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発達障害のアイデンティティを維持する方法とアドバイス
- 発達障害者がアイデンティティを維持するためには、他人に気を使いながらでも自分らしさを表現する方法を見つける必要があります。
- 他人の意見を積極的に受け入れながらも、自分自身の考えや意見を持つことも大切です。自分らしさを見失わないようにするためには、自分の内面と向き合い、自分の価値観を確立することが重要です。
- また、自分が信じていた価値観やアイデンティティが否定された場合でも、立ち直るためには自己受容や自己肯定感を高めることが必要です。自分を愛し、自分を大切にすることで、他人の意見や批判に左右されずに自分らしさを保つことができます。
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質問者が選んだベストアンサー
人とうまくやって行こうと思って無理をしすぎるを止めるというところから出発されればと思います。 もし、私自身が発達障害者でこうやって努力したらうまくいきました、というアドバイスを差し上げられたら良いのですが、違うのでそれは出来ません。ただ、質問者さまの質問文を拝見して本当に大変なご苦労があるのによく頑張っておられるなあという風に感じました。 私は元、ピアノ教師で生徒に発達障害の子がいました。でも親御さんは言われなかったのでその子を理解するのに四苦八苦しました。又、以前、付き合った知人がいてその人の場合は皆に変人扱いされていましたが発達障害だということが本人も含めて周りから理解されていないので人間関係に摩擦が生じて数年間、相談にのっていました。 結論として、発達障害の方とそうでない人との側には残念なことですが、それぞれの誤解が生まれやすいものだと思います。 質問者さまは周りの人と話を合わそうとして苦労して行き詰まりを感じられたことと思います。 ご自分の考えていることと違うことばかり言っていると苦しくなるだろうと思われます。 だからと言って本音を言うと人が引いてしまうということではないかなと思います。 でも、障害が無くても自分の価値観やアイデンティティが批判されることは人には思い当たることはあるものだと思います。普通はこれに慣れて行き、だんだん、人は人に本当に理解されることは少ないということをゆっくり学んでいくのだと思います。 しかし、一つの思い込みから解放されず、初めに思い込んだまま突っ走るというたちに生れつくと立ち直れなくなるほどきつい痛みを感じるものかもしれません。 知人の場合は自分で心に人とうまくやるルールを作っていました。つまり、人とは長話をしない、人には自分から電話しない、大人しくして自分の意見を言わない、そして究極的には嫌いな人はいないと思おうとかその他、結果としては自分を守ろうとすることで必死でした。 友人がいないのは出来ないのではなく、自分が親しい人を作ったら他の人が嫌な思いをするからと言ってました。客観的には自己欺瞞に満ちていたのですがすべて、保身のせいだったと思えます。 私が質問者さまに申し上げたいのはご自分のことをきちんと言い表し、そして果敢にご自分の障害と向き合って人と接していこうとされているのだから障害を認識されていない人よりもずっと前向きだということです。無理をしすぎると落ち込んでくるのでそれ以上、頑張る必要はないものと思われます。 今、発達障害の人は増えています。しかし、まだまだ、この病気が人に理解されるのには時間がかかるものと思われてなりません。お互いが試行錯誤を経て理解し合って行かねばならないと思います。 出来れば人とぶつかることをあんまり辛いと思わず、そして出来損ないなどとご自分のことを責められず人にはない能力もあると思うのでご自分を大切にして過ごして頂きたいと思います。
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- ノーバン(@nobound)
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No、3です。 お礼で言っていることはすごくよくわかります。よくわかるということは、よく伝わっているということで、コミュニケーション能力があるということだと思いますが、要は実際の現場のコミュニケーションで暴走する自分がこわいということでしょうか? つまり反社会的な自分は許されないと思っている、自分の反社会性はそうとうひどいと思っている、もしかしたら「殺してやりたい」ぐらいのものがあるとすると、やはり秋葉原事件ではありませんが、社会はそうとう厳しい目を持ちます。 そういう反社会性をどう扱うかに対しては、今のところ社会は何も提言していません。その割に事件になると刑罰はそうとう厳しいです。宗教的にはいろいろなアプローチがあり、自殺問題などにもとりくんでいますが、「殺してやりたい」はどうなのか? 自信のない人に「自分を信じよう」という決まり文句はそろそろやめた方がいいのかもしれません。信じる「自己」をどう取り戻せばいいのか?私には十字架が必要でした。
