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なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか? 関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。 真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。 それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか? 当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか? ※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

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noname#121598
noname#121598
回答No.3

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか? 一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。 米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。 大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。 これを「統帥権」と呼びます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9 明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。 内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。 時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。 大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。 これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。 それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。 実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。 最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。 現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。 次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。 つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。 国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。 つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない 神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。 国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。 それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。 結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

noname#153988
質問者

お礼

回答ありがとうございました。とても参考になりました。やはり統帥権が問題の根源なんですね。明治ではうまくいってたやり方が昭和で綻びを見せたといういことは、政治が硬直していて時代の変化に即応できなかったという事でもあるんでしょうか…。ご意見ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • Yelm
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回答No.7

もともと明治維新体制はその権力基盤の脆弱さから軍と政府を明確に分離することで、反政府勢力が政府を揺さぶっても軍には変わらず「体制の擁護者」たる事を求めました。 この体制そのものは、当時としては妥当なものだと言えます。 無論、このような体制は対外戦争には不向きなものですが、明治時代は伊藤博文、山県有朋など元勲が「超法規的」に軍と政府の意思統一を図った為、問題は表面化しませんでした。 しかしながら日清・日露を初めとする戦争の勝利は「明治体制の正しさの証明」と受け止められ、体制の変革を困難なものとしてしまいます。 しかしながら元勲のカリスマ性に頼った体制が長続きするはずが無い事は当時から明白であり、大正~昭和初期には「統帥権の独立」は「純粋な作戦面に限定されるものである」とする立場が主流であり、軍が政治的にも政府から独立していると見なす立場は軍内部でも少数派でしかありませんでした。 ところが1930年のロンドン軍縮会議において当時野党であった政友会の犬養毅、鳩山一郎らが「統帥権の干犯」であると軍縮条約を調印した政府を攻撃し、統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。 これ以降、議会で軍部の行動を統制しようとすると政敵から「統帥権干犯だ!」と揚げ足を取られる事態を招き、議会は自ら軍部に対するチェック機能を放棄してしまうのです。 当然ながら、議会における目先の駆け引きに「統帥権」を弄ぶ行為は国民の信頼を失ってしまい、議会の地位はこれ以降、低下の一途を辿ります。 更にこの「統帥権の独立」を盾にとって行われた1931年の満州事変が「大成功」と認識され、国民の圧倒的支持を受けてしまったことで「統帥権の独立」はドンドン肥大化してしまうのです。 実のところ当時から「統帥権の独立は時代錯誤」という意見そのものは珍しいものではなく、軍事や政治に関する書籍でも普通に批判は行われていたのです。 つまり「統帥権」とはとっくに時代錯誤と見なされていた古くさい憲法の条文を「目先の権力闘争に目を奪われた近視眼的政治家」と「それを利用した軍部」そして「無責任にもてはやしたマスコミや世論」が揃って持ち上げ、それを「神性不可侵」の存在にしてしまったことが、軍部の暴走を招いてしまったのです。

noname#153988
質問者

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回答ありがとうございました。史実に基づいた説得力ある内容で、とても参考になりました。それにしても何という議会政治の皮肉。野党が政府攻撃をするために用いた材料が軍部に利用され、こんな悲劇を招く結果になるとは…。国益よりも政局優先の無責任な政治は現代でも当てはまる事を考えると、背すじが寒くなってきます。ご意見ありがとうございました。

