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キリスト教信者の聖書に対するスタンス
私はキリスト教の人とは今まで一切交友がありませんでした。 避けてたとかではなく、周りにいなかったのです。 しかし、ネット上の知識やOKウェブの哲学カテの質問などを見て、敬虔な信徒というのは聖書(経典)の内容を本気で信じてるんだなぁと感じていました。 例えば神の実在や創造論などです。 なのでほかの宗教もそんなものかと思っていたのですが、ある時仏教浄土宗のお坊さんと知り合い、お話をさせていただいたとき、試しに 「お釈迦様は悟りを開いたことで神通力を得たと聞いたけど本当だと思いますか」 と聞いてみたところ、その方は苦笑しながら 「たぶん創作だろうね。どんな宗教でも教祖を神格化してしまうことはあるけど、真面目に仏教に取り組んでる人間がそういうことを妄信していてはいけないね」 と仰いました。 また、霊やあの世の存在などについても 「あるかもしれないし、ないかもしれないけど、とりあえずあると信じとけば、地獄に落ちたくなくて善行を積む確率が増えるから、あるってことにしとけばいいと思ってるよ」 それではお葬式は何のためにするのかと聞くと 「遺族を納得させるためであり、同時に社会秩序の維持の儀式」 というふうにおっしゃいました。 曰く、 「仏教は苦しみから逃れるための方法を追求するものであり、オカルトの実在とか神通力とかはどうでもいい。矢で射られたときにその矢の存在意義とか射られた運命とかを気にしてもしょうがない。さっさと治療しないといけない。その治療こそが仏教だ」 とのことでした。 私は驚きました。 非常に明快で合理的といいますか…… 後日真言宗のお坊さんと縁があって出会った際に話を覗ってみると、ほぼ同じことをおっしゃられました。 あくまで仏教は方法論であり、救われさえすれば仏教である必要すらないと。 私は宗教家というものは教義の類を妄信してる人たちなのかなと思っておりました。 このカテの質問でも、仏教なら修行すれば御仏が降臨する、と考える人やキリスト教なら進化論が穴があるなら創造論が完璧な説だ、という人や科学的におかしいはずの聖書の内容を正しいと言う人もおりましたし。ただ、その人たちが単なる信者なのか僧侶や牧師のような専門家なのかはわかりません。 そこで気になったのですが、キリスト教の神父さんや牧師さんなどはどうなのでしょう? このお二人が仏教系僧侶の代表とは言えないにせよ、それに近い感覚でキリスト教をあくまで衆生救済の手段として考えている人などはいるのでしょうか? つまり、聖書の内容は人々を導くために描かれた創作であり、人間に都合のいい神はいないと考えているが、キリスト教というシステムが救いになると考えているから神父をやっている、というような人は実在するのか。 バチカンが近年まで進化論を認めようとしなかったとか、アメリカで日本の今回の地震はキリスト教を信仰しようとしない日本人への天罰である、と主張する人もいると聞くと、偏見ではありますが神父さんなどはやはり聖書の内容は絶対的であり、神は絶対に実在するのだ、と考えるのが一般的なのでしょうか。 乱文で分かりづらいかもしれませんが、よろしくお願いします。
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- kigurumi
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>聖書に、神が反省したと書かれているとは知りませんでした。 反省した という言葉は書かれていませんが、<二度としない>と人間と契約をしたと書かれています。 反省したからもうしませんと誓ったのだと解釈したわけです。 >論旨としては、人智を超えた災害に対して、神の実在を信じ、神の責任と考える >ことで精神的な安定を図る意味合いがある、ということでしょうか。 古代は雷、火山、洪水は神の仕業 もしくは神自身だと考えられていました。 その地点では、どうして雷が起こるのかはわからなかったからです。 現在は人間そっくりの形をした者が、雷を起こしているのではないとわかっているので、雷に関しては人智で把握できています。 地層の研究や気象の研究が進み、地球は同じ温度だったわけではなく、氷河期に何度も見舞われては、それが解けて大洪水が起こったとわかっています。 地震で海の水がひけて浅瀬になり、数時間後に引いた海水が押し寄せてくるのがわかっているので、地震の後海岸の水位が下がったら、注意する必要があるわけですね。 「わーい 渡れるようになった」と喜んではいけない。 神が一気に海水を飲み込んではき出すから津波が起こるのではないが、古代の人はどうしてそのような現象が起こるのか皆目わからなかったので、神の仕業だとして、被災した人は悪徳だったからだと、被災を当然の摂理だと力技で納得しようとしていたわけです。 