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三人称文章における客観性の必要性とは?
- 三人称の文章における客観性の必要性について、理解ができない状況です。特に、一人称の主人公説明を三人称で行うことの意味が分かりません。
- 三人称で描かれる文章には客観性が必要であると言われていますが、その理由が分かりません。物語全体を客観的に見る必要があるのはなぜでしょうか?
- 物語の客観性の有無についての違いが分かりません。なぜこの物語では客観性がないと判断されたのでしょうか?感想では後半の会話部分がより読みやすく感じました。
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この批評は、にわか知識をつぎはぎして適当に書いているだけで、意味を成していません。分からなくて当然です。なので無視して結構です。 なお、いい批評かダメな批評かの区別は、その批評が指摘する箇所を直したらどの程度作品が改善されるかで判断するといいです。 人称については、この作品は三人称で書かれていますが、視点の処理については特に問題のある文章だとは思いませんでした(問題は別にあるのですが、それは後述)。三人称で書く際に、客観的に書かなければならないという決まりはありません。 小説の技術をわかった気になっている人に限って、人称について口うるさく言うものですが、彼らの言うことは実践的でも論理的でもありません。ろくに小説を読んだり書いたりしたことのない連中なのでしょう。三人称を客観的な書き方で統一するだけで小説の質が上がるなら誰も苦労しません。 人称(視点)は、どの視点から物語が進行しているかがわかるようになっていれば、特に細かい部分に気を遣う必要はありません。 一人称の場合は特定の誰かの視点でほぼ固定されるので、気を遣わなくてもわかりやすいという利点がありますが、三人称の場合は切り替えが自由なので、その分、的確な視点切り替えが必要になります。 TVゲームをプレイされるなら、客観視点のゲームではカメラワークが非常に大事、ということは理解できるだろうと思います。カメラが壁にめり込んでキャラが見えなくなったり、カメラが激しく切り替わりすぎてキャラがどっちを向いているのかわからなくなったせいでミスったら腹立ちますよね(笑) つまり、どんな状況でもプレイヤーが的確に操作できるようにカメラワークを工夫することが客観視点のゲームでは重要なのですが、三人称視点の小説でもそれは同じです。そのポイントさえ押さえておけば、三人称の地の文に誰かの主観が入ったりしても何ら問題はありません。 この小説の問題点は、人称の問題ではなく、読者のことを考えていない点です。 これもゲームを例にするとわかりやすいのですが、冒頭で何十分にも渡って延々と物語の設定だとか操作方法の説明なんかが流れたらうんざりしますよね。もう説明はいいからとりあえずプレイさせてくれよ! と思いますわな。 そんなわけで最近のゲームでは、とりあえず冒頭からいきなりストーリーを進行させ、簡単なレベルをプレイさせながら、少しずつ操作説明や世界観の説明などをプレーヤーに理解してもらうように工夫がなされています。 小説でも同じで、読者は設定や架空の世界の歴史が読みたいのではなく、魅力的なキャラクターの言動やストーリーが読みたいわけです。 だから、冒頭からキャラクターを魅力的に動かし、その中で必要な説明を読者にストレスを与えずに少しずつ流し込んでいく工夫が必要になるのです。その工夫が成されていないから、前半は読むのが苦痛で、まあ、後半の会話文がたくさん出てくるあたりでようやく読みやすくなるわけですね(もっとも、この会話文は魅力的とは言い難いですが)。 小説は、読者にどう読まれるか計算して組み立てる必要があるのですが、この小説の作者にはそもそも「読者」という観点がなく、ただ書きたいように書いているからダメなのです。 人称について知りたい人には、アガサ・クリスティをお薦めすることにしています。読みやすくて面白くて、その上様々な視点技術を使っており、非常に実用的です。 三人称だと『そして誰もいなくなった』、『ゼロ時間へ』、一人称だと『アクロイド殺し』、『ABC殺人事件』がおすすめです。
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- toast5
- ベストアンサー率37% (239/638)
小説が作者の主観でしかないのは、当たり前。 そのことと、何人称で書くかは、ぜんぜん関係ありません。 「一人称の主人公説明を三人称でやるのはダメ」という主張も、 意味不明ですが、「太郎は、そんな花子を好もしいと思った」みたいに、 三人称で書きながら主人公の内面を描写する小説なら、 山のようにあります。別に、ダメじゃないですよ。 それに続いて「花子は、腹を空かせていた」とやるのは 「三人称多元描写(いわゆる "神の視点")」、 最初から最後まで太郎以外の人物の内面描写いっさい無しでいくのは 「三人称一元描写」と呼ばれます。
