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民主主義という考え方について
民主主義って、私の理解だと「みんなで話し合おう」「人それぞれの意見を尊重しよう」との考えが根っこにあると思ってます。(違ってますか?) で、これってなんか変だと、前々から気になってます。 「みんなで話し合おう」と考えていない人もいますよね、実際には。「人の意見なんか関係ない」って考えも。 そんな考えも「尊重しよう」というのが民主主義なんでしょうか? 矛盾していると思うんですよね。 自分を否定する人を肯定してませんか? 「みんなで話し合おう」「人それぞれの意見を尊重しよう」って全ての人が考えているってのが前提なんですか?そうじゃない人は無視しているのですか?なんか予防線を張っていますか? どうなんでしょう? 私の考えって変ですか?
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- TANUHACHI
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ANo.29です。どうしてもANo.22の方の回答が気になりますのでこのような形での連答をお許し下さい。 「訳語」の意味を含めてのANo.22の方の回答には理解不足に基づく誤解が多々ありますが、最も気になったのは次の一節です。「必ず、国民全員の意見が統一できるわけありません。民主政において、多数者は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができる。という言葉はエドマンド・バークの有名な言葉です。 悪い言葉ですいませんが、民衆は馬鹿です。なぜならば、全体主義や、衆愚政治(モボクラシー)になるからです。扇動に弱い、熱狂、狂信(進歩、平等、人権、国民主権)をする。結局は、独裁者によって、支配されます。法を無視し、権利のみを要求する(義務は欲さない)完全に退行します」 エドマンド・バーグの言葉を引用し多数派による少数派の圧殺を強調しているものの、エドマンド・バーグの言説そのものが果たして正当な判断であるか否かも十分に検証してはいません。 民主主義を支える一つの要素である「多数決の原理」に沿う形での意思決定があることも事実ですが、それにも一つの「前提」があることも明白です。質問者様はこの意思決定のプロセスに於いて「自らの意思を示す機会を放棄している?人が参加することを否定しているのではなかろうか。それでは民主主義とやらの本来の姿とは乖離しているのではなかろうか」との疑問を呈しておられます。 しかしながらこれを否定する形でANo.22の方は「悪い言葉ですいませんが、民衆は馬鹿です。なぜならば、全体主義や、衆愚政治(モボクラシー)になるからです。扇動に弱い、熱狂、狂信(進歩、平等、人権、国民主権)をする。結局は、独裁者によって、支配されます。」と続けます。ANo.22の方の認識の背景には「民主的と呼ばれるワイマール憲法体制下でなぜヒトラーによるナチス政権が台頭したのか」との疑問があり、それと短絡させる形で「民主的な体制がなければヒトラーの独裁を阻むことができた」との結論に達しているのかと思われます。当時のドイツにはヒトラーでなくともファシズムが生み出される土台は十分にあったとの認識が現在の政治学や歴史学からの検証では明らかにされていることも確かです。 少なくとも「民主主義」と「全体主義」は相容れることのできない形態です。運動としてのベクトルは全く逆の方向を志向している。民主主義には「現実と照合し間違っていたら質して直す潜在能力」が現実と民主主義の理念の双方にあり、相互検証に基づく相互批判の形で「進化(若しくは深化)」を続ける、と私は考えております。つまり「これが“民主主義”だ」として決まった形があるわけではなく、その中身を如何に構築していくかが民主主義に求められるべき最終課題であると存じます。 民主主義にとっての最も大事な拠り所、それは「権利としての言論の自由」をはじめとする精神の自由であり、何よりANo.22の方が主張する自由もそれによって保証されているわけですから、ご自身が力説されるような中川某氏の提起する「進歩、平等、人権、国民主権など制限すべし」とのスタンスに基づく政治体制が現出した時には「あなた自身が排除される可能性」がある、とのことも考えるべきでしょうね。
- TANUHACHI
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まだ議論が続いていたので回答することをお許しいただきたいと存じます。 質問者様ご自身の混乱が多分に起因しているのではないでしょうか?。質問者様は「みんなで話し合おう」「人それぞれの意見を尊重しよう」との考えが根底にあると認める一方、異なる意見を持つ人の中には議論など参加しないとの立場もあり、其れを認めることも「民主主義」なのか、との疑問を感じている。 一見して矛盾を内包しているよう見えますが、そこには矛盾など全くないと思われます。「異なる意見の存在」を認めていることで既に議論は始まっている。そこに異見を主張する当事者がいなくとも、それを代弁することで議論を深めることも可能です。 