ソドムの町があったと言われるところの地層を調べると、火山灰が何度も体積しているので、今は無いが古代は火山活動が活発な地域だったので、火山が噴火して村ひとつが火山でやられたとわかる。 しかし 火山の噴火で村がひとつ消滅したと聞いた遠くの人は「きっと悪徳の町だったから神が怒って滅ぼしたに違いない」と自然災害を自分たちの共同体の規律を正しくするために利用してしまったってわけです。 >確かに悪いことを神の責任として考える、神に押し付ける、というのは宗教の社会的な役割なのでしょうね。 因果律を考えるのが人間ですから、どうしても結果には原因があると考えるわけですが、科学的な思考ができない人は、全部神のせいにしてしまって、まったくおつむを使おうとしないようです。 全部 丸投げ。 人智で今ではわかっているものすら、神の仕業だといったい何千年前の人だろうと思うくらい知識の無さによるこっけいな発言を平気でしてしまい笑われてしまっているわけです。 中世のキリスト教会は、被支配層が知識を持つことをよしとせず、図書館を閉鎖したそうです。 聖書だけ学んでおればよいと。 支配層はちゃっかりいろいろな学問を学ぶので、圧倒的に支配者と被支配者には知識において差ができ、支配者のほうが賢くなるので、非支配層を赤子の手をひねるように支配できた。 アメリカの学校もかなりの割合で進化論を教えていない学校があるそうです。 その地域の人はみな、誰も進化論を知らないわけです。 だから、神が人間を作ったと言ったところで、周りもそういう教育を受けているので、常識だとなるわけです。 その常識をもって日本に留学すると、日本はなんて不信仰で 非常識なのだとしかみれないわけです。 日本では進化論を教えるので、アメリカから来る留学生を、いったい何千年前の人だろう?と思うわけです。 ただ、根強く教育において情報操作されているアメリカにおいても、知識人は大人の人間をいきなり作った神など存在しないと知っている。 自分の研究で知ることとなるわけですが、それを言ってしまうと、研究費が出ないわけです。 だから、研究を発表したり製品を売り出すときには、情報コントロールされている消費者の気に入る文句をリップサービスで言うわけです。 「神の啓示があったのかインスピレーションが沸き、そのとおりにやったらこんなのができました」って。 すると消費者は神からの啓示があった商品だからと思い、購入したり研究資金を提供してくれるわけです。 馬鹿とはさみは使いようです。 そういう意味では被支配層に知識を与えないことで、商品が売れるわけで、キリスト教さまさま なわけです。 支配者層にしてみればね。
- age1118
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No.3です。論証的といったのは、例えば、 神様について言えば、無から有が生じないことを考えれば、その原因を考えることは、普通のことです。その原因から生じた人間が一定の人格と知性を備えていることを考え合わせると、その原因にも少なくとも同程度の人格と知性があると考えることは、ごく当然と言えます。これは、なんら強弁でもなく、ごく普通の考え方です。 一方で、この世界が魔法のように6日間であれよあれよと創られたと考えることは論理的に無理があることを考えれば、その本来意味するところとは、どういうものなのかと、考えるような考え方を言ってます。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 確かに、私も現代の科学教育がなければ世界を作ったのは神様だ、というふうに考えていた可能性は高いかと思います。
私は日本のキリスト教会については判りません。もっぱらアメリカの、しかも、新教についてだけしか知りません。幸いカソリックの方がもう回答していらっしゃるので、ちょうどいいですね。 二年ほど前、NYの空港で、コネチカット州在住のイスラム原理主義者が飛行機に乗る寸前に逮捕されました。 それをうけて、確かアラバマ州の牧師さんはコーランを焼き捨てる運動を教会を挙げて始めようとして、メディアにコンテンパンにのされて、引き下がりました。一方、州は覚えていないんですが、やはり牧師さんがイスラム教徒の子供達を自分の教会に招いて、交歓をはかってゆく、という記事が載りました。同じ聖書を勉強してきた牧師さんでも、これだけ器量に差があるのは、人間考察をする上で、面白いことだと思います。 質問者さんが問答をなさった浄土宗のお坊さんは、大変洒脱な受け答えをなさってお見事です。長く修行をなさって、その修行がなっている、人間がなっているから、そんな風に自信を持てるのでしょう。これが、仏教会を代表して、素晴らしいことを言ってやろう、なんていう人だと、そういう風に率直にはお話しになれなかったと思います。 同じように、自分の生涯を布教に捧げた牧師さんの内面が成長すればするほど、自分に厳しく、他人に優しく、聖書の読みどころ、力のいれどころは強調して、そうでないところはサラッと流して、と言うメリハリをつけていらっしゃるように思います。