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量子は有るのか?無いのか?

量子は有るのか?無いのか? 量子は直接観測された存在ではありません なので本当に有るのか?無いのか?と言う疑問が浮かんでしまいます 私は無いと思います。存在できないと思います 理由(1)光の速度を超える事はできない 量子を2回連続で観測した場合1回目の位置から発する光の速度を超えて 2回目の位置に移動する事になります 理由(2)光速度は不変である 2回目の観測における量子の位置は確率に左右されるので同じ距離にはならない 同時間内に進む距離が違うと言う事は光速度不変が成立しないと言う事です 量子はこの二つの法則が当てはまらないので存在できないと思います 皆さんはどう思われますか?

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  • toporo
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回答No.5

ichinari00さん、こんにちは。 ichinari00さんは、量子論に納得できないという立場を取られているという事ですね。 それはお立場としてはアリだと思います。 ただ、(1)の思考実験はその反証になっていないように思います。 衝突後の位置Bは確定しません。電子はぶつかった瞬間だけ姿を表わして、また消えてしまうからです。 また、位置cが水素の電子殻上にあると想定しておられませんか? この電子は観測後どっかへ飛んでいってしまって、その移動速度は光速を超えません。 もはや水素原子の電子ではありませんから、電子殻上であればどこででも観測されるという訳ではないのです。 ちなみに猫の件は、自然がそうできている(らしい)姿と、人間が自然はこうあって欲しいと願う姿とが異る、というだけで、別に問題という訳ではないですよ。

ichinari00
質問者

お礼

何度も私の疑問に答えて頂きありがとうございます 私は科学の詳しい知識がなく想像を元に考える事しか出来ませんが お返事が頂けるだけでとても嬉しいです 考えると知識が必要になってきますので、これからも本を読んで勉強を続けたいと思います

ichinari00
質問者

補足

>もはや水素原子の電子ではありませんから… 私の手元の本では電子は内側の軌道に移動しそれなりに存在し続けると書かれています 最後にはn=1の軌道をまわり続けるとあります もちろん衝撃によって遠くに飛んで行ってしまう電子もあると書かれています >この電子は観測後どっかへ飛んでいってしまって、その移動速度は光速を超えません。 衝撃によって飛んでいく場合は光速を超えない…と言うのは同意できます >衝突後の位置Bは確定しません この↓思考実験で確定させる事は出来ると思います ■電子に光子がぶつかるとはじかれて電子は移動しますが… 2個目の光子が反対から同時に当たれば電子ははじかれずその位置に留まるはずです (右と左から同じ力でぶつかれば真ん中の電子は動かない) そうなると位置Bは位置Aと同じ位置になりその位置を基準に(1)(2)の思考実験が成立できると思うのです

その他の回答 (4)

  • toporo
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回答No.4

ichinari00さん、こんばんは。 ていねいな返信ありがとうございました。 (1)のお考えについて、概ね理解しました。 図の赤丸が原子核で、量子として電子を考えておられるという事で合っていますか? とりあえずここでは水素原子として考えましょう。 まず「2回の観測」という事ですが、量子の観測というのはマクロの観測とは違います。 水素原子の周りの電子を観測しようとする場合、とりあえず問題の水素原子に対して、電磁波(とりあえず光子としましょう)をぶつけてみます。 そうすると、ほとんどの光子は原子をすりぬけてしまいますけれども、たまに妙な方向にはじかれる光子が出てきます。 その時に「ああ、ここに電子がいたのだな」とわかる(観測される)という訳です。 ですから、観測された電子については、その時には電子の方も遠くにはじかれてしまって、電子殻の中で二度目の観測をされる事はありません。 次に、図の内容に関してですが、ichinari00さんは、観測1と観測2の間を電子が軌跡を描いて飛んでいるようなイメージをお持ちではないでしょうか。そのように電子が飛んでいると考えますと、電子はエネルギーを失ってすぐに原子核に落ちてしまいます。実際には電子は定常波の雲になって電子殻上(定常波が存在できる半径の球面)を中心としてぼんやりと存在しています。 (そう考えないと原子が安定して存在できないという事です。) 仮に同じ電子が二度の観測を受けたとしても、その二点間の距離は光速不変を崩すだけの距離離れて観測される事はありません。それは、一回目の観測によって雲がいったん収束し、存在確率の雲の形がもとの水素原子の電子殻の形とは異るものになるからです。 「モノは波動的に存在しているらしい」という説明は、色々な観測から推測された理論です。モノの存在や運動が波動方程式で説明できるという事です。ご紹介した本には、もっとスリリングで面白い話が書かれています。是非お読みになってみてください。

