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生産性と平等
社会主義の問題点はひとえに 働く者と働けない者はいざ知らず 働かざる者をも 平等にしたが為の 生産性の低下にある と聞きました だから社会主義は失敗した… でも、資本主義にも問題はあるようですよね。 そこで皆様に質問です 一、労働意欲と生産性を高いレベルで保ちつつ、ある種の平等を保つ社会構造の実現は可能だと考えますでしょうか? 二、もし可能だと考えられた場合、どの等な方法論があるでしょうか? 反対に不可能だと考えら得た場合、どこに根源的な問題があるでしょうか? ご教示宜しくお願い致します。
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ミッテランの経済政策については、ここで縷々と説明するにはスペースが足りないでしょう。断片的な知識をかじるより、ちゃんとした解説を読むことをお薦めします。 http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/16505/1/36%284%29_p53-85.pdf http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/16486/1/36%281-2%29_p511-526.pdf 私は、彼は「大きな政府」を目指したが道半ばで頓挫したと思います。原因はいろいろありますが、経済の国際的環境が大きな障碍となったことは確かでしょう。言い換えれば、国際経済に強力に組み込まれた国が社会主義的政策を採ろうとしても国外の情勢によっては上手くいかないことが実証されたと思います。 社会主義と民主主義の並立については、北欧諸国がひとつの回答ではないかと思います。これらの国は累進課税率が高く消費税率も高いです。富の社会的偏在を国家の力でかなりの割合で再配分しています。ただし計画経済、つまり商品価格の国家による統制は行っていません。これら国家の手厚い福祉政策や教育政策は定評があり、国民の幸福度調査でも上位に位置します。「税率が高い=重税にあえぐ国民」とは言えないのです。 そして、市場主義ですね。Noubleさんが考え、例に挙げている弊害は確かにあるでしょう。しかし、それらは弊害であって、本質的欠陥とは言えないと思います。わかりやすい例として選挙制度を考えてみましょう。選挙には票を金で買う行為や、地域のボスが立候補の邪魔をしたり、誹謗中傷による選挙妨害などなど、選挙結果をゆがめるような弊害はいくらでもあります。しかしながら、有権者個人個人の票を集計して政治家を選ぶという仕組み以外に、民主的な方法、あるいは有権者が納得せざるを得ない方法はありません。これと同じく、市場経済を健全に保つには、商品価格の適正な決定の仕組みをゆがめるような行為を、努力して排除し続けるしかないでしょう。
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- 2zztmk
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唯物史観 唯物史観(ゆいぶつしかん)は、「唯物論的歴史観」の略であり、史的唯物論(ドイツ語: Historischer Materialismus)と同義である。19世紀にカール・マルクスの唱えた歴史観である。その内容は、人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在しており、無階級社会から階級社会へ、階級社会から無階級社会へと、生産力の発展に照応して生産関係が移行していくとする歴史発展観である。 (ウィキペディア) してき‐ゆいぶつろん 【史的唯物論】 《(ドイツ) historischer Materialismus 》マルクス主義の歴史観。歴史の発展の原動力は、社会的生産における物質的生産力とそれに照応する生産関係とからなる社会の経済的構造にあるとする立場。その上に政治・法律・宗教・哲学・芸術などの制度や社会的意識形態が上部構造として形成され、やがてその生産関係は生産力の発展にとって桎梏(しっこく)(束縛するもの)となり、新しい、より高度の生産関係に変わるとされる。唯物史観。 (コトバンク)
お礼
有り難うございます。 >無階級社会から階級社会へ、階級… アンドロメダ星雲からおぼろげに見える太陽を観たら その太陽の揺れでしか確認できない地球に このような社会構造が確かに見えるかも知れないですが これは事実関係や因果関係や経緯、人間の叙情と理性を全く織り込めておらず 故に「風が吹いたら桶屋が儲かった」的レベルに 成り下がってはいないでしょうか? 済みません 無知だからこそ怖いもの知らずで出てくる質問ですね、 ただ解らなかったもので お付き合い頂ければ幸いです。 多分解説を頂ければもっとましな質問が出来ると思うのですが…
