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日本人の国民性について

日本人の国民性は、個としての傑出より、集団としての達成・成功を重視する点にあると仮定します。万歳三唱や一本締めといった、あの下らない日本人的な行事を適当な例としてあげます。 ここで質問したいのは、アイドルのライブやワールドカップで日本人に普段の性格からは考えられないような異常な高揚感・一体感が発生するのは、仮定したとおり日本人のその国民性や、日本の持つ歴史ゆえであろうと考えられますが、それでは、そのようなものにむしろ冷やかな態度しか持たず、他人の感動を自分のそれを同化させるなど、笑止だと思っている私のような変り種が形成されるのはどのようなメカニズムからなのでしょうか? 愛国心や、社会的な適応能力の欠如などなど、多様な観点からの原因究明を期待します。親切な方のご回答お待ちしています。

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  • hon235
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回答No.3

五輪でのアメリカ人の応援を見れば、彼らの応援が日本や他の国々より組織的かつ効果的であることが分かるでしょう。あれを見ると、日本人の応援など単なる個々人の自己満足でしかないように思えます。アメリカの観客は、日本のプロ野球の応援のように最初から決まり切ったものでなく、その場でみんなと一緒に何かをするのが好きですし、ノリが良いと思います。コンサートも、一般に、日本の観客は欧米より反応が悪いでしょう。 「万歳三唱」や「一本締め」が「下らない」と思うことの理由は2つ考えられます。1つは、それが昔からある日本の慣習で、現代人には馴染めないということです。今の日本人の考えや行動が大きく変わってきた以上、これらに違和感を覚えるのは、特に若い世代では自然なことでしょう。 もう1つは、集団行動自体が嫌いということです。数年前、インターネットの掲示板で、ヤンキー・スタジアムに観戦に行った日本人が、アメリカ国歌か「ゴッド・ブレス・アメリカ」がイニングの合間に球場に流れる時、周囲の観客がみな立ち上がったのに、自分は客席で一人だけ座っていた(そして、周りの冷たい視線を身体に感じた)と書いていたのを見ました。集団で同じ行動をとるのが気持ち悪かったからだそうです。アメリカの野球場の作法に従う意思のない人がなぜ観戦に行ったのかよくり分かりませんが、こういう反応は典型的な戦後日本人のものです。体育の授業で、多数の生徒が一緒に行進したり、体操したりするのは軍国主義的で良くないと言った教師もいたそうです。厳粛な場面で行動を統一するのは自然なことですし、みんなで同じことをすることには固有の楽しさがあって人類はみなその楽しさを知っているでしょう。人間は元来一体感や高揚感を欲しており、祭りはその一例です。人間はある程度まで個別性を指向し、ある程度まで集団性を指向するものですが、後者を全否定するのが、戦争に負けて頭が変になった一部の日本人の特徴です。日の丸、君が代への反発にも、集団行動へのこの奇妙な反感は含まれているでしょう。 頭の中で西洋を理想化したり、事実に基づかない「日本」像をでっち上げて軽蔑したりする(外国を知らなければ「日本人的」なものを論じるのは不可能です)のは、今の日本ではどうしようもなくありふれたことで、社会の風潮に無批判に染まる人によく見られる現象です。大体、日本人が「日本人的」と主張するものが、本当に「日本人的」であることなどあまりなく、その多くは本人の不満その他の感情的要因の産物以上のものではありません。テレビを見ているだけで、欧米その他の国々の人間が実際にどうであるかはある程度分かりそうなものです(彼らの集団行動は日常的に目にします)が、彼らは観察力が欠如しているので、そういう現実に気づきません。西洋人と日本人の同じような行動を目にしているのに、批判精神が日本人にしか向けられないために、日本人に対してだけ違和感を抱くという植民地根性はありふれたものです。

noname#105609
質問者

お礼

すると私の底には日本人批判があるというわけですね。確かに日本人は好きではないです。比較対象が少ないのも否めません。しかしそれらの見解が必ずしも根拠を含んでいないわけではありません。 いずれにせよもう少し考えてみる必要があるでしょう。ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • jinseiwalk
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回答No.2

