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ヘレンケラーと私たちはどうして感動を共有できるのか

ヘレンケラーは自伝の中で、自然の美しさについて、たいへんに映像的な表現を使って熱く語っています。又イヴィリン・グレニーという打楽器奏者は、殆ど耳が聞こえないのに、美しい音を感じ、表現し、それを私たちに伝える事ができます。彼女たちと私たちは、どうして芸術や感動を共有することができるのでしょうか?

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回答No.5

しろうと考えで答えになるかどうか自信がありませんが、参考までに。 私たち(健常者)でさえ、感動を共有できるかどうか、あらためて考えると少々不安になります。それを「証明せよ」といわれれば不可能かもしれません。 感動的なPという事象について(ひとまず事象Pの存在を疑わないことにして)、A君とB君が体験する感動の内容はまったく違うのは当然ですが、たとえば美しい薔薇とか夕焼けを見る場合、「視覚」という点、「いまそこに、そのときを共有している」という点は共通していますから、「感動を共有する」というとき、ある意味で「その他の点はどうでもいい」というふうに、共有が成立しているのではないでしょうか。 ケラーと感動が共有される場合では、ケラーは薔薇の「手触り」「におい」から「感動を構成する」でしょう(視覚という通路は断たれている)。ケラーはさらに「記憶から色を再構成する」でしょうが、そのとき、むしろ健常者より強烈に「色」を感受しているかもしれんません。 ここで感動に優劣はなく、ただ「違い」があるだけで、それは「感動の共有」にとってどうでもよいことです。 「夕焼け」では「青から赤へ」の色の変化を「気温の変化」から再構成していると思われます。 ただ薔薇の花びらの数を視認することはできません。夕空のはるか遠くをゆっくり流れていく飛ぶ飛行機を視認することはできません。「数」や「金属光沢」そのものにその場で感動することはたぶんできないでしょうが、 健常者ですら、その種の「抽象的」なもJんもへの「感動」をどう構成してきたかといえば、やはり長い生活過程から構成しているにすぎないので、 その意味では、ケラーも、「数」「金属」への感動を構成できるのは当然です。 だんだん曖昧になってきてすみません。 「感動」というのは「人間」であることの証しのひとつですから、ケラーこそ、感動の質は私たちよりきっと強く高く、そして細部にわたって鮮明であるののかもしれませせん。

el156
質問者

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ありがとうございます。あなたの見ている夕焼けと、私の見ている夕焼けは同じなのか?というような問いですよね。実は「自伝」を読んだときに、この問題に通ずるところがあるのではないかと思い、ここで質問をさせていただきました。「ある意味で、その他の点はどうでもいい」というのは、回答者さんのオリジナルですか?非常に面白い考え方で、大変感心いたしました。

その他の回答 (8)

回答No.9

人間の脳には人間としての知識?が刷り込まれているからだと思います。この知識と言う表現は適切では無いかも知れませんが、蜘蛛が学校に行かなくとも同じ蜘蛛の種としての同じ蜘蛛の巣を張る能力の事です。 人間には全ての人に備わっている能力と感じます、或は機能という言い方が適切かも知れません。感動を誘う場面で悲しいと時に笑う人がいないことに通じています。 或を歌を歌えない人でさえ、どの人が歌った歌が上手いか、下手かを知っています。どの動物も命が芽生えた瞬間から『細胞分裂する事を知っています』 人間も生まれた瞬間から泣く事も笑う事も怖い事も安心する事も全て身に付けています。是は脳の機能として既に刷り込まれていることを意味します。 この一端が書いてある文献を紹介します。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この場合の右脳の意識が『生まれる時に全てが刷り込まれている脳』に相当します。この意識は『永遠で出来ています』言葉を持っていません、言葉以外の情報のやり取りを『自我意識と』脳梁を介して行っています。 例えば結婚を決意する場合、自我意識が『欲や得や見得』を抜きにして、右脳からの情報を受止めた場合真実を見通した目を持った事になります。何故ならば今此処にいる『汝』がまさしく生涯を通じての『汝』である事を見通している事を保障しているからです。お互いに認め合った場合『赤い糸』で結ばれたことを意味しています。 もし、欲や得や見得が『真実を見通す目を』塞いだばあい、その結婚は安らかな家庭を作る事には困難が付きまとうかもしれないという意味があります。 自我意識に眼の前の真実の情報を伝えると言う機能が右脳の役割ですが、その情報とは『感情を湧き上がらせる情報』と云う事になります。この情報をヘレンケラーも私達も共有している事を意味しています。 言い替えるならその情報を発信している脳の機能は人間全ての感情を沸かせる機能として、共有出来ている事を意味します。東洋ではその機能の事を『仏』或は仏性と言っています。西洋では『神』と呼んでいます。 是は言葉を替えるなら『人間の命そのものを働かせている、命の働き』と言い替える事も出来るかも知れません。もし出会う事が出来たならその者は『永遠で出来ています』有限の肉体が滅んでも自分は永遠の存在であると言う確信が持てます。 この経験を『生死の問題が解決した』と言っています。キリスト者なら『神に会って和解した』と言っています。救いのない人生に救いが在ったことを知る瞬間です。この経験を『悟る』と言います。真実を見る目が開けた事を意味します。この目を『第三の目』と言っています。