- thank27
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どんな教科書でも社会主義と資本主義を比べ前者は失敗と言いますが そもそも完全国営平等な労働を旧ソ連がやっただけで歴史でもほんのすずめの涙の期間、両者を比べること自体おかしいことです 超貧乏&混乱&独裁者の存在でおこった稀なケースが共産主義です 太古の昔から基本は弱肉強食資本主義はふつうのことですね ただし先進国ともなれば国民が不幸にならないように 企業や個人の経済活動を法律でコントロールしています 日本は戦後復興、好景気、を経過して本当の不景気に対処し切れていないことも多く、しかし官僚組織が社会主義的な部分があるので今しばらく停滞します 日本は効率的な生産のため企業群を守り、資本主義を貫くことを実践 資本主義は人類の普通の姿であり 生産性をよくするにはこれ以外はありません あとは規制の良し悪しが資本主義評価の対象になります
お礼
有り難うございます。 >どんな教科書でも社会主義と資本主… 私もこれは間違い… と、言うか勝者の記述、資本主義国家の書かせたもののように感じています。 運用を誤っただけで社会主義が愚かで 資本主義が社会主義に勝っているとは到底思えません どっちもどっちでどちらも推奨できるレベルものでではないと感じます。 ただ 第三の経済的回答がまだ示せない私なので 仰るように「愚策でも運用に頼るしか無い」と 同感(?)に思います。
- kaxuma119
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私は、労働の成果も含めて商品の価値を決定する方法は「市場に任せる」以外には無いと思います。商品の価値決定を市場に任せるというのは、経済的な民主主義ともいえるでしょう。消費者は金でもって投票するわけで、不人気商品や非効率なもの割高なものは自動的にランキングが下がり最終的には経済活動の場から退場することになります。 ただし市場で価格がちゃんと需給バランスを反映したものになるような政策は必要になると思いますが、それは国家が価格を決めるという計画経済とは異なるものです。具体的にはまず実需を伴わない投機の抑制が、景気変動・物価上下動の無用な波乱を減らすことになると思います。もう一つ大切なのは、徹底した自由競争環境の維持であり、カルテルや価格以外の力による市場独占を排除することでしょう。 独裁的で無ければ社会主義は成功しうるか?という問題については1981年5月から1986年3月までのフランスのミッテラン政権が成功だったか否かを考えることになるでしょう。この時代は社共連合政権であり、企業の国有化や積極的投資政策、労働時間の削減等の伝統的な社会主義政策が採られましたが総選挙で敗れて中道に政権を譲りました。 5年余りしか機能しなかったという見方もできますが、少なくとも5年間は先進的な国家で社会主義的政策が適用され、独裁に陥ることなく民主的プロセスで政権委譲したという見方もできるでしょう。 私は、選挙の自由が侵されないのであれば、一時的な社会主義政策は国家の選択肢の一つになりうると思います。社会的な富の偏在が構造化され世代を超えて引き継がれ社会的な閉塞状況が続くようになれば国家は活力を失います。これをある程度解きほぐし、リセットとまでいかなくても、違った状況をもたらすことができるのであれば、一時的な社会主義政策は有効でしょう。
お礼
済みません、やはりドチテ坊や化しますね 出来ればお付き合いください。 まず 私は「ミッテラン政権」がどのような舵取りをしたのか全く知らないのですが、 一、選挙制と議会制と憲法制を変更せず、その枠組みの中で社会主義をどの程度推進できるものか、 また実際に「ミッテラン氏」はどのような政策を求め、どのような果実をもぎ取ったのか 二、民主主義と社会主義は並列しうるのか? 次に市場主義(というのでしょうか?)についてですが これは 消費者にある程度の完全性が 暗黙の内に求められているように思うのですが、 実際には 教育レベルや非基本生活費(といって伝わります?)額、その他の統計的偏りによって 傾向が顕著に表れてしまい、 「競争力のあるものは勝ち残る」的平等には 決してならない気がしています。 消費発信者は当然これらを踏まえるべきで、 マーケティングにいかに織り込むかも競争の内 という解釈が妥当なのですか? でも 振り返って 為替などの投機的流れを初めとする実際の購買活動を伺うと むしろ全く論理性の無い意味不明な、 というか いっそ「反射的な理不尽衝動」のみでのリアクションが 顕著に観られないのでしょうか? そう、例えるなら オイルショック時のトイレットペーパー買い占めや 風評被害のように… これは既に 消費発信者が想定可能な範囲を超えているように思え、 結果として正当性や平等性を失いつつあるように感じてしまいます。 この点についてはどのような見解をお持ちでしょうか? P・S・ 何度も言うようですが、 決して攻撃を意図していたり、ましてや喧嘩を求めている訳では無いと お察しください 何分私の周りに こういった高い見識を 私に示してくれるものが居ないもので つい熱が入ってしまいます。 筆末で申し訳有りませんが お気に障る点はご容赦頂ければ幸いです。