とにかく、よく勉強していらっしゃるので、何を聞いてもご存知なんですが、それを人に強要しないで、信者さんの成長の度合いを見て、お話をなさいます。 お医者様と一緒で、自分の病状を披瀝することはないので、判断は難しいのですが、一度だけ、オヤッと思ったことがあります。私の父系は代々キリスト教徒でしたが、母方は仏教徒なので、ご先祖様が地獄に行くのに、私だけ救われるのは困るわけです。そんなことを何度かお話していて、最後にお会いした時に、”若い時は天国にいけるのは、キリスト教徒だけだと頑なに思っていたんだけど、最近はちょっと違う風に考えているよ。貴女のお母さんも大丈夫だと思うよ。”と内緒話をして、ウィンクなさったことがありました。 そんな風にして、私を苦しみから解放してくださったんですね。 聖書に忠実に生きるのが新教徒なんですが、聖書の解釈も様々です。年一回コンヴェンションを開いて、意見の調整を試みていますが、実際の生活の中で聖書の教えを生かしてゆく方法は、千差万別です。 ですから、日本の地震報道を聞いて、心無いことを言う輩もいるであろうと想像がつきます。人間としても、キリスト教徒としても、残念です。そんな中傷を気になさらず、復興に尽力なさるよう、祈っております。
お礼
ご回答ありがとうございます。 同じ神父さんや牧師さんでも成長の度合いによって考え方が変わるというのはあるのでしょうね。 納得がいきます。 そういえば他の質問で、日本にキリスト教を広めに来た宣教師が、天国に行けるのはキリスト教徒だけ、と言ったら日本人が、先祖が天国に行けないのなら私も天国に行くわけにはいかない、と答えたために狼狽した、という出来事があったとのことで、なるほどなと思いました。 歴史的に選民思想が強い宗教なのでしょうね。 私自身はイエスはキリスト教徒だけを特別扱いする気はさらさらなかったのだろうと思います。 イエスは自分の死後に教団を作ってはいけない、という遺言を残したとも聞きますし。 キリスト教という組織化されることで、どうしても営利的な考えや思考が反映されるのは当然だと思いますし。これは仏教でも同じですね。 しかしそういう営利的な側面のおかげで現代にも伝わっていると考えるとそれを否定するのも、おかしいですしね。 ただ、教祖による根本の教えと、組織として運営する中で追加された部分はきちんと認識すべきなのだろうなと思います。
- michael-m
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仏教の立場は難しいですね。欧州を中心に「仏教は思想や哲学で宗教ではない」と主張する学者も居ます。もちろん反論も大きいです。 カトリックの人にも歴史学者や科学者が大勢います。 歴史学者の中には「キリストには妻や子があり、他の地で死んだ」あるいは「葬られている」という人がいます。 直接聞いた訳じゃありませんが、様々な記事などを観ていくと、これに対するカトリックの学者の考えは様々みたいです。 でも、共通して科学である程度の事が証明できても、カトリックの信仰が崩れる事は無いと言います。 これは私が習った事なのでカトリックに共通してはいませんが、 カトリックで十字架やマリア像などを拝むが、仮に十字架や像を以って神性だとすれば、それは偶像崇拝になる。同様に聖書に書かれている文面通りに信じる事は、ある意味偶像に近い。 考えるべきはそこに書かれている神の意思だという人も居ます。 つまり、聖書は「神の意思を伝える為に造られた物語」だというのです。 でも、やはり中には聖書どおりに間違いなく信じるべきという人も居ます。 カトリックやキリスト教の中にも聖書の解釈は様々なんです。 ある人は「米国では進化論を信じていない人が60%を超える」ともいいます。 キリスト教でも革新的な人も居れば、原理主義も居るということです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人それぞれなのは当然として、キリスト教徒にも聖書を手段として認識してる人もいるようですね。 西洋人は東洋人よりも合理的なイメージがあるので納得がいきます。 仏教は宗教か哲学か、ですが、これはそこまでこだわるようなものでもない気がしますね。 定義が宗教だろうと哲学だろうと仏教は仏教ですし。 個人的には上座部仏教は哲学に近く、大乗仏教は宗教に近いのかな、くらいには思っていますが、両方の要素が入り混じっていて明確には分離できないというふうに私は感じていますが、これも言葉遊びの範疇を超えない気がします。
