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あなたは信じている宗教がありますか?
あなたは信じている宗教がありますか? もしあったならそれはどんな宗教ですか?またなぜその宗教を信じているのですか?心のよりどころですか?教理に共感してですか? もしくは、信じる宗教がなかったなら、あなたは何を信じて生きているのですか?科学ですか?自分ですか?家族ですか?仕事ですか?会社ですか? 人は何かを信じて生きていくべき生物なのでしょうか?その方が精神衛生上良いのでしょうか? 質問が散文的ですが、あなたが思っていることをお書き下さい。
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踏み絵があったら踏んでしまうぐらいの宗教心ですが、一番共感できるのがキリスト教です。 ミサにもたまに出ていますが、いわんとしていることが分かりやすいです。 一番素晴しいと感じたことは、「許す」ことを前提にしているとことです。人は過ちを犯しても それを許す心があれば、世の中は平和になるかと思います。 日本人は宗教が根付いていないため、「良心」という絶対的なモノサシが曖昧です。 宗派によっては、「いいこと」「わるいこと」が明確になっていますが、自身の良心にそれを 委ねている場合、自身の道徳心でしかものごとを判断できなくなっていると思います。 イライラしているから人を傷つける。傷つけることが、相手にとってどれほどの苦しみかを 想像できず、常に自分目線でしか行動できない人が増えているように思えます。 宗教に頼らずとも、自分の断固たる信念があればいいのですが、人の意思は弱いもので なんらかしらの規則で縛り付けるしかないようにも思えます。 日本人の場合、それが道徳である前に、宗教である前に、刑罰になっているのかな、とも 感じています。 まとまりのない文章ですいません。
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わたしは、バラモン教のブラフマン(宇宙の根本原理:人格神ではありません)を信じています。 何故信じるかですが、理由はありません。ただ、ブラフマンを知りたいだけです。 信じる宗教が無かったら無理に宗教を信ずる必要は無いと思います。科学でも、自分でも、家族でも、仕事でも、そのときの自分が最も求めていることに心を注ぐべきと思います。
- magga
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「信」をもっている宗教があります。 「信」とはある範囲の根拠によって得られる確信です。 信じること・信仰・決め付け・思い込みを勧めません。 理性による論理的実証的な態度を持って、科学者が実験するかのごとくするのを勧める教えです。 パーリ語の仏典(最初期のお釈迦様の教え)です。 スマナサーラ長老の書籍はお勧めです。 僕はどうやったら根拠の薄い・無いものを信仰できるのかわからないです^^; みんなすごいなw 何か参考になれば幸いです 幸福であれノシ
- 柊 うろん(@uronly)
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確率が高いか低いか~でしか考えませんよ? 信じる=必現て意味での問へ~ならですが、
- tomabc
- ベストアンサー率11% (2/18)
キリスト教です。科学的根拠に基づいて聖書の内容が真実であると確信しました。人や地球が何の為に存在し、何処へ向かっているのか、全て理解する事が出来ました。親に手を引かれ歩いている子供のように、私には何の不安もありません。どんな不幸な死に方だろうと、どんな状況に遭遇しようとも、確信を得た私には何も恐ろしいものはありません。 これが一つの宗教の恐ろしさかもしれません。しかし自爆テロを起こす宗教とは違います。その根元はキリストが山の上から話した道徳「山上の垂訓」でしょう。”世界最高道徳”と呼ばれ「これを知らない人は野蛮人である」とアメリカ人は語りました。ガンジーは「これを知っていたら戦争は起きないであろう」と語りました。また「私が最も影響を受けた書物は聖書である」とも言いました。 人は何かを崇拝するように作られているそうです。何かの宗教を持つことは必要だと思います。勉強するのですから損することは無いと思いますが。
- yayuh
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いくつかの宗教に関わりを持ったことがありますが、ずっと無宗教です。 質問にひかれて回答しています。 あえて言うなら自信だなと思い、その回答が自分でも面白く感じられました。 どんな宗教を信じているにせよ、最後は「自分の存在の意味」に帰結するように思います。 なぜなら、全ての判断は自分自身の意味付けによるものだと考えるからです。
補足
なるほど、自分自身の意味付けにより、その人にとっての宗教の存在意義などが決まってくるということですね。確かに多様性を重んじる現代の世の中、誰にも当てはまるような一つの結論を導き出すことは難しいかもしれません。そのとき、あなたの説明の宗教性の有用性はその人自信に委ねられているという説明は分かりやすいものでした。ありがとうございます。
- tpg0
- ベストアンサー率31% (3785/11963)
お彼岸中ですね。 私は、先祖代々の眠る菩提寺の檀家として菩提寺の信徒です。 他の神や仏は信仰するつもりはありませんが、ご先祖様を敬う事で自らを戒める事が出来ます。 即ち、感謝と懺悔の気持ちになれます。 どのような立派な神や仏でも他人ですが、ご先祖様は紛れもなく肉親です。 私は、あの世は無いと思ってますから、死後の天国や地獄は信じませんが、この世に天国と地獄があると確信してます。 人に感謝すれば感謝される行動が出来るようになりますが、人を怨めば怨まれる行動を起こしてしまいます。 正に『因果応報』はこの世にあるのです。 親を敬い我が子に感謝し、我が子を産んでくれた妻に感謝すれば、妻の両親やご先祖様も敬う事が出来ます。 夫婦が同じ考えなら家庭不和はあり得ません。 どのような立派な教義でも感謝の気持ちを忘れ、憎しみの気持ちを起こしては地獄です。 神や仏を信じる前に、身近な人を信じられる事は、この世の天国だと思うのです。 その為には、己れを信じる事になります。成功したら周囲に感謝し、失敗したら周囲に申し訳ないと懺悔すれば、恨みや憎しみは無くなりますから、この世の天国になります。
お礼
回答ありがとうございます。 自分のご先祖様の事を思い返すと、少し心が落ち着きます。自分と血のつながった親族であり、自分の人生の一時期を共に過ごした人を思い返すのは、懐かしいですし、また自分自身を見つめなおす良い機会にもなりますね。 また、心の持ちようによって、この世で天国も地獄も見れるというのは、まさにその通りだと思います。私も感謝の念を持ちつつ生きていきたいと思います。お話ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございます。 聖書は科学的に見ても信頼に値する書物だということは私も聞いたことがあります。悟りといいましょうか。あなたのような迷いのなという心理状態は一種の理想状態なのかもしれませんね。しかしアルカイダのような反社会的な事をやろうということではないのでその活動は憲法のいうところの信教の自由で保障されて然るべきだと思います。「山上の垂訓」に共感を持ち、またその教えと素晴らしいとする人は沢山いるようですね。 人は何かを崇拝するように作られている。確かにそうなのかもしれません。 しかし私の意見を一つ言わせてもらえれば宗教は温かみのある教えですが、ほとんどの教えは不可思議な事を教えているので私は入ることを躊躇してしまうのです。あたりさわりのない程度に付き合えればいいのでしょうが・・・。