- カルマ(@mimicry-budda)
- ベストアンサー率18% (280/1490)
お早う御座います。 No.2の回答者です。 「お勧めの小説」を、ということなので。 ★『吾輩は猫である』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E8%BC%A9%E3%81%AF%E7%8C%AB%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B ↑ あまりにも有名な作品ですが。 「一人称」、それも「猫の視点」から書かれています。 「一人称」という「視点」が解れば、「三人称」の小説は無数に有ります。 お好きな分野の小説を沢山読まれてみては如何でしょうか?。
- sayayako
- ベストアンサー率28% (28/99)
この文章は一人称で書いた方が良かったと思う。 主人公の感想とか、主人公の気持ち、内面の話をたくさん入れたいようだ。 なのにむりやり三人称にしているので不自然で変。 読みにくい。 三人称にするなら主人公の気持ちを減らし、全体を書いた方がいいし 一人称にするなら能力者などの複雑なストーリーは説明が大変なので難しい。 複雑な話を主人公の感情心情たっぷりに書こうとするから一人称と三人称がどっちつかずになって意味が分からないのだと思います。 最後の会話は一人称になってるからまだまし。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
1. >一人称の主人公説明を三人称でやっちゃうとこうなる。 とはどういうことでしょうか? 最初の8行を問題視しているようですが、よくある始まりのように見えます。 どこがおかしいのでしょうか? : 「三人称でやっちゃうとどうなるのか」という説明(解釈)がなされていることはわかりますが、なぜそれが良くないのか、という論理性に欠ける文ですね。 この(一応)批評家さんは、続けて、 『>作者が主人公を乗っ取って説明をしてるような状態。「高く」「青い」「静か」こうした言葉はすべて作者の主観でしかなく、それを読者に強制している』 と述べていますが、それは単に三人称という表現形式の説明にすぎません。 ノンフィクションでもないかぎり、(結果的に)作者の意図を読者に「強制」することになる(あるいは読者が強制されたかのように感じる)のは小説の宿命であり、当然のことです。 『>100人中100人が「高く」「青い」「静か」と感じるのか?と考えればおかしいことは誰にでもわかるが、客観性の無さが三人称では露骨に出る。これが一人称ならごまかしやすい。』というのも説明不足の記述です。 『>客観性の無さが三人称では露骨に出る』とのことですが、読者は客観性を求めているわけではありませんから、そのことだけを取り上げて「>おかしい」というほうがおかしい。 では、一人称でごまかしやすければ、それが良い小説の条件になり得るのか?と考えればすぐにわかることでしょう。 2. >この物語は一人称で描かれているのでしょうか? 三人称で描かれているのでしょうか? : 「わたし・僕」といった一人称が出てこないので、基本的には三人称ではないでしょうか。 どちらの場合も情景描写、つまり、「人称外」の表現は混在するはずです。 3. >客観性の無さが三人称では露骨に出る 三人称で描かれるものに客観性が必要と言うのは何故でしょうか? : というより、客観的な視点で描かれる場合に、それを三人称の視点と呼ぶのでしょう。 「>客観性の無さが三人称では露骨に出る」というのは、 「>客観的視点が必要とされる三人称では、その客観的表現の巧拙の差が際立つ」といった意味でしょう。 4. >物語全体を見るには客観性が不可欠になる。 客観性がある文章とない文章の違いは何でしょうか? : この批評家さんが使っている客観性というのは、小説全体の構想を大局的に俯瞰する能力、といったような意味なのでしょう。 つまり、主人公の主観を離れた(主人公の視点とは別の)作者としての構想力が必要だ、ということだろうと思います。 それはそのとおりなのですが、ただ、このことと一人称表現か三人称表現かということと関係はありません。 典型的な一人称である私小説を書くにしたって構想力は必要になるわけですから。 彼はこの点を混同しているように見えます。 5. この物語では、何故、客観性がないと判断されたのでしょうか? : 三人称の場合、客観的視点がより必要とされるにも拘わらず、その技術が不足している。 ということを言いたかったのでしょう。 「客観性がない」と言いたいわけではないはずなので、国語的には誤った表現になっています。 要約すると、小説には基本的に複数の人物が登場するでしょうが、客観性を持ってそれぞれのキャラクターの視点を構築しないと、全員が作者の分身であるような(つまり一人称的な=メリハリのない)キャラクターになってしまい、つまらないものになるだろう、と言いたいのだと思います。
- カルマ(@mimicry-budda)
