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御神輿は本来

初めまして。関心事として興味が湧いてきたのが、お祭りの御神輿や山車、太鼓など…歴史物に興味深くなりました。若い頃は歴史の科目は大苦手、まったく勉強もしなかったのですが…知識を蓄えたいと思い質問。御神輿は神様を祭る乗り物と伝えられてますが、昔、幕府時代、士農工商時代ですか?その頃の農家農民は貧しい生活を強いられていたので、その地域の裕福豊作を祈願する為、地域事に神社と言うものを祀り…、年貢を府に収める為、お米や穀物を沢山収穫しその一部を城下に納め、その対価として府から出来高で渡された貨幣を貰い生活していたと聞いてます。それで本題なんですが、お祭りは、春や秋の収穫時期などの時に、農民達の行事として年貢を納め対価を貰う日で、豊作な時ほど農民は喜び分かち合える楽しい日となり、神様に感謝すると聞いた事があります。それが今となるお祭り祭事で、御神輿はその年貢の対価を貰う為に神様を乗せ府からお金を貰って運んでくる御神輿と聞いた事があります。だからなのでしょうか?御神輿は神社より豪華絢爛で光輝いた作りをしてて、担ぎ手は、ワイワイワッショイセイヤセイヤと御神輿を派手に運ぶのでしょうね。みなさんの御神輿の由来、聞かせてください。また私の間違いも指摘下さい、勉強したいので宜しくお願いします。

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  • takuranke
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回答No.1

江戸時代の年貢の決定方法は、検見法(けみほう、田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する)を採用していましたが、年によって収入が大きく変動するリスクがありました。 なので、江戸中期ごろになると、定免法(じょうめんほう、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による徴収方法)がとられるようになりました。 また、米が取れない地域の一部では商品(特産品)や米以外の作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が例外的に認められていました。 年貢は今の税金なので、年貢を納めて対価を貰うということは無いですし、年貢を納めることが農民達の行事である事はありません。 豊作になると、定免法の場合は、決まった量の米を出すだけなので、残りの米は農民達(庄屋)の物になっていました、現金収入は米以外の作物や草履や蓑などを作り売っていました。 米が流通したのは武士階級が全て石高で支払われていたので(米の現物支給)、現金収入がまるっきり無く(内職している下級武士は多かった)米を売却して現金化していたからです、そのため日本では独自の相場システムが出来上がりました。 また、神社の起源が違います、元々の神社の原型は山や磐座であり必ずしも農事に関係はしていませんでした。 農事というか食物・穀物を司る女神はトヨウケビメが有名で、後に稲荷神(ウカノミタマ)と同一視されています(稲荷は稲成りの転化という説がある)。 秋のお祭りは、新穀を備えてその年の収穫を神に感謝したものです。 神輿そのものは神幸祭が起源といわれており、この神幸祭は農事には関係していません。 神幸祭は「神の行幸」の意味で、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移し(御霊をうつす)、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御のために行われたものです。 それが、収穫の時期と一致させたりして、祭りとして成立していきました、神社によっては春や秋以外にも神輿や山車が出たりします。 はっきり言って質問文の内容の全てを回答することが出来ませんので、色々な書籍を読んでくださいとしか言えません。