牧師先生は大体は聖書を絶対的と考えているそうです。以前、聖書の矛盾を追及したこともありますが、うまくかわされました。また、クリスチャンの方々も聖書を大体は絶対的と考えているそうです。ですので、 <神父さんなどはやはり聖書の内容は絶対的であり、神は絶対に実在するのだ>は一般的と感じます。少なくとも私が接している方々はその様に考えているそうです。 ただし宗派によって、個々人によっても解釈は多少は違うようです。それで教会内でも聖書についての話し合いなどがあります。聖書の追求は終わりがありません。キリスト教では『まず聖書』という態度と感じています。聖書の解説書ではなくてとにかく聖書を読め、と。 と、書きましたが私の信仰は『いい所取り派』です。神道の『よろずの神』の考え方は好きです。アイヌの方々のカムイという考え方も好きです。仏教の無欲が最上という考え方も好きです。キリスト教の一神教や天使様という考え方も好きです。輪廻転生も他では批判していますが(気にされた方がいらっしゃったらすみません)、私は選択性ならあっても良いと思います。 話がだいぶ横道に入ってすみませんが、信仰は『あくまでも個人の自由』だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 個々人によって違う、というのはやはり当然でしょうね。 しかし、まず聖書、ですか。経典なのだから当然と言えば当然なのかな。 そもそも聖書自体昔の人が書いたものだからそれを絶対的と考えるのは不思議なものですね。 仮に神が実在し、神の意志で書かれたものだとしても、それが現代の言葉に訳されたりするうちに人間の解釈は混じるだろうし。 信仰とは個人の自由とは当然と自分も思います。 極端な話ですが洗礼を受けてなかろうと、現行のキリスト教の組織は否定していたとしても、自分がキリスト教徒だと思っていればその人はキリスト教徒なのだろう、と思います。
- age1118
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通常、多くのキリスト教では、妄信的な内容であっても、そのまま信じることを是としてると思う。その一方で、神や霊界の実在や天地創造について、より論証的な内容で理解しているところもあります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはりありえないような内容でも現在でも信じている人が多い、ということですね。 論証的、とはどういうことでしょう。 聖書の内容を科学的に分析した上で、実在を信じているということでしょうか? 不思議ですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 組織宗教を認めない立ち場ですので 聖職者がどう考えているかは屁の河童とします。 《ヨハネによる福音》は 記した。 はじめに ことばがあった。 ことばは 神とともにあった。 ことばは 神であった。 このことばは はじめに神とともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。 このことばに命が あった。 そしてこの命は 人を照らす光りであった。 光りは 闇のなかに輝いている。 闇は 光りをとらえなかった。 (1:1-5) (1) これは 存在の受動性において――人はみづからを生むというのでは必ずしもなく 生まれるという この表現に拠るとすれば それとよく似た受け身のかたちにおいて―― じっさい経験思考に先行していると考えられる信仰のほうからすべての表現が 語り起こされている。 (2) この一節の全体で 《真理は真理である》と言うのに等しい。具体的にはこの《真理 X 》が 《神 / ことば / 創造の主体 / 生命 / 光り》と表現されている。《非経験 X 》のことが おおむねこれらの経験されうることばで代理されている。 その言葉・その文字の額面どおりに この《かみ》があるというのではない。この聖書記者ヨハネの信仰(=非思考)にもとづけば そういう仮りの説明表現が得られたということであり それであるに過ぎない。 (3) 念のためにいえば 物理的な光りや人間のことばが 神 X であると言っているのではない。 創造が 経験的にも認識しうる何らかの主体(その意味での神)によって 経験行為として行なわれたと言っているのでもない。創造したということも その表現は 仮りのものである。 宇宙の初めとしての創造(あるいは生成)にかんしてなら 大前提としては《非経験》へも開かれていると確認しつつあとは 自然科学によって認識されうる経験行為のみがあったと言ったほうがよい。誤解があってはならないと思われる。 (4) 《闇》が すでにここで触れられていることは 時間過程や経験領域とのかかわりを 排除していないことを意味する。おそらくは 人間の存在の問題であることを物語る。つづく段落にそのことが見られる。 ここにひとりの人があって 神から遣わされていた。 その名をヨハネと言った。 この人はあかしのために来た。 光りについてあかしをし 光りによってすべての人が信じるためである。 ヨハネは光りではなく ただ 光りについてあかしをするために来たの である。 (1:6-8) (5) 経験領域( Y )ないしそこに存在する人間( Z )とのかかわりが触れられている。 (6) まづあらためて非経験 X と人 Z との関係。