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人柱の実例はありますか。(国内)
Wikiには、多くの事例が記載されていますが、ほとんど実例と判断してよいのでしょうか。 史料で実例と確認された例はありますか。 また、言い伝えによれば、人柱にはほとんど女性が選ばれているようですが、それはなぜでしょうか。 よろしくお願いします。 人柱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%9F%B1
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愛知県の名古屋市と春日井市との間を流れる庄内川の北岸に「十五の森」と呼ばれる祠があります。 室町時代に川の氾濫を防ぐ為、15歳になる娘を人柱として沈めたのだとか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E3%81%AE%E6%A3%AE この地域ではとても有名な話で、小学校等での郷土の昔話を学ぶ際に非常によく用いられる伝承です。 さて、この川の対岸川下寄りに「十五」という地名があります。 ここは同じく庄内川の氾濫を防ぐ為、15歳の男が人柱として沈められたという伝承があります。 こちらは地名としてまで残っているのですが然程有名ではなく、地域住民でも知らない方が多いのではないでしょうか。 (余談:一般に15歳の少女・少年と表記されますが、当時の武家が15歳で元服という感覚では少年少女という立場ではなく男盛り女盛り…年頃の青年男女でったかと思いますが) 同じ川の度重なる氾濫を沈める為に人地とされた15歳の若き女と男。 方や後世まで語り継がれ祠に祭られ。 されど一方は半ば忘れ去られた状態。 この差はなんだろう。 女性の人柱の伝承の方が多いのは…若干15歳の若き男よりも15歳の娘の方が悲壮感もあって、受け継がれ易いのだろうか…等と穿った見方もしてみる偏屈な私。 北岸「十五の森」と南岸「十五」を紹介したブログがありました。 とてもわかりやすいので紹介してみます。
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- mable2006
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松江市在住の者です。 松江城の人柱については、あまり知られていません。 むしろ、初代の松江大橋を架ける際に人柱になった足軽「源助」の伝説の方が有名です。 http://homepage2.nifty.com/matsue-jo/sub6.htm http://furusato.sanin.jp/p/area/matsue/25/ さらに、昭和11年(1936年)現在の松江大橋を架けるための工事で深田清技師が鋼鉄製のバケットに頭を打って、亡くなってしまいました。 事故の現場が「源助」を生き埋めにしたという柱の近くだったために「昭和の源助」として、「源助」の供養碑とともに「深田技師慰霊碑」が大橋の南詰めに建てられています。
お礼
城の方の話は 「吉晴は無事完成を願って二の丸広場に老若男女を集めて盆踊りをさせ、その中から美声美貌の処女を選んで人柱にした」 と、いうことですね。 藩や村の文書に記録されていなくても、人びとの言い伝えが今も続いているということは、そのような事実があったと思います。 松江には何度か行ったことがあり、城にも上がり、大橋も渡りました。 たいへん懐かしく読ませていただきました。 ご回答ありがとうございました。
- isa-98
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記録的には、会津山水記にあるように、 会津城は鶴をもってこれを称し、猪苗代城は亀をもってこれを称す。 となります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E これを、 会津城は鶴と言う女を生き埋めにし、猪苗代城は亀と言う女をを生き埋めにする。これを地名にした。 と訳す方がいるのは事実だと心得ます。 鶴ヶ城改名は1593年、その後、保科は1643年に入城。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%9F%8E 如何にこれを知り得たかが問題です。(当事者の記録では無い。) 問題は、言い伝えなのか、本当なのかの問題であります。 またメディアでも 現在の人間で、江戸時代の人柱の記憶がある。 何村の何がしでと言い、本人は文献を知るよしも無く、 当時の記憶があまりに鮮明で定かであるので調べると、 過去の川の流れは現在の地の流れに在らず。 と、滑稽な結末であったりします。 結論的には、 何らかの文章や伝承が根拠であるなら、 近代(戦前)の物は相当可能性がある。(政治批判は珍しい) 昔話なら立証自体が相当難しい。 となるのではないでしょうか?
お礼
山崎闇斎『会津山水記』にある “会津城は鶴をもってこれを称し、猪苗代城は亀をもってもれを称す” の文言を、人柱を捧げたという記述ではないが、 人柱にされた娘の名前ではないかと、推定できるということですね。 なるほど。 築城に際して、人柱を捧げたとする伝承もあれば、「生き埋め」であることをわざわざ 書き残すことはないとしている記録もある、ということが分かりました。 ご回答ありがとうございました。
- mekari_y
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「ほとんど」事実かどうかは分かりませんが・・・ 人柱をたてた事例があったことは確かだと思います。 私が行ったことのあるのは、、加藤清正公が作った、熊本県玉名市の横島というところにある石塘という橋(?)です。 「藤公遺業記」という、加藤清正公自身の著した本に書かれているそうです。 人柱は女性が多いのは、『神様の妻』としてささげられる場合のようです。ですので、自然災害を治めたい、といった場合は女性が多いのではないでしょうか。 建築物の守り神になってほしい、という場合では男女は関係ないと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 Webで調べてみますと、実話の可能性大ですね。 この人柱は男ですね。 たいへん興味ある話です。
- gadovoa
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北海道の常紋トンネルに関しては 本当だと思います。 証言者も実際にいますし。 これは労働者としての人柱ですが、 他の宗教的に絡むものは解りません。
お礼
常紋トンネルの話は全く知りませんでした。 土木や建築工事では大地を切り刻むことになるので、大地の神にその行為を許してもらうために人柱を捧げるという何か宗教的な、民俗的な行為を想像していたのですが、常紋トンネルの話は、「リンチ殺人による死体遺棄」と言えそうです。 常紋トンネルについて調べてみて、明治大正期のタコ部屋の過酷な拘禁労働の悲惨さを知ることができました。 ご回答ありがとうございました。
お礼
興味深く読ませていただきました。 「川の神様がお怒りじゃ」というセリフが紙芝居に出てきましたが、 川にも神様がいらっしゃる、ということを信じていた遠い昔の日本人の心根に触れることができました。 「若干15歳の若き男よりも15歳の娘の方が悲壮感もあって、 受け継がれ易いのだろうか」との思いは、私も同感です。 すばらしい伝承を教えて下さってありがとうございます。