その議論に「全員が参加する」ことは本来的な意味から言えば望ましい事であり、それを達成することが学校の試験的な観点からは合格点といえるでしょう。けれども「民主主義」を政治システムとして現実に運用する時、果たしてそれは完全に可能なモノとして摘要できると言えるでしょうか?。 答は「ノー」です。近代以後の国家および政治システムでは直接民主制は機能し得ません。機能しうるのは間接民主制のスタイルでしか成り立たず、そのために「他の意見も尊重する」ことが求められる。その手法として議会に自分達の意見を反映してくれる人物なり団体を選ぶこと、これが議会制民主主義と呼ばれる形です。 社会生活を営む中で私達は否応なしに「政治」と付き合って生きるしかありません。そして現実の中で生じる様々な問題に解答を出すことができる場所も「政治」でしかありません。「政治の場」以外にはありません。ANo.22の回答者の答と質問者様の疑問はこの意味で同根を有する問題であると存じます。 民主主義の原点である「衆知の蓄積」は制度としての民主主義を支える最も大切な要素です。そこに「予防線を張る」「異見は排除する」との姿勢を持ち込むことは「(政治システムとしての)民主主義のあり方」に死刑宣告を突きつける事と等しいのではないのか、と僕は考えます。 古代ギリシアから始まったとされる「民主政治」にも「これが『民主政治』だ」という明確な概念はありません。またそうして性急に結論づける姿勢そのものが民主主義のポリシーに逆行するものでもあります。 国家に対する国民の立場は「主権者」です。本来の力関係においては主権者の立場が上位に位置するものです。 残念ながら日本では未だに「民主主義」「政党政治」「代表制民主主義」が政治意識として成熟しているとは言い難いことも現実です。議会や政治権力をパワーゲームの場と捉え、企業や団体・宗教組織に依存して「数の力」を頼みとし、自らの「就職の場」と位置付ける人(当人はそう思ってはいないかもしれないが、傍目からみれば丸見え)も少なくありません。けれどこうした「堕落」したように見える現状を打開する!として維新や改革を気取る人達の言葉こそ、本当は注意して観察していかねばならないという事が歴史の教訓です(ドイツのナチス政権やスペインのフランコ独裁政権、スターリニズム、毛沢東に率いられた文化大革命などの粛清の嵐、更にはレーガン・サッチャリズムの「新自由主義」等々)。 ところで質問者様はANo.22の方のコメントをどう思われましたか?。
お礼
ありがとうございます。 >No.22の方のコメントをどう思われましたか? 中学生にしては、しっかりしているなぁと。
- hakkei
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♯27です。 >参考になる文献 たいていの憲法基本書には書いてあると思いますが、今でも名著として定評のある書籍を二つ紹介します。法律学全集3の「憲法I(清宮氏郎)」と「日本国憲法概説(佐藤功)」です。
- hakkei
- ベストアンサー率64% (77/120)
思想や言論の自由が保障されている限り、どんな考えを持っていてもいいし、社会に向かってどんな言論を行うことも基本的に自由です。たとえその言論が民主主義を否定する/破壊する思想であったとしてもそれが「言論」や「政治活動」にとどまる限り許容されている、それが民主主義社会です。言論や政治活動にとどまる限り、言論の自由が保障されている社会では民主制の過程(選挙のこと)を通じて諸個人にその是非を問うことができるからです。 上記の意味(思想・政治活動レベル)では、「民主主義を否定する考えを許容する民主主義」は矛盾していないでしょう。思想としての民主主義の側面です。 しかし、問題は、たとえば民主制の過程を通して「民主制の過程(選挙制度)」そのものを否定することができるのかということですね。これは憲法学の方では昔から「憲法改正の限界」として論じられてきた論点の一つです。憲法の基本原理(民主主義など)も憲法改正手続きに則り改正することができるのかという形で論じられる訳です。 そこでは、民主主義であることを当の民主主義の手続きを通して止めるのは憲法の自殺であり認められないとか、いやいやそれが国民の意思ならばすべて認められるべきだなどとか、なんの憲法はその時の国民だけのものではなく将来の国民のものでもあるので認めるべきではないとか色々な考え方があります。今はどちらかというと、憲法改正手続きをもってしても基本原理の改正はできないというのが通説のはずです。質問者さんと同様に民主主義を実現する手段を通して民主主義を否定することを許容するのは矛盾だと考える人が多いのだと思われます。 上記の通説的な考えでは、民主主義制度の否定は民主主義の枠の中では実現できず「革命」しかありません。つまり、制度としての民主主義の側面では、民主主義の自己否定は民主主義の枠外というわけです。質問者さんの考えが「憲法改正の限界」と同質であるなら、あながち変という訳ではなく、むしろまっとうな考えと思います。
お礼
ありがとうございます。 >しかし、問題は、たとえば民主制の過程を通して「民主制の過程(選挙制度)」そのものを否定することができるのかということですね。これは憲法学の方では昔から「憲法改正の限界」として論じられてきた論点の一つです。 参考になる文献を教えていただけませんでしょうか。
