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結局人間は…

結局人間って自己利益のために動きますよね? 自分に利益を与えてくれそうな人にはいい人そうに近づき、どうでもいい人には冷たい。 表面上はよい人のように演じ、裏では腹黒い。 人間って嫌な生き物だなあと思います。 大切な人が死ぬと悲しいのは、その人を思ってではなく、残された自分が可哀想だからでは? 自分が良ければそれでいいって人がほとんど。 皆さんはどう思いますか? 反論ありますか?

みんなの回答

  • BODYCHANGE
  • ベストアンサー率21% (229/1053)
回答No.15

こんばんは~。 やや哲学じみた質問ですね。 質問者さんの意見も一理あると思います。 自分にも当てはまります。ただ、100%じゃないです。「いつも世話になってるから力になろう」と思う時もありますよ。ただその先に「ここで借りを作ればまた借りを返してくれる」とか「これでまた絆が強くなった」とか雑念がちらつくような、そうじゃないような… あんまり頭を回転させると余計な事を考えてしまいます。純粋な気持ちだけ大事にしたいですよね。 「大事な人を亡くして悲しいのは自分が可哀想だから」ってのは…これも、そうだとも言えるし、違うとも言える。人によっても場合によっても… 哲学って答えの無いものに答えを見いだそうとするんですよね。

noname#135288
noname#135288
回答No.14

当たり前のことではないですか? 腹黒いも自己利益の為に動くのは何も生物として本能的なことではないですか? 自己利益になる=腹黒いっていう図式がわからないなぁ 自己利益にならないことってなんだと思います?私は自己利益にならないことをされた人やした人がウツにかかるんだとは思いますが。 自分の脳みそで考えて動いてるんだから自分が自分の利益にならないことをするほうがおかしいでしょ 人間だからっていうのじゃなくて生き物だから 主さんが書いてるような感情的なもんじゃない。 生物として当たり前。 人間社会は人間関係が重要だから裏やら裏切りやらなんやらあるけどそれってライオンが獲物食い殺して食べるのと同じ、「生きる手段」でしょ。 当たり前。

  • sakura-333
  • ベストアンサー率10% (952/8905)
回答No.13

ほぼそれだけの人もいれば、それだけでは説明のつかない事もある気はします。 そう単純なものではないですからね。 >自分が良ければそれでいいって人がほとんど。 「ほとんど」は否定できるかわかりません。 >大切な人が死ぬと悲しいのは、その人を思ってではなく、残された自分が可哀想だからでは? 中には、自分は亡くなった人に対して満足にしてあげられなかったのではないかと悩む人もいます。 まぁ自己利益のために動くにしても、人の笑顔で満足する人と、人の苦痛に満ちた顔で満足する人とでは、前者の方がいいかなとは思います。

noname#136053
noname#136053
回答No.12

そうですね。自己利益と言えばそうだと思います。 思いやりについて、人を思いやる事は『人の為に』なんて言いつつ、行き着く所は結局自己満足な部分はあります。 人に怒りを覚えてそれを許す時、その人を思ってというより、『いつまでもこんな風に怒る自分が嫌』という自己防衛が働いたりもすると思います。 なんでも損得勘定ではないにしても、どこが自分にデメリットな人は、いつしか疎遠になっていくのも事実。 大切な人が亡くなった場合の話しについては、例えば付き合いで参列した葬儀は『遺された遺族は可哀想』と思います。こうして冷静に客観視できるのも、さほど知らない相手だからです。 これが自分の大切な人として当事者になると、『遺された自分が可哀想』よりも、もう会えなくて悲しいという涙が溢れます。それが『会えなくて私が可哀想』という感情には結びつきません。純粋に、故人を思って涙が出ます。

  • syasushi
  • ベストアンサー率27% (226/837)
回答No.11

確かにそうなんですが、自己利益は多種多様でして。 例えば、被災地にボランティアに行く人たち結構いますよね。 その中には、人の笑顔を見れることが自己利益になりうる人が少なくありません。 これって、そう悪くないと思いませんか? 自分の行動が自己利益だけでなく、他人も笑顔に出来る。 「人は自己利益無しには動かないが、その行動が他人のためにもなる。」 これで良しとしましょうよ。 でも、ちょっとだけでいいですから、自分に理解しがたいが自己利益無しの動く人も存在するんじゃないかと信じたほうが幸せかもね。

  • hiro822
  • ベストアンサー率20% (131/637)
回答No.10

結局人間って自己利益のために働く はいいと思いますが、 自己利益のためなら他者の利益を犠牲にして、 となると問題だと思います。 自己の利益のために、周囲の人の利益のためにも働くべきでしょう。 そして、周囲がどれくらいの広さななのかということが、人の器の大きさだと思います。 家族のため、日本のため、人類のため、生物のため、地球のため、宇宙のため。

noname#245605
noname#245605
回答No.9

あなたもそうでしょ? わたしもそうです。 みんなそうです。 それでいいんじゃないですか? それが良くないという理由がわからないです。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.8

個々のスペックの問題じゃないですか。 個々の処理能力の問題と言い換えてもいいと思います。 どうでもいい人には冷たいというよりも、興味をはらっている余裕がないんだと思います。 で、興味をはらえる範囲が広い人はマザー・テレサになり、無限に興味をはらえる存在が神様なのでは。 凡人→ネットブック 尊敬される人→高スペックPC 神様→スーパーコンピューター

  • adams_5
  • ベストアンサー率20% (5/25)
回答No.7

すべてはバランスだと考えています。 『腹黒い』時もあり、『自己犠牲』の時もあり…どちらかに偏った人間(どうでもいい人)には近づきたくない。与えたなら、見返りを求めて当然。見返りが無くて、許せれば愛。許せなければ、愛ではなくビジネス的関係。親子だろうが親友だろうが。ちなみに『自分だけよければそれでいい』と徹底している人間にはあまり会った事はありません。視野を変えればそんな人と見えるだけなのか?自分に対してだけそうなのかも?でも、そんな人間に出会えば冷たくして遠ざける。類は友を呼ぶから。『善と悪のバランス』が取れている人たちに側にいてほしい。死んだ時には、本人の無念を我がことの様に感じ、置いて逝かれたかわいそうな自分も慰めてあげたい。

noname#148093
noname#148093
回答No.6

反論します。人間に限定できません。 存在する生命体すべてです。 細胞だって生きていくためにはほかの細胞を食べていくからね。