  • eroero1919
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回答No.6

日本には、昔から「上位にある人が実権があるとは限らない」という不思議な伝統があります。 外国企業なんかじゃ、「上になればなるほど働く」となります。よくアメリカなんかじゃ「5時になると仕事の途中だろうがなんだろうがすぐ帰る」なんていいますけど、それはブルーカラーのような下位の人たちの話で、ホワイトカラーの人たちとなると「早朝から深夜まで」「休日もへったくれもない」となります。つまり偉くなればなるほど働くシステムになっています。 しかし日本の場合多くの会社で、社長は単なるお飾りであったりします。他ならぬ内閣総理大臣がそうで、我が国じゃ首相だからといって何でもできるかというと、首相ってどちらかというとあんまり何もやらないで、大臣とか議員や官僚なんかが走り回っているわけです。 日本人てね、どういうわけか「偉い人に権力を持たせる」っていうのを嫌がる民族なんですよ。小沢一郎氏なんて裏でキングメーカーになっている割には誰も文句いわないけど、「首相になる」となればものすごく嫌がる人が出てくるわけです。欧米の価値観では、「キングメーカーが表舞台に立って権力を振るうのは当然」となるわけですが。 というわけで、旧日本軍には「統帥権」というのがあったわけですが、現場の軍人はそれをタテに暴走していくわけです。 これは現代でも事情は変わっておらず、例えば海外派遣の自衛官が戦闘状態に巻き込まれたらどうするなんて実は全然決まってないのです。いや、一応「現場で判断する」ってなっているのですがすごーく曖昧にしてあるのです。だから、もしそうなったら現場は「暴走せざるを得なくなる」のです。どこまでがOKで、どっからがダメなのかが決まっていないのです。そもそもシステム的に暴走するようになっているんですね。暴走したときに歯止めになるものがありませんから。 もし日本にリアルに有事が発生したら、首相は閣議を開いて・・・なんて決まっているのですがいざそうなったときにそんなことをのんびりやっている時間なんてないわけで、もしそうなれば最終的にはおそらく自衛隊も腹をくくって暴走するしかなくなると思います。 実際のところ、1976年に函館にソ連のMig-25が亡命した事件では「ソ連軍コマンド部隊が函館を急襲して戦闘機を破壊しに来る」という情報が入り、現場はどうするか凍りついたそうです。しかし当時の政治情勢はいわゆる「三木おろし」のまっただ中でそんなときに有事のどうこうなんて政治家は誰も関わりたがらない。致し方なく、現場の部隊は「もしソ連軍来たらば反撃せよ」と決意を固めます。だって、攻撃されたのになすがままにされたなら自衛隊の存在意義がないじゃないですか。 結局、この暴走未遂事件は襲撃がなかったのでそのまま終わり、しかし準備したり連隊長が命令を出しちゃったりしたのは事実だったので、関係者は処分され事件は闇に葬られたそうです(公式資料には何も残っていないそうです)。 満州事変にしても515事件にしても226事件にしてもそうなんです。政治がうだうだしていて何も前に進まないので「既成事実を作ってしまおう」となったのです。 この、「既成事実を作ってしまおう」って現代のサラリーマンもやってしまう人は多いんじゃないでしょうか。特に「切れ者」と呼ばれている人に。経営陣の判断を待っているといちいち小田原評定で何一つ決まらない。そこで切れ者の部長なんかが「やってしまえ」と既成事実を作ったら経営陣が事態に引きずられる形で承認するなんてことがね。 またこれは重要なことですが、515事件が起きた後、実行した将校たちに全国から助命嘆願運動というのがものすごく起こったのです。裁判はその大衆の熱気に引きずられる形で将校たちは軽い処罰で済んでいます。 226事件の将校たちは可哀想でしてね。彼らは自分の熱意と決意を陸軍の重鎮と呼ばれる人に相談すると、その重鎮は「おおいにやれ」とどう見ても「重鎮が承認した」以外に取れない一言を発します。それで彼らは大いに勇気づけられて実行に移すのですが、しかし他ならぬ昭和天皇が激怒、「俺が兵を率いて戦う」とまでと言い出して彼らは「叛乱兵」となります。 実は226事件には何人か黒幕が存在したことが戦後かなりたって裁判資料が出てきたことで明らかになりました。その黒幕たちは当時の陸軍の錚々たるメンバーで、もしそれが明らかになったら相撲界の野球賭博問題以上の大問題になったでしょう。そして裁判は秘密裏にされ、重鎮を始め黒幕たちは掌を返して「そんなことは知らんなー」と将校たちを裏切ったのです。 実は日本史というのは、「煮え切らない政治と軍事の暴走の歴史」でもあるのです。幕末の大政奉還から倒幕の密勅なんかの流れもそうなんですよ。

noname#153988
質問者

お礼

回答ありがとうございました。非常に示唆に富む内容で、とても参考になりました。回答を読んで分かったのは、戦前という時代が決して特殊だったわけではなく、日本が長年引きずっている体質が悲劇を起こしたということですね。非常に興味深いエピソードも盛り込まれていて勉強になりました。この回答は教訓として抱かせて頂きます。ご意見ありがとうございました。