- kaxuma119
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原秀男著「価値相対主義法哲学の研究」
お礼
ありがとうございます。 司書さんにお願いして県内全ての図書館を検索してもらいましたが、残念ながら蔵書にありませんでした。
- kaxuma119
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ANo.24です。 > ・・・釣りじゃないんですけどね・・・ では、そのつもりで続けましょう。 > 約束するというものです > 勝手に約束されても困ります」って意見には、どう対処するんでしょう? この場合の「約束」は契約ではないことは言うまでもないです。民主主義で行こうという人たちの立場表明ですから、非民主主義者が困ることは何もないでしょう。 >> あなたがそれを言う権利は命がけで守るつもりだ > 自分の命より他人の権利を守るって、なんかビミョー 民主主義で行こうという人たちは、実際のところ、たいへん不平等な立場に自分を置くことになるということは認めざるをえません。なんせ非民主主義者の中には自分と異なる意見や宗教を持つ人たちを制圧しようとか、中には殺してしまおうとか考える人やグループもいるわけですから。そんな連中にまで言いたいことを言わせるのは、感情的には納得できないという人も当然いますが、意見の異なる人に沈黙を強いることが許されれば最終的には虐殺にまで突き進み、社会は牢獄になります。 フランス革命後の左派右派の抗争や宗教弾圧を通じてヴォルテールが知り得た事実であり、大日本帝国・ナチスやソ連・中国、北朝鮮、あまたの独裁国家をみれば、思想と発言の自由の保証こそが国家を牢獄にしない方法と納得できるのではないでしょうか。 もっともあなたが「俺の意見は絶対で他人の意見は封殺されて当然だ」と考えていれば納得はできないかもしれませんが、民主主義者は、そういう人も含めて社会構成員と認めますから、安心して意見表明してください。 > 皆様から回答を頂いて思ったのは「意見を尊重」とは言ってる民主主義も、結局は一つの枠の中の考えであって、その枠外にある考えは無視(悪く言えば弾圧)しているんだなってことです。 > その「枠」が「価値相対主義」なのかどうかまでわかりませんが。 価値相対主義というのは言い換えれば思想と発言の自由を保証することそのものです。価値相対主義そのものは「価値絶対主義」でなくてはならないというパラドックスを内在してしまいます。 これは民主主義の哲学的考察ではよく知られた話であり、このQ&Aはこの話を質問していることからして「釣かな」と思った次第です。 > どうなんでしょう? > 私の考えって変ですか? このふたつの直接の答えは…「思想と発言の自由の保証」はパラドックスを内在していることは確かです。あなたの考えは変ではありませんが、昔から有名な疑問を再提出したことになっています。
お礼
ありがとうございます。 別に私は「俺の意見は絶対で他人の意見は封殺されて当然だ」と考えているわけではなくて、そういった考えに対してはどのように対処するのか、「民主主義者は、そういう人も含めて社会構成員と認め」ている事が、自分で自分の首を絞めているのではないかと感じただけ、疑問に思っただけです。 反民主主義を主張しているわけでもないので、政治ではなく哲学カテゴリーに投稿しました。そのほうが適しているだろうと思ったから。 >価値相対主義そのものは「価値絶対主義」でなくてはならないというパラドックスを内在してしまいます。 >昔から有名な疑問を再提出したことになっています。 よろしければその「パラドックス」やその「有名な疑問」を提出された方々や、それらについて論じた邦語の文献を教えてください。
- kaxuma119
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質問自体がちょっと釣っぽい気がしますが、あえて喰いついてみましょう。できるだけ平易な言葉と理屈で答えてみようと思います。 sashimitenpuraさんの疑問は民主主義の根本にかかわる話です。「みんなで話し合おう」と考えていない人も「人の意見なんか関係ない」と考える人も「尊重しよう」というのが民主主義なんです。民主主義とは思想と発言の自由、誰でも好きなように考えてその考えを明らかにすることを約束するというものです。 自分を否定している人を肯定するのは矛盾しているようにと思えるかもしれませんが、その思いはヴォルテールの次の言葉で解消すると思います。「私はあなたの意見に何一つ賛成できないが、あなたがそれを言う権利は命がけで守るつもりだ」 民主主義でやっている社会や国にはありとあらゆる思想集団が存在します。社会を力で持って制圧し支配しようという思想も、特定の神を崇めるべきだと考える集団も、法律に反する行動をとらないかぎり発言は自由です。政府なんていらないという考えも容認されます。ただし、法律に反した行動は容認されません。 逆に言えば、特定の考え方以外を認めようとしない社会や国は民主主義とは言えません。今の北朝鮮はもとより、中国も民主主義国家ではありません。歴史的に言えばナチス支配下のドイツも第二次世界大戦前の日本も非民主主義の社会でした。
