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三人称一元描写の線引き
- 美術学校で天才と呼ばれるノブオの物語。
- ノブオは個展を開かないかと声を掛けられるが、会社員になる。
- ノブオは大阪を離れて東京に行く。
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質問者が選んだベストアンサー
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5431926.htmlで回答したものです。 ついでに線引きのご質問にも答えておきます。 三人称一元描写の語り手は、下の回答で、わたしは「作家」と言いましたが、人によって呼び方はさまざまです(物語論は、人によって言葉がちがうので、いやになってしまいます)。 一応この分野の草分けというか、みんながとりあえず参照するジュネットの『物語のデイスクール』では、語るのは「語り手」、視点という言葉は曖昧なので、彼は質問者さんが使っておられる「視点」にあたる人物を「焦点人物」と呼んでいます。 > どかまでが三人称一元描写で、どこからが多元描写になるのか すべて三人称一元描写です。 このあと (例) そのノブオが東京で知り合ったのがレイコである。レイコは東京の生まれではなかったが、二歳のときに父親の転勤で荻窪に来て以来、十八年間をその地で過ごしていた。レイコにとって東京は、いわば広い庭のようなもので、自分の家の庭を縦横無尽にかけまわるネコのような暮らし方をしていた。 という文章が続いていけば、そこから多元描写になっていきます。 以上、参考まで。 がんばって完成させてくださいね。 論文でも作品でも、最後まで書くことが大切です。その前に四百回くらい、こんなものはダメだ、こんなものを書いて何になるんだ、と思うでしょうが、そんなときは、オレって天才だ、すっげえおもしろい、と自分に言いきかせ、とにかく、ひたすら、最後までいくことです。 批判的に見るのは、エンドマークをつけてからでいい(実際は、なんとか書き終わると、逆にすごく良い物に見えちゃうのがわたしなんかのアサハカなところなんですが)。 健闘を祈ります。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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このテーマに拘る事はたいへん意味の深いことであります。 何が主格か、どういう立場、どういう意識存在が経験し、認識し、語っているか。 このことを本格的にやるのは仏教でも禅宗分野とか、インド哲学ではないですか? 私は大学図書館に46年いて、退職して6年ですが、ラディカル革新の労組の書記長を二十歳から10年間やりました。 その必要から労働法を少し本格的に再度大学で6年やりました。 本当は、だから西洋思想カントとラートブルッフですが、出会った陸軍大将であった、皇族の関係でインド哲学にのめりこみました。 URLは出せませんが、Self-Realization Fellowshipというのでやってくれると、HPが出ます。 主格が意識認識している、その内容にいろんな主格が出てくる。 それは夢も同じである。 此の世は神という創造者の夢である。 我らはその中の主格である。でも夢の内容であるから、客体対象である。 我らの主格意識はDroste効果のようにどこまでも奥に追求できるが、そういう行動(思考も、観念も、呼吸も、生理も、存在もみな行動でしかない)では決して究極の主体にはたどり着けない。 その方法は何か。それがSelf-Realization Fellowshipの思想での方法である。 というものです。詳細は控えます。私の認識でしかありませんので。 Drosteは引いてくれれば出てくるのですが、一応貼り付けます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%86%E5%8A%B9%E6%9E%9C 英語のところの方がわかりやすいかも知れません。 日本でも昔、粉ミルクの缶を持つ絵の少女の絵を描いた、粉ミルクの缶の販売がされていました。 明治牛乳の乳児用の粉ミルクだったかな。 そんなあり方が私たちの意識のあり方なのでしょうね。 一人称だけがある。三人称はいつも話の中以上の存在はない。二人称は対象ですから、これは実は自分だ。という認識ですね。 インド哲学の自然観であり、心理学です。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
二番のもの。補足対して: 補足内容【前提は、他の人物の内面は描かない、というところだけに限定します】 投稿者【(1)何についての前提でしょうか。(2)他の人物というのは誰から観ての他の人物でしょうか。(3)他の人物ではない人物とはどの人ですか】 補足内容【問題は、(1)~(3)の文章が、ある特定の人物(ここではノブオ)の視点に立った(三人称の)記述と言えるのかどうか、その理由は何か。】 投稿者【ノブオの視点に立っているとはいえない。叙述者の情報を伝えているだけではないですか。(実は、この叙述者がノブオであり得る可能性はあるとしても、ここでは現れていないのではないか。あくまでも叙述者の視点ではないか。これは文法的にいえばそうだということです。意味論的にも、叙述者としての情報の開陳でしかない。と存じます) 補足者【(1)(2)の「天才と呼ばれていた」「友達が吹聴した」「画商が声をかけた」という<情報>を、内的焦点化された情報(つまり、ノブオの視点に立った記述)として良いのか】 投稿者【ノブオが叙述者という第三者の立場で開陳しているという読み取りも可能以下も知れないが、文章としてはあくまで叙述者であり、“Iたる私ではないのでしょうね。 補足者【(3)の「社員になってしまった」「東京に行ってしまった」という文章が、一人称「ボク/私」に置き換えることができない場合、それはノブオの視点に立った記述と言えるのか】 投稿者【『行ってしまった』は距離と主格が、現時点や話の場面から離れていく意味の語列ではありますね。ここを『来てしまった』といいなおさないと、“Iたる私という語は置けないかもしれないが、過去の想起の文章であれば、言いなおす必要はないのではないですか】 補足【…つまるところ、ノブオに関する情報ならなんでも一元描写となるのか。ならない場合、それは何という描写になるなのか(わたしはこれを多元描写と疑ってますが)。また、なるならない、どちらも言えない時は、何と言えば良いのか。】 投稿者【少なくても、私は多元となっていないという読み取りをしております。無論、多元描写ということをどのように観念するかのことでしょうが。】 補足【わけワカメです】 投稿者【理解不能、新しい時代的表現なのですね。】