- ksm8791
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一の質問については可能だと断言はできませんが、常に方向性としてそういう社会を目指す意識は必要だと思います。 米国のデモを見ても分かるように格差が大きい社会は上記の理想の真逆の状態だといえるでしょう。 いまの日本も財界主導の金持ち優遇の社会になっています。 累進課税をあげることで格差是正をすすめる必要があるように思われます。 しかし、それは共産主義を意味していません。「差が少ない」というのと「差が無い」というのとは決定的に違うのです。アメリカや現在の日本のように格差が大きい社会は(ほんの一部の人を除き)活力を奪うものです。格差が小さいほうが目標とする人の背中も見えて頑張れる人が多いのです。これについては心理学的にもそう言えると和田秀樹氏《精神科医(川崎幸病院精神科顧問)、臨床心理士、国際医療福祉大学臨床心理学専攻教授、一橋大学特任教授、学校法人成城学園理事、起業家》は自身の本に書いています。 (全国民の中で生活に苦しむ人の割合を示す「相対的貧困率」が2009年の厚生労働省の調査で、過去最悪の16.0%となった。OECDでも加盟30カ国中、4番目に悪かった) 総中流と呼ばれ活気に満ちていた頃のように累進税率を上げて『生活水準の大圧縮』を実行すべきだと思うのです。 《話は逸れますが日本経済復興について少し書きます》 日本は小泉・竹中路線が象徴的なように「アメリカ型」の社会、「金持ち優遇」の社会をつくってきました。 その結果、非正規社員の割合が増え、正規社員を含め労働対価は大きく減少していきました。 果たしてこれでよいのでしょうか? 2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン。 彼は自身の本「格差はつくられた」のなかでこう説いています。 「アメリカはリベラルが強かった時代のほうが良かった」 また、彼は「国際競争力というものはペテンだ」と言い国際競争力をつけなくてはいけないからと言って賃下げをするのは愚の骨頂だと主張しています。 第二次世界大戦後イギリスやフランスといった戦勝国でさえボロボロになったのに対し、アメリカだけがなぜか戦後不況に陥らなかった。 どうしてかというと「総中流化した国民が概ね経済的にゆとりを持てていたから」なのだそうです。 最低賃金を上げたり、労働組合に対する規制も緩める政策をしたルーズベルト。 その後のトルーマン大統領はさらに高額所得者への最高税率を上げることもしました。 その結果何が起こったかというと、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、自動車といった製品を一般庶民が持てるようになったのです。 『生活水準の大圧縮』のおかげで多くの人の生活水準が上がり、企業は何を作っても売れるようになったということです。 ここで歴史をひもといてみます。日本がアメリカに勝ったのは家庭用ビデオデッキが開発された時でした。日本のビクターがVHS、ソニーがベータ、アメリカが別の方式でした。 発売当初の値段はビクターもソニーも25万円くらい、アメリカ企画の製品は1000ドルぐらいでした。 当時は1ドル250円くらいだったので同程度の値段といえるでしょう。 ところがアメリカでは70年代半ばから貧富の差が開きはじめていましたから大衆には手が出せないものになっていたのです。 一方、日本の一般労働者はボーナスをはたいてもビデオデッキを買いました。 しかし、アメリカの労働者は1000ドルのビデオデッキは高いといってなかなか買いません。 日本は順調に売り上げを伸ばしていきました。そして大量生産が可能になっていくのです。 結果的にどんどん価格を下げることができ、アメリカ市場においてもアメリカの規格を駆逐するまでになったのです。 それ以降、8ミリのビデオカメラも同じ状況でした。日本が先行して売れて大量生産が可能になりました。その後アメリカでも1000ドルをきる値段で売り出すことに成功し、とたんに猛烈に売れだしたということです。 私はここに経済再生のヒントがあると考えているのです。 マルクスは「資本論」の中で必ずしも資本主義が間違いであるとは言っていません。