お礼
回答頂き有難う御座いました。 今の自分では「分かるように伝える」ことはできても、分かるように伝える「までには」すごく時間がかかってしまいます。例を挙げればこの文章もすごい時間がかかっています。ネットみたいに文字(視覚)だけで伝えられる手段ならコミュニケーションを取ることができるのですが、現実の短い制限時間のなかで声(聴覚)だけで伝えるコミュニケーションとなるとと適切な応対ができず…というわけです。 ただし、さすがに「狂犬」が自分の理性の鎖を食いちぎって大暴れ…というのはないと思っています。しかし鎖にはつながれていても他所様の玄関前でオシッコをしたり、咥えたボールを頑固に放さなかったり、ゴミ捨て場で漁ったりといった、「しつければどうにかなるんじゃないの?」レベルの問題行動を起こしているのではないかということです。 例を挙げれば、お茶をくれたOLに「まずい」だの「玄米茶がよかった」だの言えば気分を害させるのはさすがにわかります。しかし、「お!今日のお茶はおいしいね!」と言ったら何故か気分を害させてしまった・・・それはいつも不味い茶を飲んでいるのかと相手に思わせてしまうからであり、正解は「今日もお茶がおいしいね」と言えばよい・・・これがわかったのはつい最近です。この「高度な」コミュニケーションを「10秒足らずの短時間に」「臨機応変に」「適切に」取れないのです。むしろ逆にダメな選択を連続でしてしまって嫌な奴というイメージを植え付けてしまう・・・難しいです。 要するに、今の自分は傍から見れば狂犬というよりは迷惑犬です。しかし狂犬とは紙一重の存在かもしれません。さらに当人がそれを自覚してしまった以上、これらの迷惑行為をやめようとしたら(=他人に迷惑をかける個性を捨てようとしたら)、その本質があらゆる行動に直結していたため、何もできなくなってしまい自己のアイデンティティを見失ってしまった・・・のが今の自分だと思います。 > 自信のない人に「自分を信じよう」という決まり文句はそろそろやめた方がいいのかもしれません。 鬱病の人に頑張れ!→何を頑張ればいいの?今でも限界なのに。 自分を信じよう!→自分を見失っているのに?普通が分からない。 ・・・何か似ています。そういった点に関しては強固な価値観をもった宗教はたしかに有効な解決手段かもしれません。問題なのはカルトやインチキくさいものの区別がつけられず、ハマってしまう危険性も内包している自身にあるので、頼ることはない・・・かもしれません。 更にほじくり返すと、中学生時代に地元のお坊さんの息子に会議用折り畳みテーブルを足に落としてしまったことをきっかけに、殴られたり靴を隠されたり、窃盗の冤罪をなすりつけられたりと手ひどくイジメられた記憶が・・・今では跡継ぎとして広い霊園を管理しているそうです。どうも何が「正しい価値観」のかますます分からなくなってしまいました。 迷いはまだ消えていませんが、少しずつ頭の整理ができたかもしれません。有難う御座いました。
- ノーバン(@nobound)
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発達障害とは何なんでしょう?たぶんまわりとうまくつきあえるような社会性が育っていないことだと思うのですが、その分自分を大事にしていて、個性的な「自分らしさ」をもっている人が多いとテレビでも本でもいっています。ただそれをそのまま出すと社会からうとまれるというジレンマはあると思いますが、どうしてレストランで走り回る子供や暴走族ではいけないと思うのでしょうか?実際そういうことをやって社会性を育てている人たちも大勢いて、みんな多かれ少なかれそうやって自分を育てるのが当たり前、常識なのに・・・ 平気でレストランで走り回ったり、暴走族行為ができる人とあなたはどこが違うのでしょうか?そこらへんにヒントはあると思います。確かに迷惑行為ですが、世の中はそういう人たちを全否定はしていないと思います。 自分が信じていた価値観やアイデンティティが否定されてしまったとき、どうするか、「お前なんかに否定される筋合いはない」というべきではないでしょうか?あなたの「自分らしさ」を全否定される筋合いは全くないし、する権利も誰にもありません。少なくても「全否定」はありえません。「関係の絶対性」とは最低でも何割かは相手の言い分を認めることだと思うのですが、そのことがわからない親子関係の中で、自分の言い分が絶対で相手を全否定する、あるいはその逆、という不幸な関係が生まれているように見えます。