光り X との関係。これが信仰 X-Z の問題である。 非経験ゆえ それは 非思考である。非思考の庭が わが心に成るという意味であろう。 (7) おそらくはこれに人の思惟と行為のすべてが基づくであろうという確信を述べている。非経験の《光り X 》がこの経験世界 Y に生きる《人 Z を照らす》。非思考の庭において心を照らす。経験世界の《闇の中に その光りは輝いている。闇は光りを捉えなかった》。 (8) そこでこの経験世界 Y について人 Z がおこなう事実認識は 科学行為であり それとしての世界観 Y-Z である。それは 出来るだけ主観から自由になろうとしている。 (9) そうすると片や非経験をめぐる非思考としての信仰 X-Z があり 片や経験事実をめぐる思考・認識としての科学行為 Y-Z がある。これらを全体として含むのが 人間の現実である。それは 《わたし》の主観真実 X-Y-Z である。 (10) 言いかえると 《事実》と《真実》とを含むのが 《現実》である。世界現実についての直感ないし直観(←信仰)および思考(⇒科学)が 世界観 X-Y-Z である。 (11) 非経験 X は 《神》と言えば有神論であるが 《無い神》とすれば無神論である。《創造主がいる・いない》は互いにひとしい。なぜならそれらは仮りの表現であるにすぎなかったから。非思考ゆえ それが有るのか無いのか どんなモノか・コトか・何なのか それらはいっさい人間には分からない。分かるか分からないかが分からない。 (12) 非経験 X が 《神 X (狭義の X )》でも《無い神・無 nonX 》でもありうるからには 《わたし Zi 》の主観真実としての世界観 X-Y-Zi は 人それぞれでありつつ類型として普遍的である。
お礼
ご回答ありがとうございます。 どうにも私は哲学的な思考に慣れていないようで、いまいち論旨を理解しきれないようです。 ざっと自分なりに解釈すると、聖書の内容とは具体的な記述ではなく、イエスの教えを理解するための例え話のようなもの、ということでしょうか? 神が実際に世界を作った、ということが言いたいのではなく聖書に描かれた物語や文章を通じて真理なりなんなりを読んだ人間に認識させるための、説話のようなもの、という解釈でよろしいでしょうか。 自分なりに考えてみます。
- kigurumi
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>アメリカで日本の今回の地震はキリスト教を信仰しようとしない日本人への天罰である、と主張する人もいると聞くと 聖書には、自分が作ったものが気に入らないことをしたからと大洪水を起こして、動物すらも水死させた神に対して人間が怒り、神は反省して 二度とこんなことはしませんと人間に誓ったと書かれています。 かんしゃく起こして たくさんの生命を溺死させた罪を認め改心したはずの神が、またもやかんしゃくを起こして約束を破り、暴れたのでしたら、その責任をとって、家や無くなった人を生き返らせたりとか、反省をして謝罪してもらえばいいわけで。 アメリカ人のその人が、犯人は神だといっているのだから、その神に弁償してもらえばいいわけですよね。 それと3度目は無いぞ ってお仕置きしておくか、もう信用ならないからと宇宙の外に追放するか。 簡単な話 宇宙の外まで追放しなくても 誰もファンタジーを信じなければ存在しないことになるので、誰も存在を信じなければ、日本がキリスト教の神によって被害を受けたとならないわけで。 存在を認めなければ、犯罪者は存在しないことになる。 認めれば、キリスト教の神が犯罪を犯した忌むべきものとなる。 信者がそのファンタジーの世界から神をひきづりだしてくれたら、その神を縛り上げて、説教できるんですけどね。 信じている信者なら、ひきづりだせますよね。 信じていないなら 存在しないので、ひきづりだせない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 聖書に、神が反省したと書かれているとは知りませんでした。 聖書の中では神とは絶対的な存在として扱われていると思っていたので驚きました。 論旨としては、人智を超えた災害に対して、神の実在を信じ、神の責任と考えることで精神的な安定を図る意味合いがある、ということでしょうか。 確かに悪いことを神の責任として考える、神に押し付ける、というのは宗教の社会的な役割なのでしょうね。 精神異常をキツネ憑きなどとして理屈付けるのと同じような感覚でしょうか。 そういう意味では宗教家はともかく一般信者が神の実在を信じることは大切なのかもしれません。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 確かにキリスト教は支配者階級による支配ツールとしての役割も持っているようですね。 嘆かわしいことです。 もしキリストが現代によみがえって、そうした現状を見れば嘆くことでしょうね。