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自分の意見、考えを否定されると・・・
自分の意見・考えを否定されると、嫌な気持ちになるのですが、 これはどういう心理でしょうか?
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自分の意見や考えを否定されたばかりか、自分という存在や、自分という人格まで否定されてしまったように感じるからではないでしょうか? もちろんそういうこともあるかもしれませんが、多くの場合、相手はそこまでは意図していないように思います。 自分の意見や考えに何か足りないところがあったのか、それとも相手にきちんと伝わらず、こちらの意図が正確に理解されなかったのかという点を考えた方が、生産的だと思います。 案外、コミュニケーションがうまくいっていないために、誤解が生じていただけということも多いと私は思います。
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- dddmmgrru
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似たような気持ちになる例を考えてみましょう。 ご自分が何か気持ちを込めて「作品」を作ったとします。 たとえば病気の友人に快癒の願いを込めて折り鶴を折ったとします。 苦労して作った折り鶴を机の上におき、何かの用事を足すために席を離れていて戻ってきたら、その折り鶴が床に落ちていて、しかも誰かに踏まれているのを発見したとき。 どういう気持ちになるでしょう。 あるいは、友だちと映画を見るためにある場所で待ち合わせをしたとします。約束の時刻を過ぎても友だちはやって来ません。映画の始まる時刻が気になってイライラしたり、待たせられて情けない気持ちになってきます。友だちは待ち合わせの時間に大幅に遅れて来ます。その時間では楽しみにしていた映画の開始時刻に間に合いません。友だちは遅れてきたことを誤らないどころか、あなたのがっかりした様子を気にもとめず、映画は今度にして自分が行きたいといっていた美術展に行こうと言います。 そのときのあなたの気持ち。 この2例とも、当然楽しかろうはずはないですよね。イヤな気持ちになる。 始めの例では、踏んづけて鶴をダメにした張本人が分からないと怒りのやり場がない。 あとの例では、待たせたことを謝ってもらうことから始まらないと楽しいデートにならない。 ともに嫌な気持ちですよね。 次に、「自分」って何だと問うてみましょう。 この身体の皮膚の内側にあるのが自分の身体ですね。 自分の持ち物は自分でしょうか。これはイエスともノーとも言えますね。 じゃ、自分の思い出はどうでしょう。これは自分ですね。 自分の愛するものはどうでしょう。人に限らずに物について考えましょう。 それもお金をだせば誰でも買える物じゃなくて、たとえば、自分が描いた絵はどうでしょう。自分ではないものの自分の「一部」、自分を形作っているも「もの」とは言えないでしょうか。 この皮膚の下に閉じ込められた自分だけが自分じゃなく、自分のこころが込められた「もの」、自分が時間をかけてつくった「もの」も、皮膚の下のパーマネントな形の自分ではないものの、やっぱり「自分の一部」と言って差し支えないですよね。 踏まれた折り鶴は、そこに込められた自分の「気持ち」、作るのに費やされた自分の「時間」が否定された、つまり時間をかけて作られた折り鶴、こころを込めて作られた折り鶴は、それなりの扱いをされることを要求します。丁寧に扱われるべきであり足で踏まれるものではない、と。 こころを込め時間をかけて折られた鶴は「自分の分身」なのです。それが踏みつけられるということは、自分が踏みつけられるのと同じです。 来ない相手を待つことで浪費されたのは「自分の時間」です。待たされなければ何か他の有効なことに使えたかもしれない「時間」です。待たされたことで「自分の時間」が無駄になった。「自分の時間」は「自分」なのです。自分がないがしろにされた。さらにそのことへの謝罪がないのは「自分」が軽く扱われた、自分は謝る価値のない人間だと宣告されたということです。 価値がないものはゴミのようなものです。踏みつけられるゴミ。自分がゴミのように扱われた。気分のいいものではないですね。 さて、本題です。 自分の「意見」「考え」は「自分」でしょうか。 カンニングしたり、人に教えてもらったりした「意見」「考え」でない限り、これはやっぱり「自分」の一部だと考えて差し支えないでしょう。 自分の考えは「自分」なのです。 それを否定された。否定されるということは「価値がない」ということです。これは、「自分」に価値がないと決めつけられたことになります。 嫌な気持ちになります。嫌というのは「不快」ということです。「自分」を否定されて気持ちのいい人はあまりいないでしょうね。 丹精込めて折った鶴を踏まれて快感でしょうか。 ひどく待たされた揚句謝罪の言葉もないというのは快感でしょうか。 もし、質問者さんが「快感」であるなら、上記の説明はまったく無価値なものになります。 そうなれば、解答者のこちらは、手間暇かけて書いた回答が無価値となって、とっても嫌な思いをすることになりますが、そうならないことを願うのみ、ということになります。
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ご回答ありがとうございます。
ひとは無意識のうちにも対話などによって相手の頭の中に自分を分身を移住させようとしています。これは存在を認めさせるということですが、自分の意見や考えというのが自分の分身なのではないでしょうか。相手とあまり意見が合わないときには移住地に適さないと思えればよいのですが、いろいろな事情でそうも言っていられないこともよくあると思います。ただ自分がどこへでも移住できるというわけではないということを確認するためには意見が合わない人と話をすることも必要だろうとも思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。
自分の存在価値を否定しなければならない、という苦痛を味わねばならない事によるのだと思います。 いわば、精神的な半殺人のようなものです。 自分が大切に持っているものを破壊される、という精神的な痛みからくるものなのでしょう。 自らが大切なものを捨てるのではなく、破壊されてしまう、或いは捨てる事を強要される、といった事からくる精神的な苦痛だと思います。 それは、理が通って認めざるを得ないほど、返って辛いものです。 自分の意見や考えの確定度が高いほど、その苦痛は大きいものと思います。
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ご回答ありがとうございます。
- under12
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人生経験が足りないだけでしょう。子供時代に乗り越えるべき事柄が、大人になっても 経験できていないのです。本来ならば、否定されたその意見を覆せない自分自身に 歯がゆさを感じるべきでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。
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