お礼
ありがとうございます。釣りじゃないんですけどね・・・ >約束するというものです 「勝手に約束されても困ります」って意見には、どう対処するんでしょう? >あなたがそれを言う権利は命がけで守るつもりだ 自分の命より他人の権利を守るって、なんかビミョー 皆様から回答を頂いて思ったのは「意見を尊重」とは言ってる民主主義も、結局は一つの枠の中の考えであって、その枠外にある考えは無視(悪く言えば弾圧)しているんだなってことです。 その「枠」が「価値相対主義」なのかどうかまでわかりませんが。 民主主義的に制定された「法律で対処」としても、民主主義ではない「○○主義」には関係無いですし。
まだ開いていたので、回答します。 現在地中海沿岸の国々。。チュニジア、エジプト、シリア、イェメンなど。。。で独裁者を平和的なデモで政権から追い落として、民主主義を確立すべく革命運動が広がっています。 チュニジアとエジプトでは成功しました。30年も40年も政権を担当していた為政者がまさにその政権を長男達に移譲するところでした。 民主主義国になって、最初にすることは何か。。。国の首班を選び出すあるいは議会の代表を選び出す”公平な”選挙を行うことです。。 民主主義というのは、広く議会を開き、国民が選挙で選び出した代表が法律を作ってゆく、という制度です。多数決の法則です。一旦多数派が決められたら、少数派は次の選挙を待たなくてはなりません。少数派を納得させる制度だともいえます。 質問者さんの仰っている制度は、共和制のことかもしれませんね。憲法のもとには、国民は皆平等だと考え、憲法の大まかな前提に問題が出たときには、議会で”アメンドメント”を追加して、問題の解決に当たります。これは、少数派(少数民族や女性など)を満足させる緩衝材でもあります。 以上、アメリカでの考え方ですので、日本ではずいぶん違ってしまっているかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 No.12の方に対する「補足」「お礼」をご一読頂ければ幸いです。
- Raosys
- ベストアンサー率0% (0/0)
中3なのに、政治学勉強していますw 民主主義の訳語は一般的にdemocracyですね ですが、思想(主義)をしめす -ismではありません。 たとえば、保守主義はconservatism 社会主義はsocialismのようにどれも-ism(主義)という形です ですがdemocrasy は-cracy(制度)という形になっています 正しい言葉は民主制(民主政体)です。 中川八洋氏の著作(正統の哲学 異端の思想 「人権」「平等」「民主」の禍毒) を読めば詳しくわかります。(今日読み終わりました) 必ず、国民全員の意見が統一できるわけありません。 民主政において、多数者は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができる。 という言葉はエドマンド・バークの有名な言葉です。 悪い言葉ですいませんが、民衆は馬鹿です。 なぜならば、全体主義や、衆愚政治(モボクラシー)になるからです 扇動に弱い、熱狂、狂信(進歩、平等、人権、国民主権)をする。 結局は、独裁者によって、支配されます。 法を無視し、権利のみを要求する(義務は欲さない) 完全に退行します。 詳しくは正統の哲学 異端の思想 「人権」「平等」「民主」の禍毒を参考に まだまだ思想に関しては未熟で勉強中ですが、よければ参考にしてください。
お礼
ありがとうございます。
- Y Y(@yy8yy8az)
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民主主義と云うと、すべての人にとってありがたい主義のようなイメージがありますね。 ここは民主主義の世界なんだから、変わり者の私の主義主張でも受け入れてもらえるだろうと。 でも本当は、“多数決”の世界。 少数意見は通らない。通らないけど尊重はする。 政治家にとってとてもありがたい便利な言葉が「尊重します」。 でも実質中身はないですね。心情的な役割は結構ありますが。 他の回答者さんとのやり取りで、「人の意見を尊重したら自分を否定してしまうようだ」と言っていますが、これは多分に“心情的”事柄であって、回答者さんの意見を理屈でとらえようとしていません。 理屈では分かっても自身の“心情”が納得しない、と言っているのです。 「理」でとらえようとしながら「情」で受け止めてしまっているんです。 冷静に、あるいはクールに「民主主義とは」なんて考えるように自信をコントロールしましょう。 そうしてこそ民主主義の良し悪しを考えることになるのではないでしょうか。 ちなみに、強い心が有れば、あるいは大きな心が有れば、他者の意見を「尊重」しても自身は堂々と胸を張っていられます。自己否定なんて気持ちにはなりません。 ここで多くの人の意見に接し、学んで心を鍛え、自信が持てる人になってください。 わたしも一時はくじけそうになりましたが、復活して今は厚かましいくらいでしゃばって意見を述べています。 ここは学びの広場です。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。