャラのたまものとも言うべきでしょうが、周囲の理解を得て、何とかなっているというパターンがあります。 結局、「障害」とひとくくりにしてしまう前に、その「人」を見ることが大事だと思います。また、自分がいろんな傾向を持っている、と気づいているなら、そんな自分の「いいところ」を見るようにしてください。 少しでも多くの人が「生きやすく」暮らしていけるのが一番だと思います。 解答になっていないかもしれませんが…
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補足です。 20~30年前は、日本経済も堅調で就労のパイも大きく、ブルーカラー正社員で雇用された人間も多数いたでしょう。運転手・警備員・公園整備等は場合によっては公務員です。 ホワイトカラーでも就労が可能だったかもしれません。売り手市場でしたから。 社会的にも、「精神科に通院するには、見た目にはっきりわかる人間だけ」というのが一般的でした。 本人が、「自分は変だ」と認識しても周囲は「そんなことはない」と嗜めて、仕事の後飲みに行ったり、場合によっては結婚相手を紹介していたりしたと思われます。 段々と本人も、「自分は普通の社会の一員である」と考えるようになり、社会に溶け込んでいったはずです。 昔の医師や教師は、「障害」という考え方を広く社会に浸透させることに抵抗を持ち、障害であるという考え方に反対していました。私の一つ前の回答を見てください。 精神科に子どもを連れて行くことに反対の内科医の話を書いてあります。内科医は、精神医療に批判的であり、その実情に憂慮している人が多かったような気がします。 しかし現在、内科医が精神科医に紹介すると、報酬が加算されるようになりました。 また、教育界でも「発達障害」という概念はなく、そのような概念を振りかざした教員は差別をしていると判断されたはずです。しかし、現在、発達障害も教育の現場に組み込まれてしまい、教員の仕事になってしまいました。 更に、発達障害がなくなれば仕事がなくなってしまうような職業も生まれてしまい、教員も医師も、発達障害児を探すことに熱心になるようになりました。 もし、発達障害児がいなくなれば仕事がなくなってしまう場合もあるのです。 昔は、なぜ発達障害がなくても機能していたのか? 発達障害の専門家もいないため、探しだす機能も無く、就労も安定していて社会生活が軌道に乗り、周囲も病気であると考えずに本人も自覚なく社会に溶け込んでいったためといえましょう。 上記の状況と、現在の状況を比較して、 就労・社会生活を安定させて、自分も病気でないと考えて、かつ専門家の元を尋ねなければ、 以前と同様に、発達障害と認識せずに暮らしていくことが可能になるでしょう。
お礼
20~30年前は、ちょうどバブル経済の頃ですね。 その頃は景気が良かったので、皆仕事があってお金もあったから多少不器用で人付き合いが苦手でもどうにかなっていったのだと思います。 それなりに周りとの付き合いもあり、結婚もできたのは、それだけ人の心に余裕があったのだと思います。 今は不景気で人員削減とかで仕事が少なく、雇う側も仕事の効率化を重視して何でも器用にこなしてコミュニケーション上手な人を好みます。 そうなると、不器用だったり得意不得意がある人は真っ先に不安を感じると思います。 特にそうでない人もこんな不安定な雇用状況の中、心に余裕がなくなってると思います。 だから自分がおかしいとか上手くやっていけないと悩む人が増えたのでしょうね。 障害のあるなしに関わらず、皆が笑顔で暮らせる世の中になれば良いのになと思います。 特に日本は空気を読んでばかりいたら息がつまりそうになるから、空気を吸え!と言いたくなります。 回答ありがとうございます。
医療界が薬物開発に伴い、更なる報酬をあてこんでおり、あまり根拠なく診断基準をつくった部分もあります。 昔は、双極性ii型もなく、働けるような人間は「躁鬱病」とは診断されませんでした。 双極性障害で働いていた人間はいないし、発達障害に関しても、そのような概念がなかったから自覚も無く、普通に就職して幸せになっていたと考えられます。 何かの不都合があっても「病気じゃない」で済まされていた。 昔、従兄が内科医に「絶対に精神科に行くな。病気であるはずない。」と断固反対されたことがありました。 病院へ連れて行こうとした叔母に「病気なのは、むしろお母さんの方です」と断言しました。 内科医のその一言で救われ、従兄は今は元気で暮らしています。以前は、内科医のこういう態度が患者を救っていました。 今は、医療すべての現場が製薬会社と絡んで、利潤を追求しています。 美容整形・精神医療・アンチエイジング(健康食品)は特に問題が多いです。 日本医療に、米国型の資本主義が導入され、治るための医療ではなく生活の利便性の一つとして利用する「趣味的」医療へと変質しました。害があっても患者の選択肢の一つであり、有用性も患者の選択責任と照らし合わせて判断されます。ですので、診断基準は絶対ではありません。 アメリカでは、犬に向精神薬を投与する家庭もあるくらいです。(NHK BSで放映していました。) 発達障害は、治る障害ではありませんから、一生服薬であり医療と製薬会社の利益は膨大です。 昔の「発達障害らしき人たち」は、幸運にも服薬せず、障害の烙印も押されずに長生きしています。
お礼
昔は概念がない上に多少人付き合いが苦手で得意得意があっても、就職して人生もどうにかなっていったから障害がどうとかいう風に問題にされなかったのでしょうね。 今はコミュニケーションが上手くとれなかったりするだけで就職も困難になる時代ですから、発達障害に注目したり問題にしたりするのでしょうね。 こうやって考えると、何だかこんな風に人を細かく分類していくことが病的な感じがします。 回答ありがとうございます。
- suzuko
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支援学校教員です。 大部分の「発達障碍」と言われるものは、いわゆる「コミュニケーションの問題」だとされています。 >生まれつきのものなので昔から一定の数の人がいたはず…と。 おっしゃる通り「昔から一定数いたであろう」と考えられています。 ただ、これもまだ調査段階で、全人口に占める割合は年により変わっています。 >それ以前の時代に生きていた人たちは今より大変だったのでは? >それとも少しくらい風変わりでも、あまり問題にならならずにどうにかなっていったのでしょうか? さて、それはその人の環境によると思います。 江戸時代でも「江戸・上方に住む者」と「田舎に住む者」では出会う人間の数も違うでしょう。 また、複雑な人間関係を持つ場合と、単純な安定した人間関係だけの場合とでは「生きやすさ」は違ってくるかと。 ご参考までに。
お礼
確かに周りの人や人間関係に恵まれていれば、人付き合いが苦手だとしても行き詰まったり衝突したりすることも少なくなる気がします。 回答ありがとうございます。
お礼
私も「発達障害」と言っても、障害ではなく特性と思いたいです。 しかもその特性も全て同じではなく個人差があるのだから、悪いことばかりではないと思うしひとくくりにはしたくないです。 しかし人との違いが昔はここまで問題にならなかったのに、空気を読むとかいう言葉が流行って細かいことまで気にするような社会になってきてしまったのでしょうか。 これでは障害のあるなしに関わらず、皆が社会生活が困難になる可能性がありますね。 言葉だけで分類せず、その人がどういう人かを見て人付き合いしたいです。 回答ありがとうございます。