- ベストアンサー率18% (280/1490)
【三人称】 「話し手」、「聞き手」以外の「第三者」を指示する人称。 ↑ 先ず、「三人称」の定義です。 URLの、冒頭8行。 ★「正しい三人称」で有れば、状況の説明をするダケに成ります。 >ヤハギ ケンタは、性格さえ明るければ、友達も多く、恵まれた学校生活を送れたかもしれない。 >ヤハギが、明るく、そして―――能力者であれば、―――友達も多く、恵まれた学校生活を送れただろう。 ↑ これは、「ヤハギ」という主人公の「心象」の表現で、普通「三人称」では説明出来ないしょう。 「恵まれた学校生活を送ってるか、どうか」なんて、この場面からは「本人」にしか解らない事なのです。 更に。 >この世界は、能力者でなければ、成功できないとさえ、言われる。 ↑ 冒頭8行の、最後の文。 これも、取って付けたようで「不自然」な感じがします。 まだ物語が始まったばかりで、ヤハギが何者かも解らない。 「能力者」で有るかどうかもハッキリしない。 なのに、 >「能力者でなければ、成功できないとさえ、言われる」 と持って来られても、読者側は「意味不明」です。 >三人称で描かれるものに客観性が必要と言うのは何故でしょうか? >客観性がある文章とない文章の違いは何でしょうか? ↑ 冒頭。 >>空がどこまでも高く、青い。風は静かに流れ、教室のカーテンを揺らす。 作者の主観が入ってますよ。 『何処までも青い空』、『静かに流れる風』は、主観的表現。 感想文の通り、誰もが上のように感じるモノでは無いからです。 客観的に表現するなら、 「風が教室のカーテンを揺らした」 程度だと思います。 >客観性がある文章とない文章の違いは何でしょうか? >この物語では、何故、客観性がないと判断されたのでしょうか? ↑ 冒頭の8行を、何度か読み返して見れば解ります。 最初の1行に、十分「主観」が入ってますよね?。 ★「主人公の説明」も、先ず淡々と「客観的」に「外見の説明のみ」に留めるべきだったのです。 先の文とダブりますが、 >恵まれた学校生活を送れたかも、云々・・・ は、未だ何も解らない事なのです。 しかも、 >それには一つ言い足りない。 ↑ と、「三人称」を逸脱した表現まで登場します。 これも、あまりに「主観的」。 この際、「一人称」、「三人称」の「基本」を勉強されてみては?。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
最初の3行を見てみます。 1。 空がどこまでも高く、青い。風は静かに流れ、教室のカーテンを揺らす。 2。 窓から見えるグラウンドにて、特殊能力精鋭第三クラスが能力運動をしている。 3。 それをみて、ヤハギはため息をついた。 三行目になって、はじめて主人公が三人称で登場し、それまでは、はっきりしていないように思います、ということは、既にこの批評家は、一人称で書かないとだめ、という先入感にとらわれているのではないでしょうか。 第2の先入観的物差しは、客観性があればよい、なければ悪い、と言っているようですが、いったいなぜ、三人称で書くと > 客観性がない > だからだめ、と進めるのか僕にはよくわかりません。 何か途中の大切な立証過程が欠けていて、えらい先生なら「は、そうですか?」と引き下がって、「あの方も認知症ですね?」、小童なら「あ、そう?」で終わることのような気がします。
お礼
ありがとうございました。 >三行目になって、はじめて主人公が三人称で登場し、それまでは、はっきりしていないように思いま >す、ということは、既にこの批評家は、一人称で書かないとだめ、という先入感にとらわれているので>はないでしょうか。 この批評家と言うのは、URL先の物語に感想をつけていた人ですよね? この方が一人称で書かないと駄目、という先入観に囚われているのでしょうか? 三人称にこだわっている方のように見受けられましたが、何故、一人称で書かないと駄目と思い込んでいるのでしょうか? >第2の先入観的物差しは、客観性があればよい、なければ悪い、と言っているようですが、いったいな>ぜ、三人称で書くと > 客観性がない > だからだめ、と進めるのか僕にはよくわかりません。 これはそうですよね。 この物語を書いている人の文章は、三人称と一人称がごちゃ混ぜで、客観性がなくてふわふわしてますよね。 感想を書いた人は、客観性の重要性に固執してますよね。 三人称で書くと > 客観性がない > だからだめ、 ここが分からないんですが、三人称の部分は一人称の書き間違いでしょうか?
お礼
ありがとうございました。 とても分かりやすかったです。 三人称と一人称が、この物語ではごちゃ混ぜになっていて、わかりづらい、ということを感想をつけた人はいいたかったのでしょうか? No.1さんの言うように、感想をつけた人は、三人称で客観性のある文章が最上位、という考え方の人のようですが、本として出版されている小説でもそうなのでしょうか? それと、三人称と一人称の基本を勉強したいのですが、オススメの小説はあるでしょうか? もしあれば、教えて欲しいです。 おねがいします。