el156
質問者

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ありがとうございます。ある種に特徴的な行動のための記憶が遺伝子や脳に刷り込まれているのかどうか(生得的か後天的か)の議論は、どこかで読んだ気がします。その、私が読んだもの、の中では、結論は否定的だったように記憶しており、私自身も否定的です。ハードウエアによってそういった種に特徴的な行動を起こし易くなる傾向(入れ物)が遺伝する事はあるのでしょうが、中身の行動自体は後天的なのではないかと思います。しかしどこまでが入れ物でどこまでが中身なのかということ自体が怪しいのではないか、ROMやPLD(プログラマブルロジックデバイス)はソフトなのかハードなのか、脳の中の回路が特定の傾向を持って構成されているのであればそれ自体も情報であって記憶と呼ぶべきではないか、と考えると、おっしゃるように生得的な記憶と考えるべきなのかもしれません。右脳の情報には、そういった固定された情報が多いのでしょうか。この場合の「独立した意識」というのは分裂病や多重人格にある分裂した意識と本質的な違いがあるのでしょうか。ハードウエアが分離されていなくても、「独立した意識」はあるのではないかと思うのですが。

  • beingpeace
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回答No.8

ニューロンがどうとか脳がどうとか言っている人は何もわかっていない人ですね。一切本など読まない人なのでしょう。 いまどき、脳は言わばPCの本体で、心はいわゆるOSの働きをするというのが常識です。つまり脳の機能を解明しても心の解明に脳科学は非常に間接的にしか役立たないのは、認知科学者や脳科学者、心理学者の常識です。 脳科学より心理学 (ディスカヴァー携書) [新書] http://www.amazon.co.jp/gp/product/4887598823 最も参考になったカスタマーレビュー 1 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。 5つ星のうち 4.0 脳科学ブームに一石を投じる, 2011/5/17 By アウトロー レビュー対象商品: 脳科学より心理学 (ディスカヴァー携書) (新書) 精神科医である著者は、パソコンで例えると、脳科学はハードウェア、心理学がソフトウェアであるとし、いくらハードウェアの性能を良くしても、ソフトウェアがなければハードウェアがいくら高性能でも意味がないことを唱えている。心理学が人々に与えた影響(長所・短所)をまじえながら、心理学の有用性を唱え、21世紀型頭の良さを提示している本である。昨今の脳科学ブームに一石を投じる、面白い本であった。 -----------------------------------------------

el156
質問者

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ありがとうございます。ソフトウエアは心を実現することができるのでしょうか。或は既に実現し始めているのでしょうか。これも私が関心を持っているもうひとつの疑問ですが、ここでの質問から派生するにはテーマが大きすぎるかもしれません。少なくとも昔のソフトウエアのように、フローチャートを書いたり詳細な仕様を作って、起きうること全てを予め予見してからコーディングするソフトウエアでは、環境に対応しながら働くことができないような気がします。しかしオブジェクトをブラックボックスとして捉え、制作者がオブジェクトに対して試しにメッセージを与え、それに対するオブジェクトの反応を拠り所にするようなやり方で組み立てて行ったソフトウエアを、インターネットのような大海に放ったとしたら、それは作者の予想を超えて環境に対応しながら有機的に働くことができるかもしれません。逆にそれでも心を実現できないのだとしたら、二元論に陥らない為には「ソフトウエア」という発明を超える次元の大発明が必要なのではないか…すみません。自分で言っておいて更に脱線してしまいました。

回答No.7

日本語で読んでも、英語で読んでも、素晴らしい文学作品は 素晴らしいものだ。 もしろん、ボキャブラリーの違いや、翻訳者の質によって多少の ブレは出るだろうが、大意は変わらない。 我々は、“そのモノ”を見ているようだが、実際に捉えているのは、 感覚器官表面における相互作用であって、ただ、視覚や聴覚と いった情報性の高い先行感覚に対して、過去の五感の相関した 経験の蓄積に基づきニューロネットを励起させ、その生理的意味 (=そこに行けばどのような影響を受けるか)を予測したものが、 「遠くのモノ=空間的広がり」なのだ。 即ち、光によって見ているのは、光ではなく、その意味=生理的・ 本能的・遺伝的なものなのだ。 もちろん、それが音になれば多少の“翻訳者の質”の違いは出る かも知れないが、例えば視覚が正常でも分裂生殖したり光合成 で生きる人型宇宙人が見る世界との違いほどには変わらない。