補足
具体的な回答、ありがとうございます。 >叙述者の視点ではないか。 >文章としてはあくまで叙述者であり、 わたしも、大方そうなんだろうと思います。が、ここでノブオを一人称に直すと、 >おれは美術学校にいた時から、天才と呼ばれていた。 >友達の中には、おれが在学中、既に何人もの画商から個展を開かないか、と声を掛けられていたなど吹聴して歩くものもいた。 どうも、ノブオの視点に立った「叙述者としての情報の開陳」と言えなくもないみたいでして。それは違うと論断できないでいます。じゃあ直すなよって話ですけど、そういう問題でもなく。 >過去の想起の文章であれば、言いなおす必要はないのではないですか これについても、少し保留させてください。 …それと、最早蛇足になりますが、 >前提は、他の人物の内面は描かない、というところだけに限定します これは、たしかにわからないですね。最初の質問のとき冒頭に書いた、 >ある特定の人物の視点に立って、他の人物の内面は描かない、というルールを守った作品があるとします。 のところで、わたしが「作品」の前提にしたかったのは、「他の人物の内面は描かない」という部分だけだったんですけど、よく見ると、「ある特定の人物の視点に立って」のところも、どうも前提の一部となっているきらいがあったので(これを前提に含めると、質問の趣旨が立たない!)、これはだめだと言い直した結果、できたのが「前提は~」の文です。はい。すみません。まぎらわしいですね。わき道に逸れてしまうので、これ以上の説明は省略します。 あ。わけワカメは、たしか、昭和の産物ですよ☆ とりわけ、花金、キヨブタ世代の。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
先のご質問の“理論精通者”ではありませんが。 叙述者・第三者甲が叙述する: (1)ノブオは美術学校にいた時から、天才と呼ばれてた。 叙述者・第三者甲が叙述する: (2)友達の中には、彼が在学中、既に何人もの画商から個展を開かないか、と声を掛けられていたなど吹聴して歩くものもいた。 叙述者・第三者甲が叙述する (3)ところが美術学校を卒業すると、ノブオは周囲の予想に反して、東京のある電気会社の社員になってしまった。そうして、大阪を早々後にして、東京に行ってしまった。 ここにおいて叙述者の入れ替えも、立場の変換も何ら行われていないと思います。同じ叙述の第三者甲、でいいのではないでしょうか? 叙述の対象も内容も一つであり、立場も一元ではないのではないですか? (1)誰がよんでいたか。(2)友達が吹聴していた。 画商が声をかけた (3)誰かが予想していた。ノブオが卒業した、大阪から東京に行った。 これらはいろんな主格を第三者が叙述していますね。一人称ではないですね。甲である第三者の叙述者からみれば、みな第三者ですね。 これを多元というのですか?どこから多元になったか、は話を叙述するときに主格を前提したときから、話の中の主格が多元になったのでしょうね。 甲さんは話の外の報告者という、話の中の世界に直接入っていない、外の人という立場ですね。本当はノブオ君かもしれないが、それはここでは出していない。だから読者には報告者という第一人称であって、話の世界には一元的第三者なのでしょう?
補足
かなり質問がわかりづらくて、ごめんなさい。補足します。 前提は、他の人物の内面は描かない、というところだけに限定します。 問題は、(1)~(3)の文章が、ある特定の人物(ここではノブオ)の視点に立った(三人称の)記述と言えるのかどうか、その理由は何か。ということです。具体的には、 (1)(2)の「天才と呼ばれていた」「友達が吹聴した」「画商が声をかけた」という<情報>を、内的焦点化された情報(つまり、ノブオの視点に立った記述)として良いのか (3)の「社員になってしまった」「東京に行ってしまった」という文章が、一人称「ボク/私」に置き換えることができない場合、それはノブオの視点に立った記述と言えるのか …つまるところ、ノブオに関する情報ならなんでも一元描写となるのか。ならない場合、それは何という描写になるなのか(わたしはこれを多元描写と疑ってますが)。また、なるならない、どちらも言えない時は、何と言えば良いのか。わけワカメです(^^)
- wanekoz
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「特定の人物の視点に立って、他の人物の内面は描かない」 あたりまえです。 全部三人称ですよ。 なにも問題ありません。 しいていえば 「在学中」が「個展を開かないか、と声を掛けられていた」 にかかるのか 「吹聴して歩く」 にかかるのか不明ですが、 これは三人称か否かではありません。 語順がまずいだけです。
補足
すみません、回答ありがとうございます。 が、 >あたりまえです。 >なにも問題ありません。 >語順がまずいだけです。 の三点の内容に関して、良かったら、 もう少し具体的に教えてもらえないでしょうかー^) 正直に言うと、よくわかりませんm(_ _)m
お礼
むずかしいですね。哲学となるとさっぱりです。 それに関して色々調べてみましたが、 今のわたしには、理解が足りないようですorz でも、Droste効果の例は、面白かったです。 何かの参考にしようと思います。 長々と付き合ってもらって、 ありがとうございましたm(_ _)m恐縮です。 返事が遅くなってすみません。