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中国語教えてください
以下の文書が正しく翻訳していますか?直して欲しいです。 南部(なんぶ)紫(むらさき)染(ぞめ)は、はじめ”岩手根紫(いわてねむらさき)”の名のもとに、遠く鎌倉(かまくら)時代(じだい)すでに天下に周知(しゅうち)されていましたが、南部信直公盛岡治(じ)城(しろ)以後代々国産として保護(ほご)奨励(しょうれい)に力を致され(いた)、良質(りょうしつ)豊富(ほうふ)に算出(さんしゅつ)される山野(さんや)自生(じなま)の紫草根と、独自に発達した染(せん)技法(ぎほう)、並に大桝(おおます)・小桝(こます)・立(たて)桶(わく)の単純(たんじゅん)素朴(そぼく)な絞り(しぼ)とにより染出され(せんだされ)、こゝに、”南部紫”と呼称するに至りました。 南部(なんぶ)茜(あかね)染(そめ)は、前記(ぜんき)南部(なんぶ)紫(むらさき)の姉妹(しまい)染(せん)として共(とも)に、昔(むかし)から当地方(とうちかた)に特産(とくさん)されて来た(き)ものです。 南部紫染,开始在"岩手紫草根"的名下,在很久的镰仓时代已经为天下所知, 南部信直公盛冈治城以后世世代代作为国产保护奖励的力量,质量丰富的山野野生药用紫草根,独自開発了染技术,根据普通的大桝・小桝・立桶单纯朴素的斑点,称做与"南部紫"。 南部茜染,作为上述南部紫姊妹染一同,从很早以前被当做地方特产。
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- wlm9897
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おはよう、ございます。 南部紫染,开始在"岩手紫草根"的名下, (南部紫染是根据岩手紫根而命名的。) 在很久的镰仓时代已经为天下所知, (早在镰仓时代就已经闻名天下) 南部信直公盛冈治城以后世世代代作为国产保护奖励的力量, (南部信直公盛冈治城以后世世代代将其为地方特产,致力于南部紫染的保护,奖励。) 质量丰富的山野野生药用紫草根,独自開発了染技术,根据普通的大桝・小桝・立桶单纯朴素的斑点,称做与"南部紫"。 (利用出产于山野的品质优良,数量众多的紫草根和独自开发的染色技术,加之大桝・小桝・立桶等简单朴素的花纹染出作品,至此,才被称为南部紫。) 南部茜染,作为上述南部紫姊妹染一同,从很早以前被当做地方特产。 (南部茜染,作为上述南部紫姊妹染从很早以前和南部染一同被当做地方特产。) 今度もよろしくお願いします。
補足
紫(し)根(こん)染(ぞめ)の歴史(れきし) 紫(し)根(こん)染(そめ)はムラサキ、茜(あかね)染(そめ)はアカネという植物(しょくぶつ)の根(ね)からとった染料(せんりょう)で染(ぞ)めあげたもので、日本(にほん)に古(ふる)くから伝(つた)わる草木染です。 紫草根染是用紫色,茜染是从血见愁这个植物的根取的染料染的,以前传説的日本草木染。 南部(なんぶ)地方(ちほう)に伝(つた)わったのは鎌倉(かまくら)時代(じだい)以前(いぜん)といわれ、南部(なんぶ)藩政(はんせい)時代(じだい)には、藩(はん)の手厚い(て あつ)保護(ほご)の下(した)に生産(せいさん)されていましたが、明治(めいじ)の時代(じだい)になりその保護(ほご)が解(と)かれてからは、盛岡(もりおか)地方(ちほう)には、伝統(でんとう)技法(ぎほう)を伝(つた)える人(ひと)が完全(かんぜん)に途絶(とだ)えてしまいました。 镰仓时代以前传到了的南部地区,南部藩政时代,在藩的热情保护下生产,不过,到了明治时代保护被解除,盛冈地方,完全没有了可以传达传统技术的人。 しかし、大正(たいしょう)5(1916)年に、紫(し)根(こん)染(そめ)を復興(ふっこう)させるため県(けん)の主唱(しゅしょう)により紫根染の研究(けんきゅう)が始まり(はじ)、秋田県(あき た けん)の花輪(はなわ)地方(ちほう)にかろうじて残(のこ)っていた技術者(ぎじゅつしゃ)を招いて(まね)その技術(ぎじゅつ)を学(まな)び、更(さら)に独自(どくじ)の技法(ぎほう)を開発(かいはつ)、その後大正7(1918)年「南部紫根染研究所」が設けられ、草(そう)紫堂(しどう)初代藤田謙が主任(しゅにん)技師(ぎし)として赴任(ふにん)いたしました。 可是,大正5(1916)年,为了让紫草根染复兴通过县里的提倡开始研究紫草根染,在秋田县还留有花園的地方招收技术人员学,更加开发了独特技术,此后大正7(1918)年设置了「南部紫草根染研究所」,草紫堂第一代藤田谦作为主任工程师上任。 昭和8(1933)年、南部紫根染所究所の主任(しゅにん)技師(ぎし)であった先代(せんだい)藤田(ふじた)謙(けん)が独立し、現在の地に「草紫堂」を創業(そうぎょう)、いままでの素朴(そぼく)な図柄(ずがら)(大桝(おおます)、小桝(こます)、立(たて)桶(わく))に加え(くわ)、数多く(かずおお)の新しい(あたら)デザインを生み出し(う だ)、現在(げんざい)の絞り染(しぼ せん)の基礎(きそ)を築(きず)き上げました。 昭和8(1933)年,是南部紫草根染所究所工程师的上一代藤田谦独立的,创业了现在的「草紫堂」,到现在朴素的图案(大桝、小桝、立桶)之外又加上了,许多新的设计,形成了现在的斑点染基础。 近年(きんねん)、染料(せんりょう)となる根(ね)の入手(にゅうしゅ)が以前(いぜん)より難しく(むずか)なったこと等(など)から、風合、特徴(とくちょう)、堅牢度(けんろうど)を失(うしな)わないよう、工夫(くふう)された化学的(かがくてき)方法(ほうほう)も取(と)り入(い)れ、更(さら)に高度(こうど)な絞(しぼ)り技法(ぎほう)の開発(かいはつ)と、その技術者(ぎじゅつしゃ)の養成(ようせい)に力(ちから)を注ぎ、現在(げんざい)では「南部(なんぶ)しぼり」として内外に高(たか)い評価(ひょうか)を得て( え)おります。手(て)絞(しぼ)りによる微妙(びみょう)に異なる(こと)染(ぞ)めムラの美(うつく)しさと、年(ねん)を経(へ)るごとに一段と(いち だん)味( あじ)わいが出(で)てくる色(いろ)の変化(へんか)も特数(とくかず)と魅力(みりょく)のひとつになっております。 近几年,比起以前现在的染料根很难买到,不能失去手感,特征,坚固度,设法用化学的方法采取,使更加高度的斑点技术开发了,为了培养技术人员投入了力量,现在作为「南部绞」得到着内外高度的评价。由手斑点的微妙不同的染色和美丽,每经过一年就更加的变化也成之为特数和魅力之一。