ichinari00
質問者

補足

>とりあえずここでは水素原子として考えましょう。 はい、それでおねがいします >まず「2回の観測」という事…(中略)…観測される)という訳です。 この文はとても理解出来ます あるべき場所にあってない場所にはないと考えるのは一般人にとって とてもふつうです >そう考えないと原子が安定して存在できないという事です。 別の考えでも原子が安定して存在できそうであればそっちでもいいのではないか? と言うのが私の考えです 私は「隠れた関数」を支持する派です(アインシュタインと同じかな?) 科学は無を判断する能力が無いと思うので「未知の力」は証拠が無くても認めて良いと思うのです 昔から続く議論ですが「重ね合わせ」「確率による存在」はどうしても受け入れられません *二度の観測* 1、観測される前の電子はぼんやりと存在している 2、(1度目の観測)光子の衝突の成功により雲がいったん収束しある場所に現れ確認できる(位置A) 3、確認できた直後衝突の影響ではじかれ(位置B)に移動する 4、その後またぼんやりとした存在になる 5、(2度目の観測)光子の衝突の成功により再び収束し、ある場所に現れ確認できる(位置C) 位置Bに移動した瞬間光を走らせると位置Cは光の速度を超える事が出来ると思うのです この思考実験は二度目の光子の衝突が1発で成功できるという前提に成り立っていて 現実的には不可能な実験ですが理論上成立できると思うのです >モノの存在や運動が波動方程式で説明できるという事です。 説明出来る=真実、ではないと思うのです 無理にそうすると「猫」の問題が出てしまうので別の方法で説明するべきです(私の願望) ああ、誰か「痒い所をかいて下さい」。すっきりしたい! 科学者たちはかかないで我慢する事になれすぎてスッキリしていますが 我々一般人はムズムズしてたまらないのです

  • toporo
  • ベストアンサー率70% (14/20)
回答No.3

ichinari00さん、こんにちは。 量子はモノの存在を観測した時に現れる粒子性につけられた名前です。 一方、モノは粒子的というよりも波動的に存在していますから、「観測された存在ではない」という表現には、微妙な勘違いが含まれているとぼくは思います。 (1)の例はよく分からなかったので(2)の方についてお話します。 位置が定まらないという事は、距離が異る事とは必ずしも同じではありません。 ある時刻t0からt時間後の電子の位置は、t0時の位置を中心に、「t×光速度」の球面上に来ます。ただ、球面上のどの点に来るかはわからない…という意味で確率的なのです。球面上には確率のグラデーションがあります。 量子については、ついうっかり古典物理的に考えてしまうと妙な事がたくさんあると思います。 ブルーバックスから出ている「質量はどのように生まれるのか」という本は、その辺の事について比較的正面から説明されている良書だと思います。機会があったら読んでみていただくといいかと思います。

ichinari00
質問者

お礼

toporoさんこんにちは 元々私の質問はムービーで表現しているものなので文字と画像1枚で伝えるのは とても困難なのです。適切な文章各能力ないし… サイトの直リンクは禁止されているのでこうなりました ご面倒おかけします

ichinari00
質問者

補足

理由(1)の補足です 量子を2回連続で観測した場合(電子の位置の観測) 1回目の電子の位置から光を走らせたとします 2回目の電子の位置はその光の速度を超えて移動できてしまいます >モノは粒子的というよりも波動的に存在していますから、 この説明がどうも受け入れられないです。なぜそう断言できるのですか? 確率的に存在してる…と同じ表現のように感じます 私は「量子」を(重ねあわされた状態、存在)としてとらえその存在を否定しています 同じく確率的な存在も否定的です 私の表現が適切でなく分かりずらい点は申し訳なく思います t0時の位置もt時の位置も 原子核を中心に確率的に決まるのではないでしょうか? そうであればt0時からt時の距離は確率によって違いが出ると思います >ブルーバックスから出ている「質量はどのように生まれるのか」という本 おすすめありがとうございます。 面白そうなタイトルですね。探してみます