良い部分もあるけれど、問題点が多く規制を加えないと暴走した資本によって労働者は搾取され続け、それがどんどん膨れ上がり崩壊するという事をいっているのだと思われます。そして団結された労働者によって革命が起きて社会主義が生まれるという流れになっています。 ソ連や中国の社会主義はマルクスの考える発展の流れとは違い、本来あるべき資本主義が成熟し労働者が団結するという段階を経ずにいきなり共産党という指導的立場の人間・組織が現れ、農民などを指導して作り上げたものでした。だから失敗したのだと主張する人もいます。 1990年前後に社会主義の国が次々と崩壊していく中で、新自由主義の考え方が主導権を握っていきます。冷戦時は対抗馬である社会主義の考え方の良い部分を取り入れ「格差の是正」や「労働者を守る規制」についてもしっかり取り組んできました。特に日本、韓国、西ドイツなどは資本主義陣営のショールームとしての役割を担っていましたから非常にバランスの取れた国造りになっていました。しかし冷戦終結後はその役割もなくなり、すべては「市場」「マーケット」に任せましょうということになりました。自己責任という言葉が飛び交い、派遣労働の自由化を推進したり「規制緩和」の掛け声のもと、全てを自由化していきました。その途端に、再び恐慌が起きるようになったのです。 『荒廃する世界のなかで』という本の中で故トニー・ジャット氏(元ニューヨーク大教授)は次のように書いています。 【裕福な少数者と貧しい多数者との隔たりが拡大すればするほど、社会問題は悪化する。これは富める国と貧しい国の両方について言える真実だと思われます。国が裕福か否かではなく、不平等か否かが問題なのです。スウェーデンやフィンランドは、国民一人当たり所得あるいは国内総生産(GDP)で世界最高の富める国ですが、金持ちと貧乏人を隔てるギャップは非常に狭く、かつ、計測可能な福祉指標において常に世界トップを行っています。それとは逆に、アメリカ合衆国は富の総量はまことに巨大ですが、こうした尺度に照らすと、いつもしんがりです。】 【「社会主義VS自由主義」とか「共産主義VS資本主義」といった20世紀の道徳物語は人を惑わせるものであることが、わたしたちには分かるのです。資本主義は政治のシステムではありません。それは経済生活の一形態であり、実際問題としては右翼の独裁政(ピノチェト支配下のチリ)とも、左翼の独裁政(当今の中国)とも、社会民主主義の君主政(スウェーデン)とも、富豪支配の共和政(アメリカ)とも、両立できるのです。】 【現代ヨーロッパの政治を散文で表せば、何らかの形の社会民主主義となるのです。国家が担うべき責務に関して、その範囲についてかなりの違いはあるにせよ、社会民主主義の中核的諸前提に異を唱えるヨーロッパの政治家などおりませんし、影響力のある政治家ならなおさらそうです。その結果、今日のヨーロッパにおける社会民主主義者には、格別に提起できることなどないのです。例えばフランスでは、国有化を支持しようとする彼らの傾向も、ド・ゴール主義右派がもつコルベール的本性と見分けがつきません。今日の問題は社会民主主義的政策にあるのではなく、その使い古された言語にあるのです。左翼からの独裁主義への挑戦はもう消滅してしまったので、「民主主義」を強調することは、概してもう不要なのです。今日のわたしたちは、みんなが民主主義者なのですから。】 米国、英国、日本のような新自由主義的な国家は格差社会となり一部の人のみが優遇される状況に陥りがちです。ヨーロッパでは中心的な思想でもある社会民主主義的な社会へ日本も方向修正すべきだと思われます。 ご参考にしていただけたら幸いです。
お礼
有り難うございます。 私の中に今まで全くなかった「目」が少し開いたように思えます。 で、 その目が何を観たか… を お礼の代わりに述べます。 決して正しく観れていないとは思いますが、 お付き合い頂ければ幸いです。 さて、 私の観たものですが 何故バブルは崩壊したか? です。 今回お教え頂いた内容から 有用な消費者の量×統計的単位非基本生活費額が 経済を支える財源として有力で いわばこのマックスな面積が 総中流社会である。 で、 ここで言う中流とは 世界最大級の排水量を誇るような超豪華クルーザーでの旅行などは望めないが 取りあえず頑張って頑張って頑張って働けば 「こぢんまりしたそれなりな一軒家」 それ位の嗜好品までは買える階級 ある程度は消費に無頓着でいられる階級を 意味するように思います。 振り合えってバブル末期を観ると 今挙げた「本来の中流層」が その階層から下ブレし始めていたように思えます。 必然的に 「有用な消費者の量×統計的非基本生活費額」が示す面積が減退して 経済を支えきれなくなり破綻した。 ……… …… … 私の観たものは正しいのでしょうか? てか書いたまんまやないけ! と、突っ込みが来ることも怖いのですが (汗) 如何だったでしょうか?
