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日本における公文書の扱い
日本では、国立公文書館法に基づいて「歴史資料として重要な公文書等」を保存することが決められておりますが、何を以て重要と決めるかは総理大臣および内閣の自由な裁量に任されています。要は、「不適切な文書」は処分できるということです。 また「現用の資料」は公文書館への移転が免除されているため、「実際にはいつ最後に使われたかも分からない資料」が「現用」のまま、各省に残されています。 先日、一時帰国をした際に「国立公文書館」を実際に利用してみましたが、公開されている資料の少ないことに驚愕しました。 ドイツをはじめ先進諸国では、「重要かどうかに拘らず」国家機関の書類は「すべて」一定期間を過ぎた後、文書館に移転されることが決められております。学者はすべての文書に目を通した上で、学問的見地から自分のテーマにとって重要な文書をピックアップして論文に引用することが可能です。生存個人の個人情報(公開されていない名前・住所や生年月日)に関わる部分に関しては、了承を取る必要がありますが、基本的には学術引用は完全にフリーになっています。実際、ドイツの連邦文書館では、公用車の配車表・ガソリンの領収書まで見ることができます。 日本政府が明確に国民に開かれた政府となるためには、一定期間を過ぎた「すべての公機関のすべての文書」を例外なく、公文書館に移転するべきと考えます。 皆さんはいかがお考えでしょうか? 賛否両論、理由を添えてお願いいたします。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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今は知りませんが、仕事の関係で一部の省庁の事を垣間見たことがあります。 1)担当者(係り実務者と係長のペァ、総括係長は別)も課長補佐も個人の資料とします。 そして殆どは事の重要性に鑑み墓場に持っていくという言葉があるようにそうしているようです。 2)そういう方は退職や人事異動のときに、引き継ぐ内容としないで廃棄するか自宅に持っていくようです。 3)だから昔は屑やから貰い受けていた学者もいたとの事です。 4)そういう担当者や責任者、或いは前項の学者さんがなくなったり、ちょいとしたことで整理したいとなると私達は思いがけない資料に出会いました。 5)何かが公開されるかも知れないとなると、ほんとのことができない。 或いは本当の話が出来ない。ということでいろいろ遂行に支障が出てくるのではないでしょうか。 そらが#1さんのお気持ちでしょう。 全体や情況の理解も捨象して、曲学阿世、売学、或いはある種の意見表明やアジテーションなどにも活用されるなら出さない。そんなことかも知れません。 記録をとるなら、とればいい。でもその限りのことしか論議もしないし、こともなさない。 これは当然だと存じます。 どんな隅にも、外に出ない事はたくさんありますね。 車のガソリン代や駐車のこと、その他は構いませんが、運転手は絶対聞いていないことになりますね。公的な資料だけは出るでしょう。 その間をつめる綿やコンクリートは出ないですよね。 判決文はでるでしょう。判事などの会議の内容は出ないでしょう。そんなものかも知れませんね。 外国は知りませんが、同じだと存じます。 出ないことが多いと思います。
- tyr134
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>日本政府が明確に国民に開かれた政府となるためには、一定期間を過ぎた「すべての公機関のすべての文書」を例外なく、公文書館に移転するべきと考えます。 同意見で全面的に賛成ですね。 日本は、省庁の倉庫の奥にしまってあるならまだマシな方みたいですね。 外交ジャーナリストで作家である手島龍一氏と、『ローマ人の物語』の著者である塩野七生氏が『文藝春秋』(何年の何号だったかは失念しましたが)において対談した記事が載っていたのですが、そこに衝撃的な事が語られていました。 それは、外務官僚が外交交渉時の記録文書を次々にシュレッダーにかけたり、そもそも記録自体を取らないといった事がまかり通っているんだそうです。 これが本当なら、我々の時代の事は外交相手方の文書しかないって事になって「歴史=財産」が失われていっていることになります。 これは由々しき事態ですね。 そういえば、非核三原則関連で、米軍が持ち込むことを黙認する密約があったことが最近発覚しましたね。 あれも、きっかけはアメリカ側の資料が法律にのっとって公開されたことでした。 今回はたまたま外務省側にも残っていたようですが、もし無かったとしたらアメリカ側のねつ造なのかや交渉内容がどうだったかなど検証ができず、歴史の闇に放り込まれることになっていましたね。 もし、領土問題交渉などで拗れた場合、こんな感じで相手国側の記録によってしか検証できないとなると、こちらの正当性が主張出来なくなってしまいますし。 「歴史」は国家財産であるとともに、対外国との交渉の武器でもあります。 「尖閣諸島」の領有が主張できるのも、こうした「歴史資料」があってのことですし。 政治家・官僚のみならず、広く国民も「歴史を残す」という事にもっと関心を向けて欲しいものです。 まぁ、「歴史主義」に走りすぎるのもどうかとおもいますが。 なんだかまとまりのない文になってしまいましたね。 ではでは、駄文で失礼しました。 参考になれば幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。