回答No.5

難しい話しは既に説明されているようなので簡単に記します。 官=公務員というものは組織防衛の塊だということです。それは現代にも続く弊害であります。 難しい図上演習や訓練を指揮し高い給料をもらってキレ者、米国通と言われた山本五十六でさえ負けるとわかっていながら「半年は暴れてみせましょう」とその間に他が早期講和をして欲しいと縦割他力本願。 負けるから戦争辞めますとは言えんわなぁ。 自分の所属の組織を優先するあまり陸軍の足を引っ張るなんて現代の省益を死守するのにポスト、金の争奪戦そのままじゃないですか。 配属年度に縛られていた旧帝国エリートと現在も下々から搾取し続ける官僚。 彼らにとっては自己>所属>省であって国家を憂いている人はごくわずか、他人の命は軽いのです。 一億総中流という錯覚を続けられなくなった現在、経済戦争に負けて泣いていくのは下々の人たちです。

noname#153988
質問者

お礼

回答ありがとうございました。やはり、縦割り官僚制度は日本を長年蝕む宿痾なんですね…。官僚の組織防衛本能が国益を蝕む構図は現代も殆ど改善されず放置されているのは恐ろしい事だと思います。ご意見ありがとうございました。

  • phj
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回答No.4

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか? 根本的な誤りという点では#2の方が書かれた「総帥権の独立」(と解釈した軍部)と天皇個人が機関説に則っていたため、天皇個人として動かなかった(動けなかった)ことが暴走を許したということになります。 では諸外国ではどうでしょう。近代国家まで引き継がれている民主国家における軍事指揮権は、古代の共和国ローマに発します。 これは「軍事指揮権は元首(または指揮官)にゆだねるものの、軍事行為の遂行には議会の承認が必要である」ということです。古代国家では、税として兵役がありましたので、王族が収めるような国なら王が「戦争をする」と決めれば、その国に住む臣民は従うしかないのですが、古代であっても民主国家では兵役はそのまま市民生活を混乱させるため、政治を司る指導者だけの判断では出来ないようになっていたのです。 ですから現代でも「文民統制(シビリアンコントロール)」という名称で、たとえアメリカであっても議会の承認なしには戦争を行うことができないのです。 ところが明治政府のころの日本はこの点が良くわかっていなかったらしく(いや分かっていたけど、いろいろな駆け引きでうやむやにしていた)、国家の体系としては君主国家であるため臣民は天皇の命令には従う、しかし同時に立憲国であるため本来なら文民統制が必要、という具合でした。 軍人としては「天皇陛下のご命令で死地に赴く、天皇陛下に忠誠を誓う」ことを誇りとしていたのに、議会の民間人どもにゴチャゴチャいわれたくない、というのが本音だったのでしょう。 日清・日露と戦争に勝ってしまったために、軍部の発言力が増し、いつしか総帥権の独立が既成事実化し、軍部の暴走を招くことになります。 昭和天皇は確かにかなりリベラルな方だったようで、天皇といえども憲法の下におり、天皇の職務は内閣が輔弼する、つまり内閣=臣民がすべて行って、元首は君臨すれども統治せず、を地で行くお考えであったようです。またこの輔弼(現行憲法では内閣の助言と承認)を適正に考えれば総帥権は内閣の内閣の助言と承認を必要とすることになり、シビリアンコントロールが利くはずだったわけです。 これを天皇機関説と呼ぶのです。 ですから、現在でも議論になっている「天皇に戦争責任はあるのか」という問題は、どちらとも言えないという部分があり、皮肉なことに最終的に天皇が「終戦の詔」を発表し戦争が終了したことをもって、天皇には責任がある、という論調も見られるようです。 では根本的な誤りはどうして出来てしまったかというと、それは日本の統治システムの歴史的な要因が絡んでいます。 まず軍部が元首や文民に統制されないようになると、ほぼ間違いなく暴走します。ポルポト派の虐殺もそうですし、アウンサンスーチー氏を軟禁しているビルマも軍事政権です(もっとも民主的な政権なら暴走しないか、というとそうでもないですが・・・) ですから軍部の暴走はどの国でも当たり前です。 ところが天皇機関説は英国をモデルにしているのですが、それ以上に昔から日本の統治システムは「機関」だったのです。 そうせい候、で有名な毛利敬親を代表として、戦国時代以降の幕府と各藩は老中を中心とした合議システムで決断し当主はお飾り的な「君臨すれども統治せず」を地で行くシステムが出来上がっていたのです。宮中にあっては鎌倉幕府が出来て以降徐々にそのようになっていったようです。 先ほど書いた明治政府の駆け引きとは、近代化するに当たって元首の統治能力を組み込みたい勢力と、天皇であっても日本的な統治システムを引き継ぎたい勢力の駆け引きであり、それが明治憲法をして「内閣の輔弼」と「国家元帥は天皇」という(後になってみれば)禍根を残す表記になったわけです。 米国は歴史の浅い最初からの民主国家ですから別にして(それでも南北戦争がありましたが)、英国などは長い歴史の中で自国軍部の暴走や隣国の軍部の暴走により戦争せざるを得なかったという歴史を有しているがために、近代になってからは軍部の暴走を抑える仕組みを明確にしているのです。 主題とは違いますので、詳しくは書きませんが、もちろん軍部を支持する国民の声というものも当時の日本にはあり、普通選挙がされた後での軍部の暴走ですから、単に国民は被害者だったということではなく、何らかの責任を負っていた、という事実に向き合う必要もあるといえます。

