• ベストアンサー

「神仏分離」の事について伺います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2 このページの情報によりますと、出雲大社でも前近代に神仏分離が行なわれているそうですが、そもそも出雲大社にも神仏習合の影響が及んでいたのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • dayone
  • ベストアンサー率79% (360/452)
回答No.2

下記は杵築大社(出雲大社)関連の神仏習合から分離の断片に過ぎませんが、 「鰐淵寺(衆徒)」「尼子経久」などがキーワードになるようです。 出雲大社における仏教との関係は、鎌倉初期以来の鰐淵寺衆徒による三月会等の勤行、 16世紀中期における尼子経久の堂塔の造営、同後期以後約百年に亘る神宮寺、 本願の存在等が見られる(『國學院大學大學院紀要:文学研究科、第17~19巻』<347頁>) 永正5(1508)年守護京極政経が、後事を託して出雲に没したことにより尼子経久は、 正当な守護職権の継承者として領国支配を有利に展開することが可能となり、 翌6年、それまで自立性の強い国人層の地域的結集の拠点であった鰐淵寺を 強力に統制する掟書を定め、寺院建築様式に基づく一宮杵築大社の造営にも着手。 (「コトバンク/尼子経久」) 寛文大造営以前の大社は尼子経久建立の輪蔵、三重塔、大日堂、鐘楼などの仏堂があり、 本殿(慶長14年豊臣秀頼願主で造立)も朱塗であったという。 また年中行事は鰐淵寺衆徒が深く関わり、経所で大般若経の転読、 さらには本殿での読経が執行されていた。 さらに本願(社僧)が大社の職制としてあり、大社の造営管理運営の全てを握っていた。 (『近世出雲大社の基礎的研究/西岡和彦/大明社/平成14年』) (寛文の大造営で)三重塔は撤去され帝釈寺日光院に移建。 鐘楼、梵鐘、護摩堂、大日如来、観音菩薩、弁財天、不動尊は松林寺に、 三光国師像は西蓮寺に、釈迦・文殊・普賢像、経蔵、一切経は神光寺に、 聖殿、六観音は神宮寺に移し、仏教色を一掃する。 なお梵鐘は西光寺(福岡市)に現存(上述)すると云う。 さらに西光寺には神宮寺であった松林寺とその末寺多福寺印のある文書を所有しているともいう。 当時の杵築大社社僧としては 神宮寺、松林寺、松現寺、玉泉寺、海善寺、海蔵寺、法海寺、所讃寺、永徳寺があったとされる。 (『出雲大社/千家尊統/学生社/1968』) 出雲市大社町杵築東の松林寺に蔵される木造不動明王立像は、 墨書銘によれば、天文十五(1546)年、尼子経久の命によって 杵築(出雲)大社内護摩堂の本尊として作られたもので、 寛文七(1667)年、出雲大社造営の際に仏像仏具類が撤去されたとき、 松林寺に移されたと考えられる。 (『神仏信仰事典シリーズ<9>不動信仰辞典/宮坂宥勝/戎光祥出版/2006』<115頁>) 「鰐淵寺」と「杵築大社(出雲大社)」の関係については ◇「住職のひとりごと/第六回日本の古寺めぐりシリーズ・鰐淵寺と華蔵寺2」 http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/a0ae29bdc922b1deeebfcb60fcaed99f 旧出雲大社三重塔や慶長年中杵築大社絵図などについては ◇「がらくた置場/神仏分離あるいは廃仏毀釈/但馬妙見三重塔・旧出雲大社三重塔」 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/iti_nakusajinzya.htm 三月会 古伝祭(三月一日)など ◇「伊萬太千はやみね/杵築大社(きつき)出雲大社」 http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/kituki.htm 以上少しでもヒントになれば幸いです^^

CatwalkPoison
質問者

補足

有り難う御座います。 十分な量の情報を提供して下さいまして、助かります。

その他の回答 (1)

回答No.1

出雲大社の主祭神である大国主命(おおくにぬしのみこと)は、本地垂迹説では仏教の大黒天(だいこくてん)と同一であるということになっています。

CatwalkPoison
質問者

補足

有り難う御座います。 昔から強引な関連付けは繰り返されてきたのですね。

関連するQ&A