- kaxuma119
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まず社会主義・共産主義の欠陥を「労働意欲と生産性を高いレベルで保ちつづけることができなかった」ということだけに絞るのは、いささか上滑りの理解のように思えます。ただ、この欠陥も重要欠陥であることは確かですね。 そもそも社会主義・共産主義の理論は労働者や労働の質を問題にしません。労働者は労働時間を売るだけの存在であり,労働の結果として生まれる工業製品や会社の経営との関係は無いものとして取り扱われます。つまり、労働の意欲や創意工夫による生産性の向上は、最初から社会主義・共産主義の理論体系からは疎外されているのです。これは理論体系を作り上げたカール・マルクスが、19世紀の西ヨーロッパの工業を念頭に置いていたためで、その当時としては妥当性はあったでしょうが、その後の工業の発展は、そういう方向からは大きく乖離しました。 私は「労働意欲と生産性を高いレベルで保ちつつ、ある種の平等を保つ社会構造の実現」はまったく不可能だと考えます。 というのも、まず労働生産性は個人個人で何千何万倍も異なるからです。工場のライン作業ではさして差は出ませんが、知的生産活動においては、その差は明白です。凡庸な技術者がいくら時間をかけても天才がたどり着く領域には絶対に届きません。市井の画家の絵はいくら時間をかけて書いても買い手はつきませんが、天才画家の作品は、小品でも凄い値段が付きます。 この生産性の成果を評価して報酬を与えるにあたり、それは誰がやるのが適当と言えるでしょうか? 費やした時間だけを基準にすれば、労働の質を無視することになります。明白な差がある成果にたいして変わらない報酬を与えることは平等ではないでしょう。誰もが納得する成果の評価は、本質的にはオークションしかありません。つまり市場のメカニズムに委ねる以外に、労働の成果を決めることはできないのです。 ちなみにですが、私は社会主義・共産主義行き詰った原因は、「労働意欲と生産性を高いレベルで保ちつづけることができなかった」ことよりも、労働者独裁、つまり党の決定が国内の最高決定であるという仕組みにあると思います。これは政権政党の無謬性を保証し権力の際限のない腐敗を許す仕組みになっています。
お礼
有り難うございます。 思いがけず良い出会いが訪れたとワクワクしております。 勉強になりました。 話がそれてしまうのですが、 ぜひ 私の中身を整理する助成を頂けたらと追質問します。 私は 資本主義の問題点が「市場に任せる」という点にあると思っているのですが、 この考えは問題があるのでしょうか? あと 独裁的で無ければ社会主義は成功しうるのでしょうか? 御指南を宜しくお願いします。 嫌みに取らないでくださいね 鋭い考察に出会うと 本当にワクワクします。 智への探求心が凄く高まり ドチテ坊や化するかも知れませんが 堪えてお付き合い頂ければ幸いです。
>一、労働意欲と生産性を高いレベルで保ちつつ、ある種の平等を保つ社会構造の実現は可能だと考えますでしょうか? 残念ですが無理でしょう。 生産性を上げると言っても、何の為に生産性を上げるのでしょう? 労働者の立場として、生産性を上げた所で疲れるだけで、受け取れる報酬は変わりません。 貴方なら、他の人の2倍の生産をしたとしてももらえる報酬が同じ。どんなに頑張っても同じだったら、努力しますか? >二、もし可能だと考えられた場合、どの等な方法論があるでしょうか? 反対に不可能だと考えら得た場合、どこに根源的な問題があるでしょうか? 生産性を上げた人には、その分の見返りを与えなければ、生産性を上げる意欲は無くなります。 この見返りが、不平等なのです。 そのほかに、怠けていて、まったく生産をしない人も同じ報酬が受け取れます。 その人があなたと一緒の職場に居ます。 貴方は怠けてる人は別として、しっかり働く気になりますか?