el156
質問者

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ありがとうございます。「光ではなく、その意味」は、生態心理学者のJJギブソンが言っている「アフォーダンス」のようなものではないかと思いました。私たちは、アフォーダンスのようなものに対して感動しているのではないでしょうか。

noname#176957
noname#176957
回答No.6

>確かに1~2歳の頃の記憶が、自分の記憶として書かれている部分があって ならばその時の記憶を元に形状や色彩や質感の言語を習得し、他者とのコミュニケーションの中で発展させたのでしょう。 幼児期に視覚を失っても、映像に関する言語習得は可能だという一症例です。 不思議ですか? 脳のメカニズムとしては不思議です。いくつもの問が浮かびますが、あなたが問いたいのはそういうことではなさそうです。 >感覚や能力が違っても同じ環境で育った生命でさえあれば芸術や感動を共有できるとしたら、とても素晴らしい事だと思います。 つまりはヘレンケラーの文章や、イヴィリンの音楽に触れた際の、感動体験を共有したいという衝動から発せられた問なのではないでしょうか。 ここには謎はありません。

el156
質問者

お礼

ありがとうございます。私の関心の中心は、私の感動ではなくて、彼女らの感動の方にあります。私自身は残念ながらヘレンケラーほどの感受性を持ち合わせていないのですが、ヘレンケラーが感動している様子は伝わってきました。それは感覚器官に依存しない普遍性を持っているような気がしました。

noname#176957
noname#176957
回答No.4

>#2 失礼しました。謎はてんこ盛りですね。撤回させていただきます。 失明以降映像入力を断たれたヘレンケラーは、記憶映像の再生を繰り返すことで、それが強化された可能性は低くないでしょう。 私たちに記憶が無いのは、それ以降の情報が膨大で、記憶の淘汰が進むからであることは、ご存知の通りです。

el156
質問者

お礼

ありがとうございます。コメントいただいて自伝の最初の方を読み直してみましたが、確かに1~2歳の頃の記憶が、自分の記憶として書かれている部分があって、最初に読んだときにも違和感を感じたことを思い出しました。ただし、その頃の記述は、多くはありません。 晩年に聴力を失ったベートーベンが聴力を失ってからも作曲を続けたことは有名ですが、そういう例とは事情がちがうのではないかと思います。

noname#134583
noname#134583
回答No.3

こんばんは。(・∀・)ノ 私は、こう考えます。 結論から言うと、彼女の周りの人たちの愛情を感じられたからだと思います。 人間には、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)があります。 そのうち、彼女は(聴力、視力)を失い話すこともできませんでした。 其れにより、他の感覚が常人以上に敏感になったのではないかと思います。 もしかすると、第六感もあったのかもしれません。 自然、人間も元は、同じ環境で育った生命です。 彼女の受けた愛情により、自然の中の芸術や感動を美しいものとして感じる 事が出来たのではないかと思います。 生命にはシンクロニティもあるのかもしれません。 まだまだ、人間の感覚には謎の部分があると思います。(・∀・)/~~

el156
質問者

お礼

ある機能を失った人が別の方法で同じ機能を実現する能力というのは、テレビ等で見て驚かされろことがあります。感覚についてもそうなのだろう、と思いました。私は機能的な部分だけで考えていたので思い及びませんでしたが、言われてみれば、愛情も、たぶん、必須要件です。感覚や能力が違っても同じ環境で育った生命でさえあれば芸術や感動を共有できるとしたら、とても素晴らしい事だと思います。ありがとうございました。とても参考になりました。

  • beingpeace
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回答No.2

ヘレン・ケラー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC 1880年6月27日、アメリカ合衆国のアラバマ州・タスカンビアで誕生。スイスから移住したドイツ系地主の娘であった(ドイツ系アメリカ人)。兄弟は異母兄が2人、のちに同母妹を持つ。 1882年、2歳(生後19か月)のときに高熱にかかり、医師と家族の懸命な治療によりかろうじて一命はとりとめたものの、聴力、視力、言葉を失い話すことさえできなくなった。この事から、両親からしつけを受ける事の出来ない状態となり、非常にわがままに育つ事となってしまった。 2歳の頃の記憶を原体験として自然の美しさを映像的に表現するのは、基本的に不可能と思います。 私は2歳の頃の記憶はありません。

el156
質問者

お礼

ありがとうございます。私もそう思います。2歳までの記憶が仮に潜在的に働いていたのだとしても、情報として少なすぎるのではないでしょうか。

noname#176957
noname#176957
回答No.1

打楽器奏者は後天性ですか?先天性でもリズムは皮膚感覚で共有可能だから。 ヘレンケラーは後天性なので、原体験で共感できるから。 謎は無し。

el156
質問者

お礼

ありがとうございます。記憶…ということですね。イヴリン・グレニーも後天性ですが、彼女はリズムというよりも、楽器とは呼べないいろんな物を叩いて物固有の美しい「音色」を発見し、操ります。彼女の演奏は、とても創造的に感じます。