日本人でありながら集団行動から外れる人間が出るのはそれが集団なるがゆえに起こると考えていいようです。 つまり、組織化されるとそれを嫌う人、その規格に合わない人がいるのは当たり前なのです、無理やり合わさせようとするがゆえに。ですからそれをおさえながら集団に合わせている人も何人かいるでしょう。 そこでどうしても集団に合わせることができない人もいます。自分が正しいと感じている人です。 古くは鎌倉時代の日蓮聖人で時の幕府にたてついて島流しを何度かされました。あの時代に神は日本を見放したといったのですから。 太平洋戦争時にも同じような人がいました。あの時代に国家に歯向かい戦争反対を叫んだので、非国民とののしられました。しかも国会議員でありながらそれをしたのですから、戦争が終わるまで牢屋にぶち込まれたのです。後の首相の吉田茂です。 その当時は愛国心のない非国民とののしられても日本中が間違った愛国心で満ちていたので動じなかったのです。彼らこそ本当に日本を愛した人と今では誰でもそう思っています。 ですから枠から外れても正しいと信じたらその道を行けば良いのです。彼らにすれば適応できないのはは相手側が間違っているからということになります。 意味も無くみんなと合わせないというにはただの天邪鬼に過ぎませんが、考えなり思想信念を持ってあえて集団と対決することになってもわが道を行くのは論理的でもあります。

noname#105609
質問者

お礼

もっともです。 論理的な回答ありがとうございました。知識というより信念を頂けた気がします。

回答No.1

多様な観点からの回答を期待、ということですので、 心理学とは関係ありませんが、整理してみます。 まず、仮定がどの程度成り立つかどうか。 1 たとえばイチロー選手の成功は、「個としての傑出」の例でしょうが、彼は国民的スターでもあります。かならずしも「個としての傑出」は抑圧されていないのではないか。 2 万歳三唱と同じような習慣は、諸外国にはないのか、特に質問者が集団主義的でないと思う国において存在しないかどうか。 たとえば「U・S・A」といったコールを聞いたことがありますが、どう解釈すべきか。 次に、ワールドカップはさておき、 アイドルのライブの例が集団としての達成・成功を重視するという例として適当かどうか。 質問に対してですが、 実例として質問者のような人がいるわけですから、 日本の国の中にも、集団よりも個に重きを置く人物を育てる素地がないわけではない、つまり、前提は間違っていないにしろ完全ではないということではないでしょうか。 おなじ日本人といっても、一人ひとり育った環境や、体験が違いますから、 集団でなにかを達成することを重視して、個人的行動を取ることを嫌う人もいる(その人は全体が自分の考えに従うことを求める)でしょうが、 そうは考えない人もそれなりにたくさんいることと思います。 質問者はあまりに周囲を気にしすぎる「日本人的?」発想から脱出して、「個としての傑出(ナンバーワン)」なり、「個としての独立(オンリーワン)」なりを目指されてはいかがかと思います。 わたしは他人に合わせることもありますし、他人に合わせず自分の好きなように行動することもあります。 後者の場合、非難・忠告を受けることもあります(前者ではあり得ませんね)。 もちろん、非難・忠告は気になります(日本人的?)。 しかし、気にしても仕方がないから思うように行動しようとも思います(非日本人的?)。 質問者は、いま言ったような意味では、日本人的ですか、それとも非日本人的ですか? もし、前者なら質問の前提は正しかったかもしれませんし、 もし、後者なら質問の前提は完全ではなかったということでしょう。 最後はわかりにくいですが、よかったらじっくり考えてみてください。

noname#105609
質問者

お礼

イチロー選手の成功は、「個としての傑出」の例でもありますが、抑圧された社会にも彼のような才能が生まれるのもまた必然だと思います。 私は若い頃に2年程留学していましたが「U・S・A」コールを聞いたことありません。アメフトで試合前に「GO!USA!GO!チーム名FIGHT!」というのは聞いたことあります。確かに質問の例はいい例ではないと思います。が、USAと日本では発揚の頻度は違うのもまた事実でしょう。或はメディアの取り上げ方も。 いずれにせよ質問の前提が完全ではないということは同感です。と、いうことは私は日本人的な非日本人ということになりますね。 だから悩んでいるのかもしれません。 より詳しいメカニズムが知りたかったですが、一応は、個々が集団生活する上でそういうやつが生まれるのは必然だ。という解釈を得させてもらいました。