お礼
回答頂き有難う御座いました。 >どうしてレストランで走り回る子供や暴走族ではいけないと思うのでしょうか? >実際そういうことをやって社会性を育てている人たちも大勢いて、みんな多かれ少なかれそうやって自分を育てるのが当たり前、常識なのに・・・ >平気でレストランで走り回ったり、暴走族行為ができる人とあなたはどこが違うのでしょうか? 私自身が問題視しているのは、今も尚この暴走行為を無意識無自覚に行ってしまっているのではないか、ということです。 子供ならば近くの大人が叱ることで「そうしたらいけないんだ」と社会性を学び、暴走族は社会的制裁なり何なりでしっぺ返しを受けて大人しくなる?…のですが、どうも私はこの躾やしっぺ返しを受けてもそれを学んでいないのではないか、自身にフィードバックしていない?それとも誤訳している?と懸念点があることです。それを考えると子供や暴走族と何ら変りないばかりか両者よりたちが悪いのでは…じゃあ自分は何もかも間違っている?とドツボにはまっているのです。 その状況下で「お前なんかに否定される筋合いはない」といい返すのは今の自分にはかなり難しい対応だと思います。その対応は正しいのかもしれませんが、余計な言い方や一言で火に油どころかガソリンと花火を同時に放り込みそうな気がします。それを避けるために相手の意見を全面的に受け入れてしまい「うわあ・・・orz」と落ち込んでしまう、でも受け入れて実行しても付け焼刃なので失敗し・・・と、ひとつの悪循環に陥っているのかもしれません。 ・・・ますますドツボにはまっていそうな気がします。もうちょっと考えてみたいと思います。ありがとうございました。
私は心臓の内部障害を持っています。 しかし、アイデンティティという言葉が何を言いたいかによります。 べつにコミニケーション無理にとる必要はありません。 基本人間は、目に見える障害者には優しくというか、過保護です。 目に見えない、そのような感じを受けない障害者には、基本健常者と同じものを求めます。 私は健常者の普通の会社??(ブラック会社??)に勤めていますが、基本健常者としか 扱われません。 価値観についていう人間は、それほど価値観を持っていません。 そこで生き残るには、情報をどう的確に処理するかです。 まず人の目を気にしないことが初めでしょう。 自分が正しい、客観的に見ても正しいと思うことに、専念すればそれなりに、コミニケーションもできてきます。
お礼
回答頂きありがとうございました。 >目に見えない、そのような感じを受けない障害者には、基本健常者と同じものを求めます。 >価値観についていう人間は、それほど価値観を持っていません。 この一文には一つの感銘を受けました。ごく当たり前なのに気付かなかったので見識が広まったような気がします。 逆に言えばそれまで相手の立場や位置を分かっていなかった、知らず知らずのうちに自分を相手に押し付けてしまっていたのかな…ということなので凹んでいますが。 >自分が正しい、客観的に見ても正しいと思うことに、専念すればそれなりに、コミニケーションもできてきます。 客観的に見ても正しいことに追従すればいいのかもしれませんが、「自分が正しい」これが出来ていないのが今の自分です。場面場面で正しい選択がめまぐるしく変わるので適切な判断が下せない欠点があります(たとえば時間が迫っている状況下で、赤信号で誰も見ていないという理由で信号無視をするなど、道義的に間違っていても…などです)。 それを踏まえていかにすればコミュニケーションを取るべきなのか、また考えさせられました。 色々と参考になりました。有難う御座いました。
お礼
回答頂き有難う御座いました。 発達障害者と健常者が合わせるのは、現在進行形で大変です。たとえるなら二人三脚でしょうか。「俺は左から行くぞ!」→転ぶ→「左からだろ!」「だから左足を出したじゃないか」「お前から見て右だ!合わせるんだから真ん中の足だろうが、理解しろ!」・・・的なノリです。自分の場合はいつまでたっても「合わせ方」をマスターできず転倒の繰り返し、膝がぼろぼろで血が出て泣いてしまっている状態なのかもしれません。 回答者さまの知人の場合は憶測ながらも、この「二人三脚」で相当痛い目にあった末に導き出した答えの1つかもしれないと思いました。相手も自分も痛い目を見ないで済む、win-winのような錯覚すら覚えますが、どうしても息を合わせないといけない場面に出くわしてしまった場合や。ほんとうに困ったときは一体どうするのだろうか、と自分に被ってみえてしまい不安を覚えてしまいました。かといって馴れ馴れしくすれば相手も自分も痛い目を見る…一種のジレンマすら覚えます。 ご指摘通り無理をしているのかもしれません。もう少し考えてみます。ありがとうございました。