お礼
なるほど! 一律に平等にすると逆に不平等が出て、 揺り戻し的に労働意欲がそがれる方向性で 平等へと安定してしまう。 と読み解いたのですが そういうことでしょうか? では 何かに応じて平等にする という可能性はどうでしょうか? 例えば努力とか、 例えば労力とか、 まあ一例ですが、 何か1つ、又は幾つかの基準となるように対して平等 そんな方向性でも 可能性は無いですか? 追指南を宜しくお願い致します。
先ず・・・、 >労働意欲と生産性を高いレベルで保つ >(労働者に対して)ある種の平等を保つ ↑ コレを両立させるコト自体が、大変難しいと思いますネ・・・。 正直、不可能とは書きませんが、「限り無く不可能に近い」。 そう思います。 理由は、説明するまでも無く、人は真面目に働く者もいれば、怠け者もいる。 優秀な者もいれば、バカやトンマな人間もいるからです。 いえ、 「色々な人間がいるからこそ、みな平等になんて、なりっこない」 のです。 でも、私は平等で無いからこそ、また「そこに利点が有る」とも考えますね。 「それぞれの個性を尊重し、良い個性を伸ばして、人の幸福を考える」ってコトも出来る訳ですから。 高い「労働意欲」と「生産性」だけが、人の幸福の道では無い筈です。
お礼
高い「労働意欲」と「生産性」だけが、人の幸福の道では無い筈です。 確かに全く持ってその通りだと思います 異論の挟む余地は無いでしょう… が 「人が飢えないだけの生産性を保つ」 「物欲をある程度等しく充足させうるほどには生産品量を保つ」 「過度な労力が払われなくなるまで、技術力を更に向上させ続ける」 ……… …… … “幸せ”をどう定義するかに大きく左右されるでしょうが、 その定義如何では これら挙げた内容も必要なのでは? と思えます。 で、だと仮定すると 生産性や労働意欲が低下すると 当然ながらこれらの維持が難しくなると思うのです。 格差があり個性があるからこそ凹凸が生まれ、尊重され その凹凸がかみ合うようになり 埋め合える 理想的な社会だと思います 本当に理想的です。 が、 かみ合い 埋め合おうとしない人も当然出てきますよね、 それも個性、 ならばそれも尊重されるでしょうから、 その「ギャップ分」は何かが含むことになると思います。 私自身 F1の世界のような カリカリに研ぎ澄まされたような 本当にピーキーな 凄まじく高い生産性や労働意欲が必要!! そんなことは 全然思いませんが 私は 先に挙げた「ギャップ分」を社会全体で吸収して 更にマージンが取れる位には 高い生産性や労働意欲が求められるように思えるのです。 この程度を求めるに留めるとしても 平等との両立の可能性は無いものなのでしょうか? 当たり前の話ですが 働けない老人を乳母捨てしなくて良い平等な社会 労働人口調整役として、離職者が就職不遇を味わっても これを支え包み込める社会 隣の芝を観てとてつもなく辛く感じなくて済む社会 そういった意味で悲しみの少ない社会… 追指南を宜しくお願い致します。
- hekiyu
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平等といっても、完全な平等は不可能ですから ある程度の平等、てことになると思います。 どの程度の平等が良いのか。 これは難しいですね。 そして、平等には機会の平等と結果の平等とが あります。 機会の平等は完全に近づければ近づくほど良いと 言えるでしょう。 では結果の平等はどの位が妥当なのでしょうか。 妥当というのは、質問者さんが言っているように 生産性を保ちつつ、皆が納得できる平等、てことに なると思います。 方法論ですが、現在行われているのが、累進課税と 各種の社会福祉ですね。 これで不平等がかなり緩和されています。 ジニ係数でいえば、0,6~0,7から0,3~0,4 と、不平等が是正されています。 これを極端に押し進めれば、完全なる結果の平等も 可能でしょうけど、それが好ましくないのは、社会主義国で 証明されたばかりです。 尚、少し前の日本のジニ係数は、貧乏時の社会主義国 中国のジニ係数よりも小さかったのです。 こういうのは理論的にスパッと出るものでは無いと 思います。 国や民族によっても異なるでしょう。 時代によっても違ってくることでしょう。 色々やって、試行錯誤を重ねて捜して行く他ないと 思います。