質問をした後、忙しくなってしまい、まとまった時間が取れずにお礼が遅れてしまいました。どうもすみません。 記録文書を次々にシュレッダーに掛けている、などという暴挙が行なわれているのですか? それは由々しき事態です。すぐにでも止めさせるような立法に議論を向けていかないといけませんね。そこまで組織的に史料の破壊が行なわれているとは思ってもいませんでした。日本の官僚はよほど私腹を肥やすことしか考えていないようです。『文芸春秋』の記事、見つかったら読んでみたいと思います。 「尖閣諸島」の問題も、一民間人が所有していた古地図が客観的な史料として注目を浴びていましたね。民主党政府の弱腰だけが非難されているようですが、歴史的に自民党政府がどのように扱っていたのかも見る必要があると思っています。その史料は恐らくほとんど破砕済みということなんでしょうが。 非常に参考になる情報、どうもありがとうございました。
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
公開されずに保管だけされている資料は、まさに死蔵でありまったく意味がないと思います。 ただ、廃棄をせず例外なく全てとなると、コストの面で困難だと考えます。 資料の学術引用の優劣については、研究者というソフトウェアの問題ですので、まずは文書公開の拡大というハードウェアの整備が不可欠だと思います。 学術研究でもっとも危険だと思うのは、ある研究者が、研究者一般に公開されていない資料を用いて、資料の一部のみを引用して、恣意的な解釈を加えることだと思っております。 その研究成果に疑念を覚えても、当該資料にあたる機会が閉ざされていれば、学問的発展は望めません。 「すべての公的機関のすべての文書」は、いろいろな面で困難でしょうが、もっと拡大されてしかるべきだと思っております。
お礼
ご回答どうもありがとうございます。 将にその点が憂慮されるべきだと考えます。更には、どれだけ政府および官庁が「公僕」として誠実な政治を実行しているのか、ということも資料が出てなければ、どれだけ喧伝しても実証できません。 「すべての公的機関のすべての文書」は、恐らく最終目標でしょうね。いきなりそこに到達することはできないと思っています。しかし、少しずつでも、拡大できれば良いですね。
- PENPENMAKKY
- ベストアンサー率17% (344/1984)
日本の学術レベル及びマスコミの質を考えると、全面公開すべきではありません。 日本の歴史学・政治学のレベルは酷すぎます。唯物史観や唯物弁証法を不磨の大典とした研究を行なう人が多く、文書の一部に研究にとって都合の良い(文書自身は論文とは真逆の内容)部分だけを抽出引用される方が多く見受けられます。 大学の教授・講師陣もその大半が課程博士か中退であって、論文博士はほとんどおりません。 このような現状では豚に真珠です。
お礼
ご回答ありがとうございました。 日本だけの問題ではありません。国際的に明確な実証研究を可能にするためにも公文書の公開を考えるべきだと思いますが、いかがでしょうか? 日本が国際社会で認められない一因として、公文書の秘密主義があると思います。中国韓国だけの問題ではなく、英米独仏などとも関連して。これらの国にも日本学の研究者は居ます。ついこの間まで共産主義国であったポーランド・チェコの文書館の方が日本よりも開かれています。 文書の一部を引用するのは、仕方のないことです。全文を引用することが不可能な場合が多いので。しかし、元文書の内容とは異なって論文に引用された場合には、「全面公開されていれば」別の学者が明確な元文書の引用と共に反論することが可能です。そういう形で右からも左からも恣意的な部分抽出を淘汰していくことが必要と考えます。現状では政府の恣意的な部分抽出だけが公文書館として存在しており、政治のレベルも酷すぎます。 歴史学をはじめ、文系に論文博士が少ないことは知っています。これは日本政府の文系政策の結果であり、それを発展的に解消していくためにも情報公開は必要です。回答者様の認識では回答者様も含め国民は豚ということになりますが、私の理解は正しいでしょうか?
お礼
大変遅くなりましたが、ご回答ありがとうございます。質問掲載後、公私共に忙しくなってしまい、ほとんどOkwaveを見に来ることがなくなってしまいました。 さて、ご意見に関してですが、「本当の話」とは何でしょう? 公文書の公開が行われるドイツでは「本当の話」はできていないのでしょうか? 何も議論をした翌日に全部公開しろと言っているわけではありません。公文書法は基本的に30年経ったものの公開を義務付けております。「事の重要性を鑑みる」からこそ、公開されるべきではないかと思うのですが? 人に見せられないというのは、「国政の私物化」以外の何物でもないと思います。ちゃんとその時点での法律、規則、その他に則った議論をしているのならば、何を恐れる必要があるのでしょうか? 法律無視、規則無視、個人や省益のみを優先し、国民の利益を蔑にしていると放言しているようなものだと思いますが、違いますか? 確かに完全にすべての史料を保管することは難しいでしょう。配車表が残っていても、実際にはどこかで少し寄り道したかも知れません。ただ、アウシュヴィッツ周辺に配車されていた車両がワルシャワに居ることは不可能なわけです。厳密に計算すれば、当時の燃費とガソリンの領収書から、その車両が大体配車された距離を走行していたかどうかまでは推察することができます。 100%の史料整備を求めるのは不可能にしても、恣意的な10%の史料のみが公開されるのは、有害と思います。中国や韓国の歴史認識をバカにする発言が最近増えてきていますが、五十歩百歩ではないでしょうか?