回答No.2

観測されるも何も、量子が単独で表出したものが、光子です。 また、人の五感の感覚器官の全て(化合物のイオン=電磁作用、 物質同士の衝突=最外殻電子の運動量交換)が光量子の交換で あり、誰もが“量子”しか感じていないのです。 そして我々が“静止”しているといっても、分子は熱振動し、 原子の素粒子は回転し、といった具合に原理的に遡るほど、 どんどん高速化して、最終的に超弦理論において全て量子= 光速に還元される時、あなたが問題にしている非光速性は、 階層現象を表面的(=いい加減)に捉えたところに生じる 仮想的なものに過ぎないのです。 (光速度が不変も何も、この世界には光速しか存在しないのです)

ichinari00
質問者

お礼

psytexさんの意見はいつも理系的で正面から答えてくれていると思います 一番緊張する先生です。教室の空気まで感じれてうれしいです 以前頂いた言葉「力の種類は有限でも無限でもない」は真実だと思います

ichinari00
質問者

補足

量子の有無について考える時は量子という表現は使うべきではないと思います 私は「量子」を(重ねあわされた状態、存在)としてとらえその存在を否定しています 私は確率の正体は「隠れた関数」の影響だと思うのです 粒と「隠れた関数」を無理やり一つにまとめてしまうのではなく、分けて考えても良いと思います 両方を同時に感じれば >誰もが“量子”しか感じていないのです。 と同じ結果が生まれます >超弦理論において… この理論はまだ完成半ばなので何かを説明する際に使用するべきではないと思います >この世界には光速しか存在しないのです この文言は同感です。私の宇宙観と同じです この宇宙にあるものは皆一つの「何か」が状態を変えただけ その何かを「光」と表現すればぴたりと一致します 私は超弦理論を信じませんがアイデアとしてはとても魅力を感じます 「小」が集まり「大」になる、「大」が分かれて「小」になる 「小」も「大」も同じ存在で皆が集まって一つになる とても美しい理論だと思います

noname#160321
noname#160321
回答No.1

0.量子というものはない。何かが量子化されているとは言う。 1.測定問題。二重スリット問題のように、ある場所である粒子を検出してしまったら、もうそれは量子化された粒子ではない。これを粒子の収束という。 これに関しては思考実験がある。今箱の中に閉じ込められた電子を考える、箱を二つに分け一方を東京からパリへ運ぶ。この状態では各々の半分の箱の中の電子は1/2の確率で存在するはずだ。今片一方を開ける、そこに電子があればもう一方の中の確率は突然ゼロになる。逆に開けた方に無ければもう半分の中にある確率は突然1になる。 2.光速と不確定性問題。光速を測定する。光子は速度一定だが量子化されるので位置は不確定になり、中央値は光速だがそれより先に進んでいる確率の部分が存在しなくてはならない。 まあ、こんなところが量子論に関係するパラドックスの入門でしょうね、解けたら教えて下さい。

ichinari00
質問者

お礼

謎は人の心に火をつける 科学ってとっても楽しいです

ichinari00
質問者

補足

>0.量子というものはない。 私も無いと思います >何かが量子化されているとは言う。 その量子という表現は適切ではないと思います。今までの考えを元にして「量子化されている」と 引き続き表現してしまうのは分からなくもないですが 私は「量子」(重ねあわされた状態、存在)そのものについてもう一度考えてみるべきだと思うのです 粒の確率的な予測はその粒自身の影響と考えず粒以外からの影響も考えるべきです >1.測定問題。二重スリット問題のように、…(中略)…これを粒子の収束という。 それは分かりますが、それって人間の想像ですよね 多分そうなっているのではないの?そうであれば説明がつく、でも常識的に不自然だけど… という感想が残りますし。証拠に基づいていないので科学的な表現とは言えないと思います >二つの箱の実験 人間にとっての視点で見れば確率は観測によって変わりますが 神の視点で見れば確率は変わりません 「量子」(重ねあわされた状態、存在)は人間の視点に拘りすぎたがゆえに 生まれた発想だと思うのです 人間が存在しなくても宇宙は存在するので「神の視点」を基準に考えるべきです >2.光速と不確定性問題。…量子化されるので… 「量子化されるので」という表現は適切ではないです 量子の有無について考える時は量子化という表現は使うべきではないと思います 私の考えがパラドックスの適切な答であるかは不明ですが どれも人間の視点のみで自然を観察していると言えます 神の視点で見れば皆解決できるのではないでしょうか?

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