お礼
改めて、この場所で解を求める浅ましさを感じ得たように思います、 全くその通りですよね。 これからも人は 努力と献身と英知と慈愛を重ねて 解を得に向かうのでしょうか? 向かえるのでしょうか? そう多くの悲しみが 更に重ねられない内に 解が得られると良い …切に願わざるを得ません。 と、同時に せめて一片のヒントだけでも この場でもぎ取れれば… とも、 浅はかと思い知らされて尚、 願ってしまいます。 ご教示有り難うございます。
- 佐藤 志緒(@g4330)
- ベストアンサー率18% (840/4653)
1.不可能です 人には能力の差、能力の適正と要求される仕事のミスマッチがあり、仕事の出来栄えに差が出る。 出来栄えの差を評価(給与)の差とすれば、評価の仕方に不平等感がでる。 出来栄えを無視して一定の評価(給与)にすれば不公平になる。 また、職種間の給与差も不公平感を作る 熟練技能者が高精度の部品を加工し会社が大きな利益を出してる。 その会社では正門で来客に記帳をさせてる守衛がいる 熟練技能者と守衛・・・どちらも必要な人だが給与は同じにするか? 勤務時間に不公平は無いのか(守衛は24時間勤務) 平等を追求すれば北朝鮮の様に全員が配給の食事で生活する様な貧困にならないと達成できません。
お礼
完璧では無いが高い平等と 完璧では無いが高い生産性と労働意欲 これのバランス また挙げられていない方向性での 平等な評価の可能性もあり得ないでしょうか? こういった可能性は如何でしょうか? 追指南をお願いします。
お礼
有り難うございます、 恐らくはコワの部分での摺り合せが 私の中に実現したように感じられました 感謝します。 ただ「弊害」に対する評価は 分かれる所があると思います。 まあでもこれは 汚らしい言い方ですが 信頼できる投資先が無い場合の 単位額の運用に対する感じ方に似ていると思います。 生きる中で起こる様々なものへの感じ方、 置かれている状況や今までの経験や教育などによって 左右される個性 これらによって判定は易々と変わるでしょう。 でもその程度ですよね、 「念押し」ですが 置かれている状況が違うからわかり合えない… といっているのではありません。 むしろこの逆で 些末な所は違ってても解り合えている そういう言う意味です。 ただ だからといって 任せるには確実に弊害がある 信頼できない相手の手に 単位額の運用を委ねる… 極端な例で言えば 確実にちょろまかすと評判で 本人自身も「いかに略取するかだけにかけている」という そんな方向性しか口にしない相手に それはただの弊害の1つ、彼の個性だからと 投資を任せるか… リスクをどこまで許容するか… この点について感じ方に違いがあるので 結果が違ってしまうように思えます。 と、言う訳で 私は任せるのが まだ怖いです。 次に 北欧諸国ですが、 本当に興味深いですよね ノキアを初めとする世界有数企業がその生産性を証明していますし 仰るように総国民満足度指数(でしたっけ?)は 常に一桁(?)以内にランクインするそうですね。 「物欲が満たされるだけが幸せの形で無い」 このことが如実に証明されているように思えます。 ただその反面 物欲の充足を比較的軽視するが故の 消費行動の減退もあるとも 漏れお聞き及んでいます。 隣接した資本主義経済があるからこその成立… ? よく解らないですが そんな不安も 私の中では否めません。 ミッテラン氏については 少しじっくりと目にさせて頂きたいと思います。 有り難うございます。