noname#153988
質問者

お礼

回答ありがとうございました。詳しい解説でとても参考になりました。立憲君主制は今でも誤解している人達が多く(というか私も思いっきりあやふやです)難しいと思います。この点はもっと勉強しなければいけないと痛感しました。ご意見ありがとうございました。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.2

 大日本帝国憲法に規定されている日本帝国陸海軍は、内閣と同等の立場で天皇の下に位置していました。  これを戦前は「統帥権の独立」といって、内閣=行政は軍事を動かす権限がありませんでした。  明治時代においては、天皇直属の機関である枢密院に、幕末・明治の軍隊のトップであり、しかも政治家でもあった明治維新の立役者=元老たちが所属し、個人的影響力の大きさを使って、政府・軍を統括していました。  しかし、明治維新から時代が経ち、枢密院に行政府・軍両方に大きな影響力のある人物がいなくなってしまったために、枢密院が軍・政治を統合する機能を失い、国際政治・外交を踏まえた上で軍事を統括する機能を持った組織が、事実上存在しなくなり、天皇個人のみがその役目を負わされることになってしまいました。  しかし、昭和天皇は当時の日本においては、相当にリベラルな考え方を持った人物で、東京帝大教授の美濃部達吉が「天皇機関説」を主張し、結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職し、美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった事件に対し、 「美濃部の言う通りではないか。」と発言した記録がありように、基本的には、天皇個人が政治的決断をするべきではないと考えていたため、「統帥権」=軍の指揮権者が事実上存在していない形になっていました。

noname#153988
質問者

お礼

回答ありがとうございました。とても勉強になりました。統帥権が内閣(行政)から独立しているという形態がそもそも間違いの元だったという事でしょうか。この辺はこれからも勉強したいと思います。ご意見ありがとうございました。

  • born1960
  • ベストアンサー率27% (1223/4397)
回答No.1

 当時の日本国民の気持ちも「イケイケ」だったと思いますよ。 1868年 明治維新 1894年 日清戦争 1904年 日露戦争 1910年 韓国併合 1931年 満州事変 1932年 上海事変 1932年 満州立国 1937年 支那事変 1941年 真珠湾攻撃  ようするに、明治維新となって、海外の列強に追いつき追い越せで富国強兵・殖産政策が採られましたね。で、たとえば1894年の日清戦争と1941年の真珠湾攻撃では50年も経ってないわけで(日本は現在戦後65年です)戦えば必ず勝ってたわけです。もちろん国民全員が好戦的でもなかったでしょうが、「イケイケ」って気持ちは納得できますよね?ずっと勝ってるわけですから・・・実際はそうでもないにせよ、その都度景気もよくなり、日本はあっという間に実力(資源)もないのに強くなったわけです。  そうなると、軍部の暴走ってことではなくいけるところまでいってしまうのが人の性だとおもいます。 多くの日本国民の総意って感じではないでしょうか。  アメリカはべつとして、ヨーロッパ列強は何百年と侵略の歴史を繰り返してきました。 日本はこの100年(っていうか、1945年の敗戦までの60年ほどですよね?)しか侵略の歴史はありません。欧米諸国はやはり喧嘩の仕方を知ってたってことでしょうね。

noname#153988
質問者

お礼

回答ありがとうございました。これは鋭いご指摘だと思います。軍部の暴走という観点からばかり考えてしまいがちですが、それを後押しする世論というか、形に現れない国民感情というものが見逃せない要素なんですね。ご意見ありがとうございました。

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